2011 年 06 月 22 日付管理人への E メール「米原謙氏に答える」

last updated: 2015-03-12

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2011 年 05 月 29 日(日)に姫路獨協大学で開催された政治思想学会のセッション「近代化とナショナリズムの政治思想」での平山氏の発表「ナショナリズムの根拠ー福沢諭吉の場合」に対する米原謙氏(大阪大学)の「討論」と、それに対する平山氏の回答についてのメールが管理人の元に届きました。平山氏からの転載の許可が得られましたので、こちらに掲載します。

メールの内容

はじめに

もう1ヶ月近く前になりますが、政治思想学会で発表をしてきました。その発表原稿についてはすでにサイトにアップしてある通りですが、おそらく貴君の関心は、この発表に対する聴衆の反応はどうだったか、について向いていることでしょう。そこでその点についてお知らせします。

政治思想学会のセッションには「討論」という制度があります。これは一般の学会では「指定質問」と呼ばれているもので、当該問題の専門家が発表についてコメントを加えて、発表者に回答を求める、という仕方でなされます。私の発表への討論者は大阪大学大学院教授の米原謙氏でしたが、氏はかつて拙著『福沢諭吉の真実』をホームページで紹介・批評された方です。

以下で「討論」の内容を紹介しますが、著作権を侵害しないように配慮しました。そのため文責は平山にあります。

米原謙(討論)

このセッションのテーマは近代化とナショナリズムの政治思想というものだった。発表の内容がテーマに沿っていなかったのは残念である。そのため内容について貶さざるをえない。

一般にナショナリズムについては、健全なナショナリズムから侵略的ナショナリズムへと転化した、という考えが受け入れられている。ところが、この2つのタイプのナショナリズムの関係についての説得的な説明は未だなされていない。

丸山真男は福沢の思想を自然法や国際法を尊重する健全なナショナリズムの範囲内でのみ解釈しようとした。だが、その見解には無理がある。というのも、福沢は明治維新までに3度も欧米を訪問していて、西洋諸国のアジア侵略の手口を熟知していたからである。欧州歴訪から帰国後、福沢は外交文書の翻訳により一層深く携わっているが、そこには外交のリアリティというべきものがある。福沢は自然法的な綺麗事では済まされない国際政治の現実を教訓として得ていたはずで、「理のためにはアフリカの黒奴にも恐れ入り」(『学問のすすめ』初編)というような自然法的理想を信じていたとは思われない。

福沢の思想のテーマは、最初から、中華的世界からの離脱と西洋への接近にあった。福沢は西洋的作法を完全に身につけていて、その視点からアジアを見ようとしている。また、彼の考えの根底には常に、西洋から自分たちがどのように見られているか、すなわち西洋の視点に注意せよ、という問題意識があった。平山発表では「脱亜論」だけが取り上げられていたが、その他の多くの論説で福沢は同様の意見を表明している。

福沢のアジア観全般についてはここまでとし、以下で平山発表についての意見を述べる。

平山発表は、まず第一に福沢のナショナリズムの原点に水戸学があったことを指摘している。おそらくそれ自体はそうなのであろうが、その指摘が本セクションのテーマとどのように関係しているのかが不明である。それは日本の近代化に寄与したのか、そして、水戸学受容が福沢のナショナリズムを健全なそれから侵略的なそれへと変質させたのかについて知りたいと思う。

また、第二に、水戸学の思想構造と福沢の思想構造がどのように係わっているかの分析がほしい。水戸学のある文献と福沢のある著作の類似の指摘だけなら、それは「点」同士の連結にすぎない。「面」(思想構造)相互の結びつきを示すことがなければ、福沢のナショナリズムの根拠として水戸学があるとはいえない。さらに、平山発表は明治維新前の福沢の真筆があまり残されていないように述べているが、実際には外交文書や「長州再征に関する建白書」(全集第 20 巻所収)などが残存している。とりわけ後者で福沢は徳川慶喜に「長州再征を外国の援助によってでも実現するべきだ」と働きかけているが、こうした便宜主義はあくまで名分を主眼とする水戸学の立場とは相容れないのではないか。

一方、第三に、福沢の思想で看過できないこととして、西洋に対抗するためにはキリスト教を排撃しなければならない、という強い主張がある。平山発表では触れられていなかったが、この発想の根底には水戸学があるのではないか。水戸学の尊王思想が含んでいるキリスト教排撃は福沢の思想に影響を与えているように思われる。

以上、平山発表には、福沢の発想の根底にあるという水戸学が、彼のナショナリズムと構造上どのような関係があるのか、そしてそれが侵略的ナショナリズムに向かうきっかけとなったのかについて回答を求めたい。


この米原氏の「討論」についての「回答」は、添付した音声ファイルの通りです。ただ、口頭での応答というのは、まさにその場でなされるものなので、舌足らずなところや言い間違い、また無意味な繰り返しがあります。そこで次に、音声ファイルの不備を修正した「回答」を掲げます。

平山洋(回答)

一番最初の問題設定の取り違えはあったように思う。ただ、期待していたような答えが得られないから発表自体が無意味だと考えるのだとすれば、それは間違っている。

ナショナリズムは日本の近代化に寄与したかどうかということなら、それは確かに大きな貢献をしている。「富国強兵」というスローガンは、水戸学から発せられ、主に薩摩の島津斉彬によって喧伝された。もとは西洋諸国からの侵略に対抗するための軍事力の増強を意味していたが、その方針によって増強された薩長の藩兵によって幕府はうち倒され、彼らによって組織された明治政府は、同じ「富国強兵」を産業化社会建設のためのスローガンに転用した。その流れを見る限り、ナショナリズムは日本の近代にプラスに作用した。

ただ私が疑問とするのは、そうしたナショナリズムに良い悪いがあって、最初は良かったが後で悪くなった、というような、セッション企画者が当然の前提としている主張自体に対してである。たとえば、米原謙・長妻三佐雄編の『ナショナリズムの時代精神ー幕末から冷戦後まで』という本がある。私なりに要約するなら、そこには、ナショナリズムの言霊のようなものが、良きものから悪しきものへと変質したことにより、日本が侵略戦争に突入した、と書いてある。この本の、ナショナリズムには時代精神がある、という前提自体が、私の理解を超えている。

個々人がもつナショナリズムのあり方と現実の国家の政策に、実際のところ連関性は見られない。良いナショナリズムが悪いそれに転化した時期というのは、私には納得できないものの、時代精神の立場からいうならば、早くは明治 6(1873)年の征韓論争、遅くは昭和 6(1931)年の満州事変勃発までのいずれかの時期になるらしい。しかし同時代の新聞雑誌の記事を検討してみたとき、いずれの時点を分岐点とする場合でも、その前後で個々人のナショナリズムに変化が生じたことを確認することはできない。もともと別の主張をしていた人々、たとえば戦争回避派と積極派の発言力が、偶発的に生じた政治的危機にあって攻守を逆転させただけなのである。

さらに言うなら、時代精神の立場の主張者は、全体として日本の近代は悪いものだった、という評価を下しがちである。これは戦後日本社会の思潮を支配してきた左翼思想の焼き直しである。私も日本の国策がある時点から国際社会の許容範囲を超えたということに同意するが、それは満州事変以後のことである。しかも、その後の経過を見ても、日本だけが悪かったというわけでもない。時代精神の立場をとると、満州事変以後の日本には悪しきナショナリズムが充満して大戦争へと日本国民をけしかけた、という歴史理解になるが、それは当時の実状からはかけ離れたものである。

水戸学を面として捉えるべきだ、という米原の批判については、確かに全体的把握として弱い部分があることは認める。とはいえ、「長州再征に関する建白書」(1866 年)の中で「パワ・イズ・ライト」と同じことを言っているから水戸学の名分論にもとる、というのなら、それには反論したい。当時の幕府の首班は事実上徳川慶喜であり、それまでも彼は水戸学者である平岡円四郎や原市之進(藤田東湖の甥)や豊田天功、また石河明善(幹明の叔父)らの支援を受けて、孝明天皇の「叡慮」に背かぬように政策を進めていた。旗本となった福沢は彼らと交流があったはずで、名分論への配慮にもおこたりはなかった。「長州再征に関する建白書」についても、長州征伐は朝命によるのだから、その目的を実現するための建白に名分が立つのは当然のことである。

米原は福沢のアジアへの見方が不当だというが、福沢は当時の政治状況からいって当然のことを言ったまでだ。「脱亜論」(1885 年)は、同じ年に発表された「朝鮮独立党の処刑」「朝鮮人民のためにその国の滅亡を賀す」と同様に、甲申政変後の朝鮮や清国の政府を批判した立派な論説である。また米原は、福沢が西洋的視点をもつことを批判しているが、逆にアジア的視点をもつとはどういうことなのか、そのことについて問いたい。現実問題としてアジア全般に近づく、などという漠然とした政策はあり得ないのだから、結局、当時の日本政府はアジアの代表国である大清帝国の政策に従うべきだった、と米原は言っていることになる。(米原より「そんなことは言っていない」との異議あり。)

福沢が評価していた西洋文明とは、21 世紀の今日にまで引き継がれている人権の尊重や国際法の順守などで、いわゆる帝国主義に対してはしばしば否定的である。また、福沢とはっきり確認できる論説の中で、彼は領土の拡大が必要との主張をしていない。これは福沢の国家構想からいって当然の帰結で、というのも、彼は原料を輸入して製品を輸出するという産業立国を目指していて、そのために新たな領土は必要ないからである(「亜細亜との和戦は我が栄辱に関わるなきの説」参照)。福沢が西洋的価値観に立脚していたのは事実であるが、だからといって帝国主義を肯定していたという結論を導くことはできない。

服部之総や遠山茂樹また安川寿之輔の主張、すなわち福沢が晩年には悪しきナショナリスト(帝国主義者)に変質した、という主張がまことしやかなのは、現に歴史が日本による台湾領有と韓国併合へと向かった、という、今となっては過去の歴史的事実があるからである。その主張は左翼歴史家の頭の中にあるストーリーに合わせて福沢の言動を切り取ったもので、カール・ポパーのいう歴史の後知恵、すなわち歴史決定主義にすぎない。


記憶というのは曖昧なもので、答えたとばかり思っていても、実は答えていなかった、ということがあります。私は米原氏の第3の質問、すなわち、福沢のキリスト教排撃論は水戸学に由来するのではないか、という問いに答えていたつもりだったのですが、音声を聞き直してみたら触れていませんでした。そこで最後にそれに答えましょう。

福沢が明治 10 年代まで表明していたキリスト教排撃論が水戸学に由来するのは、私も間違いないことだと思います。ただ福沢はキリスト教を押し立てて文化侵略を行おうとする西洋諸国の政策に反対していただけで、個々のキリスト教徒を排除しようとしたわけではないことにも注意が向けられるべきです。英国人宣教師アレキサンダー・ショーは避暑地軽井沢の発見者として有名になっていますが、明治 6(1873)年に来日後、福沢家の住み込み家庭教師として、福沢一家とは家族同様の交際をしていました。慶應義塾でも倫理学の授業を担当していたし、同時期に福沢が執筆していた『文明論之概略』には、東西文明についてのショーとの討論が反映されています。べつにキリスト教徒が憎かったのではなく、一部西洋諸国の対外政策が気にくわなかっただけなのです。

日本の文明化が進行するにつれて西洋諸国の脅威が薄れてきたためか、福沢はキリスト教が道徳教育上有意義であることに気づきます。明治 20 年代の福沢は、キリスト教に反対するどころか、ユニテリアン運動のよき理解者・支援者となるのです。