「ナショナリズムの根拠ー福沢諭吉の場合」

2011-06-03

このテキストについて

以下は、2011年5月28日(土)・29日(日)の両日に姫路獨協大学で開催予定の2011年度政治思想学会研究会の第3セッション「近代化とナショナリズムの政治思想」の報告「ナショナリズムの根拠ー福沢諭吉の場合」の発表原稿です。 発表は平山氏のほか長妻三佐雄氏・浜田泰弘氏によってなされる予定です。

当日の発表の様子は、音声ファイルで公開しています。

発表原稿

平山 洋

1.福沢は何かを隠している

1867年10月(以下暦年は西暦・月は太陰暦)の大政奉還までの福沢の前半生を知るための手掛かりは、わずかに残されている書簡を除けば、現在では『福翁自伝』だけが、ほとんど唯一の資料となっている。その理由は自伝の中にも記されているように、中津藩から幕府に出向していた1864年10月に、長州藩との内通を疑われた脇屋卯三郎が処刑された事件に関連して、内通の証拠となりそうな書類を福沢本人が焼き捨てたことによる。1858年10月に始まる福沢の江戸での生活については、書簡・著作・翻訳によって伺い知れるだけである。

それより前の中津・長崎・大坂時代のこととなると、もはや自伝を手がかりにして推測する以外になくなる。福沢の確認できる最初の肉筆は1855年3月に適塾に入門した際に入門帳に記した姓名が最初で、それ以前のいかなる肉筆も残されていない。これは不自然なことである。というのは、父百助や兄三之助の文書は残存している(中津の福沢家は火災にあったことがない)のに、諭吉のもののみないことになるからである。また、長崎に旅立って以降、諭吉が母順に送ったはずの手紙もないというのは、自慢の息子の手紙を廃棄するはずはないので、後年諭吉本人が捨てたと考えるのが適当である。なぜ捨てたのか? それはおそらく、自伝に述べてある中津時代の思い出が事実とは異なっていることを、福沢自身が自覚していたからである。

自伝については、時事新報連載中から、じつに面白いという賞賛とともに、文中で悪く書かれている人々を中心に、不快感が表明されていた。元幕臣で新政府にも重用された勝海舟・榎本武揚を初め、維新後は鉄道建設や初等教育に携わった小野友五郎らがその主だった人々であるが、自伝中で福沢暗殺を企てた中津の壮士として、実名は挙げられていないものの強く批判されていた渡辺重石丸もその1人である。

渡辺家は代々古表神社の神職で、自宅(道生館)は福沢家の南100メートルのところにあった。重石丸の叔母は増田久行に嫁いでいて、その子が増田宋太郎だから、重石丸と宋太郎は従兄弟である。また、宋太郎の父久行は諭吉の母順の従兄弟で、宋太郎と諭吉は又従兄弟である。つまり、諭吉を暗殺しようとした一味(この2人にさらに水島六兵衛<妹が宋太郎の妻となる>と朝吹英二が加わるが、それは後に述べる)は、もともと親戚のうえ隣近所に住んでいた人々だったのである。

この渡辺重石丸が残した貴重な記録が『鶯栖園遺稿』(未刊行)で、随所に『福翁自伝』への反論とおぼしき記述がある。その要点は、(1)自伝では不仲のように書いている家老奥平壱岐とは実は親密だった、(2)奥平壱岐・今泉郡司(当時奥平姓)・服部五郎兵衛・小幡孫三郎ら藩の若手幹部はもとより、福沢兄弟・大橋六助・水島六兵衛・渡辺重石丸ら下士や神職の子弟も野本真城の弟子なのに、自伝で真城に一言も触れていない、(3)真城の学風は算術の重視(師匠帆足万里)と尊王思想(師匠頼山陽)だったが、自伝では間接的に前者には触れているものの、主に下士の間に広まっていた尊王思想について無視している、というのである。

諭吉より一歳年少の重石丸はあるいは知らなかったのかもしれないが、福沢兄弟の父百助と真城は幼少時以来の親友で、青春時代には一緒に上方旅行をして頼山陽を訪ねているほどである。兄三之助は藩校で真城の助手となっていて、それならなおさら触れないのは不自然である。諭吉が真城について書かなかったのは、重石丸が指摘している(3)について扱いたくなかったためと思われる。

2.中津藩改革党と天保の改革

諭吉が生まれる直前の1834年夏、中津藩大坂蔵屋敷廻米方福沢百助は、加島屋からの緊急融資に成功したことによって、藩財政を破綻から救っている。この時の藩主は中津奥平家11代の昌猷であったが、前年家督を相続したばかりの弱冠21歳ということもあり、実権はその父奥平昌高(53歳・島津重豪の次男でシーボルトの友人)が握っていた。

危機は乗り越えたものの藩財政再建は喫緊の課題であるため、1835年に藩は足軽出身の黒沢庄右衛門を登用して、専売の強化・年貢の増徴そして家臣の半知借上(所得半減措置)を行なおうとした。当然藩の重役・高禄取を中心に批判が相次いだが、その反対を押し切って改革を実行しようとしたのが、家老奥平与兵衛(壱岐の父)を首魁とし、藩儒野本真城を知恵袋に、また小幡篤蔵(篤次郎父)・島津祐太郎・天能三蔵ら中堅上士層を実働員とした勢力であった。この勢力を改革党と名づける。

結論だけを言うなら、この中津藩天保改革は、7年後の1842年に重役を中心とする保守党によって潰され、黒沢・野本・小幡らは隠居させられてしまうが、時代の趨勢は彼らを見放してはいなかった。すなわち1846年夏のビッドル来航は幕府に防衛力の強化を促して、改革党の運動を後押ししたのである。それは後に述べる。

挫折してしまったものの、中津藩天保改革は、それに先行する水戸藩と薩摩藩の改革の影響下にあった。というのも、藩政改革としての天保の改革は1832年の水戸藩に始まるが、この時の水戸藩主徳川斉昭と先代中津藩主奥平昌高は、水戸徳川家分家の常陸府中藩松平家を介して姻戚関係(第9代松平頼縄の正室が昌高の娘)にあり、緊密に情報交換をしていたからである。また、薩摩藩との関係については、島津家から奥平家に養子で入った昌高は、薩摩藩主斉興の叔父として、譜代・外様、中藩・大藩の枠を超えた交際があった。水戸藩における藤田東湖(1830年郡奉行)、薩摩藩における調所広郷(1832年家老格)、そして中津藩における黒沢庄右衛門(1835年勘定方元締)の登用には連動性があった。

水戸藩の改革が成功を収めつつあるのを見て取った老中水野忠邦は、1841年に幕府でも改革を開始する。水戸藩で行われた海防城の設営に習い、防衛拠点としての江戸城・大坂城を中心に10里四方(つまり3200平方キロ)を上知(幕府直轄領)とする策を強行しようとしたところ、逆に国替えを強いられる大名たちの激しい反発に遭って、1845年に失脚させられてしまった。

これより先、1844年に、徳川斉昭は無許可軍事演習を咎められて、藩主の座を長男慶篤に譲らされた。12歳の慶篤の後見人になったのが松平頼縄で、頼縄は奥平昌高の娘婿であるから、水戸藩の内情は中津藩に筒抜けとなった。

『福翁自伝』には、中津の福沢家に集まった兄の友人たちが、江戸で見込みのある政治家たちを評する場面があるが、そこで彼らが崇めていたのが、徳川斉昭・松平春嶽(福井藩主)・江川英竜(関東総代官)の3人であったことが思い出される。春嶽と英竜はいずれも海防を重視する斉昭派ともいうべき人々で、自分たちが管轄する長い海岸線をどのように防衛するかについて、早くから協同で研究を進めていた。

自伝に描かれている酒宴の開催時期を確定するのは難しいが、江川英竜は冬でも薄着だということを噂しているので、1842年の冬に英竜の伊豆韮山陣屋まで押しかけて砲術を習得した佐久間象山から聞いた話かもしれない。江戸で開塾していた象山は、1850年から53年まで中津藩の軍事顧問になっていて、弟子は中津藩邸だけで100名ほどもいた。江戸から戻ったそのうちの誰かが福沢家で話したのだと思う。

3.福沢のナショナリズムの原型としての水戸学

自伝には中津での漢学の師匠として白石照山が主に挙げられているが、照山の師がまた野本真城であったことはどこにも書いていない。書いてあるのは照山が頼山陽の『日本外史』を批判したことで、この部分を読んだ渡辺重石丸は、山陽面授の弟子で自ら外史の仕上げを手伝った真城への面当てと受け取ったはずである。

重石丸は『鶯栖園遺稿』の中に、中津の若者の間で照山の評価は決して高くなかったこと、1847・48年の両年に真城が開いていた秣村(中津から南に10キロ)の寺子屋が閉じられてより遠方に移転したため、諭吉がやむなく近所の照山塾に入門したことを記している。

実際中津の青年層への真城の影響力は絶大だった。その学風は、気概としての尊王攘夷、内実としての数学・経済学・物理化学の重視というべきもので、まずは日本を守るためにはどうすればよいか、という問題意識が先にあった。『野本白岩遺芳』(1923年刊)によれば、日本の先人として真城が尊敬していたのは北条時宗と楠正成で、塾でも彼らについての作文が課題として出されたと推測できる。また、現世におけるこの2人の再来が徳川斉昭で、後に述べるが、1851年には自らが執筆した『海防論』を携えて江戸に行き、謹慎中の斉昭に面会を求めている。

1842年に中津藩改革党による藩政改革が失敗してから、44年には徳川斉昭の隠居、そして45年にはその斉昭を処罰した水野忠邦まで退陣と、幕府諸藩の天保の改革は相次いで挫折したが、国際情勢は日本に安閑とするのを許さなかった。1846年夏のビッドル来航は、53年のペリー来航とは違い民衆の目に触れなかった。そのため幕府は一見泰然としているかにもみえたが、中は大きく動揺していたのである。

アヘン戦争で清国が英国に敗北したのは4年前のことで、次は日本か、と内心怯えていた。そこで水野の失脚により若くして老中首座となった阿部正弘は、謹慎中の斉昭に密かに協力を打診、以後2人は書簡により意見交換を開始した。それらの書簡は、『新伊勢物語』という書簡集に纏められている。

米軍艦が来た以上、もうなりふり構ってはいられない。阿部老中は海防掛(国防大臣)を兼務したものの、配下に適切な人材がいなかったため、国防の方策は謹慎中の斉昭に丸投げされることになった。結果として前々から水戸藩が申請していた大型砲艦建造の研究が認められたうえ、1849年12月には、諸藩で海防を厳重にするべしとの通達が出された。

その翌1850年2月に海防通達施行細則ともいうべき文章(「伊勢守口達覚」)が諸藩に送られ、各城下の札場に掲示されたのだが、これがなかなかの名文である。『扇城遺聞』(1932年刊)には、中津城前に掲示されたその原文が掲載されている。

日本国中にある所、貴賤上下となく、万一夷賊共御国威をも蔑にしたる不敬不法之働き等あらば、誰かは是を憤らざらん。然からば則ち日本全国之力を以て相拒み候趣意なり。被相弁候はば、諸侯は藩屏之任を不忘、御旗本之諸士御家人等は御膝元に御奉公を心掛、百姓は百姓丈、町人丈、銘々持寄り、当然之筋を以て力を尽し、其筋々之御奉公致候義、是二百年来昇平之沢に浴し候御国恩を報ずる義と、厚く心懸候得者、即総国之力を尽し候趣意に当り候間、沿海之儀は相互に一和之力を被申候。(「伊勢守口達覚」部分)

おそらくはこの細則を目にしたのをきっかけとして、真城は論文『海防論』を執筆、翌1851年2月に江戸に赴いて斉昭に面会を求めた。その内容は、真城の師でもある帆足万里を登用して西洋式軍艦を建造して国防を強化し、将来は西洋諸国と覇を競うべきだ、というものであった。「伊勢守口達覚」とは阿部正弘の訓令を書写したということだから、真城が斉昭と会おうとするのは少しおかしいのだが、それくらい「海防ならば斉昭」という印象が、当時の日本にはあったということであろう。

細則の文体も水戸調とでもいうべき扇情的なもので、人を鼓舞する調子がある。起草者が誰であるかはこれだけでは分からない。会沢正志斎(68歳)の文にも藤田東湖(44歳)の文にも似ているといえば似ている。そればかりではない。私には、「道のためには英吉利、亜米利加の軍艦をも恐れず、国の恥辱とありては、日本国中の人民一人も残らず命を棄てゝ国の威光を落さゞるこそ、一国の自由独立と申すべきなり」という『学問のすすめ』初編(1872年刊)の一節にまで通底しているように思われる。

先にも触れたように、中津藩は海防通達公布直後の1850年に象山を軍事顧問に迎えて西洋式砲術の訓練を始めていて、真城の江戸行もその動きと連動している。諭吉の周辺がにわかに騒がしくなったのはこの時以降で、一旦は勢力を衰えさせていた中津藩改革党は、その目的を財政再建から軍事力増強に替えて、再興されることになったのである。非常時には下の階層の発言力が強まるものだが、幕末においては、その始まりは通常誤解されがちなペリー来航の年1853年ではなく、1850年だったのである。

4.真の愛国とは何か-実学派と尊王派の抗争

斉昭との面会が果たせぬまま豊前白岩村(中津南東30キロ)に帰った真城が死去したのは1855年のことである。この時点では真城門下生は一丸となって藩兵の近代化に邁進していたため、改革党内の派閥抗争はなかったようだ。1858年の条約勅許問題と将軍継嗣問題も、改革党の立場は一橋派諸大名と同様であった。ただし中津藩士が何らかの策謀に同調していた気配はない。

中津藩で改革党を指導していた奥平壱岐が江戸家老に就任したのは1858年春のことで、壱岐はさっそく大坂の適塾でオランダ語と砲術の修業をしていた諭吉を招いて邸内に塾を開かせた。慶應義塾の濫觴である。それまで藩兵を指導していた佐久間象山は54年に吉田松陰密航未遂事件に連座して信州の国元で謹慎となっていて、砲術調練は象山の高弟島津文三郎(後に福沢夫妻の媒酌人)に任せた。また幕府立長崎海軍伝習所には浜野覚蔵(定四郎慶應初代塾長の父)が入学している。

改革党内で意見に相違が出てきたのは、井伊直弼が暗殺され、徳川斉昭も死去した1860年より後、幕府内で一橋派が復権しつつあるときだった。これは中津藩に限らず、水戸藩・長州藩・薩摩藩でも見られた現象だが、もとはといえば斉昭の次男慶喜の将軍就任を目指していた一橋派のうち、幕府の枠内でも発言が確保できる上層と、それではもとの軽輩のままになってしまう下層に利害の不一致が出てきたのである。62年以降上層が公武合体派(実学派)となり、下層が尊王攘夷派となった。

中津藩で改革党が主導権を握って後、奥平壱岐・今泉郡司・服部五郎兵衛・福沢諭吉ら実学派(主流派)の増長に「面白くない」という思いを抱いていたのが、主に国元にいた下士身分の尊王派だった。1863年3月、水島六兵衛・岡本小弥太・浅沼総之助ら下士15名が連署して、江戸家老奥平壱岐の罷免を城代家老に要求した。理由は、壱岐が、第12代藩主昌服の養子に宇和島藩主伊達宗城(公武合体派の大物)の息子を入れることで、藩政を牛耳ろうとしている、というのである。その顛末は、5月に壱岐の家老引退、水島らの減禄の裁定が下されて痛み分けとなり、1862年6月に長州藩で起こったような藩内クーデターは不成功に終わった。水島らの期待も空しく家老職は保守党の手に帰して、以後中津藩政はますます幕府に従属的となった。

福沢諭吉は非愛国者で尊王心のかけらもない、という風聞を世間にまき散らしたのは、水島ら壱岐を失脚させた尊王派の人々である。諭吉本人としては、真城の、また斉昭の教えを忠実に守って国防力を増強しようとしている自分たちの愛国心を疑われる筋合いはない、それに1862年以降は斉昭の遺児慶喜が幕府の指導をしているのだから、幕府に従うことは同時に尊王ともなるはずだ、と反論したいところであろう。

諭吉の身分は、1860年11月に中津藩士のまま外国方に採用、64年10月に幕府直参旗本となり、66年7月の慶喜の徳川本家相続によって正式に彼の家来となった。慶喜の父斉昭の主義は尊王敬幕といって、両者をともども奉るという立場だった。その考えは水戸弘道館の学者たち、石河明善(幹明の叔父)や原市之進(藤田東湖の従弟)に引き継がれ、幕末の江戸にも広まっていた。1863年に一橋家に移籍し慶喜の側近となった原と諭吉とは交流があったはずだが、諭吉は自伝でそのことに一言も触れていない。ただ、「大君のモナルキ」について述べた書簡(1866年10月)からは、諭吉が慶喜側近(元水戸藩書生党員)と似た考えをもっていたことがうかがわれる。

一方真城亡き後の中津藩改革党尊王派はどうかといえば、心情的には長州藩正義党(高杉晋作ら)や水戸藩天狗党(藤田小四郎ら)に近い、幕府を乗り越えての新たな政権樹立に期待を抱いていたのだった。彼らは渡辺重石丸のもとで主に国学を学び、その周辺により若い増田宋太郎や朝吹英二らが加わることになった。壱岐の追放後、彼らは諭吉の命を狙っていたのである。

自伝には「暗殺の心配」という章がわざわざ設けてあって、諭吉がどのように命を狙われたかが書いてある。そのうち維新後の東京で発覚した計画は、『学問のすすめ』と『文明論之概略』に関する誹謗がもとで、首謀者は中津藩関係者ではない。その章の大部分を占める維新後の1870年11月に起きた中津での暗殺未遂事件は、尊王派が諭吉の帰省を狙ったものである。それは、京都にいた渡辺重石丸が中心となり、当時は配下だった朝吹英二を途中の大阪まで派遣しながら失敗、帰省後は増田が福沢家まで押し掛けたが服部五郎兵衛がいて失敗、城下南部の下士屋敷街にあった水島家で、六兵衛や増田が大声で謀議をしていたら、隣の中西与太夫に咎められて失敗した、というのである。

なぜ渡辺らはそうまでして諭吉の命を奪いたかったのか。それは尊王派と諭吉ら実学派が、最初から別の道を歩んでいたからではない。そうではなく、おそらくは同じ真城門下生として、かつては北条時宗や楠正成を礼賛していた仲間だったからなのである。尊王派が実学派を、「皇道の理想にもとる裏切者」となじれば、実学派は尊王派を、「攘夷の直接行動主義はかえって国を危うくする」と反論する。両者の愛国心はともに本心からのものであり、しかも、どこまでも行き違ってしまう。そして決して調停されることはなかったのである。(了)