「石河幹明入社前『時事新報』社説の起草者推定―明治一五年三月から明治一八年三月まで―」

2013-10-28

このテキストについて

平山氏が10月20日に日本思想史学会2013年度大会(東北大学)で行った個人発表 の発表原稿・参考資料・パワーポイント画像を、平山氏の了解のうえアップロー ドします。

発表原稿中のマル入り数字の社説については「参考資料」の「Ⅱ 推定福沢直筆社説42日分」を参照してください。 そこから各社説のページにリンクを張っています。

発表原稿

(スライド1) 
                  石河幹明入社前『時事新報』社説の起草者推定
                    ―明治一五年三月から明治一八年三月まで―
                                        
                                                    平山 洋(静岡県立大学)
(スライド2)
 この発表は、2001年、2012年の本学会大会発表に引き続いて、3度目の『時事新報』無署名社説の起筆者推定に関する発表です。まず報告が一つあります。昨年の学会発表が功を奏したのか、本年4月に科研費が採用されました。審査をしてくださった先生に大変感謝いたします。研究費として使えるのは3年間で約300万円ということで、起筆者推定について、この3年間でめどをつける予定でおります。
 現在行っているのは、昨年の発表で予告しましたように、社説の画像ファイルからテキストファイルを起こす作業です。明治15年3月の創刊から、明治31年9月の脳卒中の発作までの16年半のうち、すでに最初の4年分のテキスト化が終了しています。今回の発表で扱うのは、石河幹明が入社するまでの明治18年3月までの3年1ヶ月分で、テキストファイルに起こした社説は338日分、これらはすべて発表者のサイト「平山洋の仕事」で見ることができます。
(スライド3)
 テキスト化がされている、ということは、私のホームページのサイト内検索の機能で、語彙検索が可能ということです。井田メソッドは、福沢に特徴的な語彙や文体をもとに各社説への福沢の関与の度合いを測る、というのが基本になっています。従来までは人の目で行っていたことを、コンピューターが代行してくれるということで、このテキスト化により作業の効率化が図れるようになりました。
 ただし、何が福沢に特徴的な語彙か、こうした語彙を福沢語彙と呼びますが、それは依然として判定者の判断に基づいています。
(スライド4)
 ある言葉が福沢語彙であるためには、まず第1に署名著作にその語彙の使用例が存在すること、次いで第2に、福沢を除く起草者が使用していないこと、これら二つの条件を満たす必要があります。第1については慶應義塾のホームページ内にあるサイト「デジタルで読む福沢諭吉」に署名著作がすべて公開されていて、語彙検索が可能になっています。資料で一覧になっている語彙はすべて署名著作でも使われていることは確認済みですが、第2、つまり弟子が使っていなかったことを確かめるのは容易ではありません。
 というのは、福沢を除く起草者の署名著作すなわち非福沢著作を網羅的に調査するのは不可能であるため、その起草者がその語彙を「使っていなかった」ことの証明をするのは困難だからです。とはいえ、できるだけのことをするという方針から、非福沢著作(『中上川彦次郎伝記資料』所収の伝中上川著作、波多野承五郎著『高山彦九郎』(明治二六年)、高橋義雄著『拝金宗』(明治二〇年)、渡辺治著『警世私言』(明治二三年))に上記の語彙が出現するかどうかを調査しました。現在のところ報告者が福沢語彙として抽出した用語は発見できておりません。
 いずれにせよ判定についての恣意性の問題からは逃れることはできないのは明らかです。また、発表者もそうした批判に答えないといけないと思っています。
 そこで井田メソッドに批判的なのは、管見によれば、安川寿之輔氏・都倉武之氏・杉田聡氏・山田博雄氏らです。その批判の骨子を要約するならば、表記や表現のぶれは誰にでもあるのだから、草稿が存在しない社説の起筆者を推定するのは不可能である、ということです。
(スライド5)
発表者もまたその限界については承知していて、井田メソッドを考案した井田進也氏よりも限定した適用をしています。というのも、井田氏は、同じ一つの社説内で、福沢が書いた部分がどこからどこまでで、弟子が書いた部分はどこからどこまでと、かなり微妙な判定を行っています。しかし、発表者はそこまで区別できるかどうかについては疑問をもっているのです。
 発表者の見解はこうです。福沢が全部を書いた社説と弟子が全部書いた社説の区別はできる。また、福沢と弟子の合作については、合作であることを指摘は可能だが、それが福沢の思想なのか、弟子の思想なのかを、文面から区別することはできない、ということです。
(スライド6)
 では福沢の直筆社説ならば判定できる、としてどのようにすれば分かるのか、それを以下で説明します。
 語彙と文体による推定とはいえ、語彙についてはコンピュータの検索機能によって調べることができますが、文体的特徴をデータ化して解析するのは難しいです。現在図書館情報学の研究者である上田修一氏と安形輝氏が文体の特徴を数値化する方法を模索中ですが、実用化にはいたっていないとのことです。文体の特徴をも加味した推定は後の課題とすることにして、今回は主に使用語彙を検討することで起草者を探ることにしました。
 起草者推定作業は、(一)起草者語彙の選定、(二)語彙使用社説の抽出、(三)推定起草者の判定の順に進行します。
 まず(一)起草者語彙の選定については、井田進也氏の研究を参考にしつつ、報告者が特徴的と見なした語彙を随時増補しました。新たに特徴的な語彙が見つかれば、それを検索することで、別の語彙との使用状況を確認できます。その語彙を起草者語彙と見なしてよいかどうかのあたりがつくわけです。
(スライド7)
 ついで(二)語彙使用社説の抽出として、「朝鮮政府」「支那政府」「韓廷」「清廷」の使用について考えて見ましょう。福沢と中上川とはっきり分かっている著作中での使用状況は、このスライドの下半分に書いてあります。福沢の署名著作では使用例のない、しかも中上川とはっきり分かっている社説には用例がある「韓廷」は中上川語彙としてよいでしょう。この「韓廷」と福沢語彙である「朝鮮政府」との重複使用を検索すると、13日分の社説が抽出できます。これらは合作の可能性が高いわけです。同様に中上川語彙である「清廷」と、ともに福沢語彙である「支那政府」「満清政府」について調べると、「清廷」(25日分)、「支那政府」(79日分)という結果となります。ちなみに「清廷」と「支那政府」の重複使用は14日分です。この「清廷」と「支那政府」の混用14日分は合作と推定できます。
 ところが、調べてみると「清廷」のみが使用されている場合でも、「支那政府」以外の福沢語彙が使われている場合がある場合があります。そうなってくると「清廷」が使われているからといってその社説を中上川単独の起草とすることはできないわけです。
 こうしたことが推定起草者の判定を難しくしているのです。
(スライド8)
 そこで(三)推定起草者の判定が問題になってきます。(一)(二)が機械的に進めることができるのに対して、どうしても人間的要素が絡んでしまいます。
 前石河社説群中テキスト化済み338日分は、次の4通りに区分できます。すなわち(1)福沢語彙のみが検出できる社説146日分、(2)福沢語彙と非福沢語彙の両方が検出できる社説93日分、(3)非福沢語彙のみ検出できる社説37日分、(4)いずれの語彙も検出できない社説62日分に区分できます。これらの区分はそれぞれに排他的で、重複する社説はありません。
 この福沢語彙のみが検出できる社説146日分を福沢直筆社説候補としてよいのではないでしょうか。しかしこれでは多すぎる、と思います。
(スライド9)
 さて、前石河社説群全930日分のうち明治版所収60日分、大正版所収140日分、昭和版所収235日分、福沢直筆草稿発見済21日分を加えると456日分となります。これらに加えてさらに福沢が全部書いた社説がテキスト化された338日分のうち中146日分もあるというのは、いかにも多すぎるようです。全集にすでに収められている456日分に146日分を加えると、社説総数の3分の2を超えてしまうからです。かくも膨大な数になってしまったのは、弟子との合作社説が福沢語彙のみが検出できる社説群に混入しているため、と推測できます。福沢直筆を抽出するにはもう一工夫が必要なわけです。
(スライド10)
 これら福沢語彙のみが検出できる146日分の社説1編に含まれる福沢語彙は、1語から6語まででした。含まれている福沢語彙の数が多いほど信憑性は高まるでしょう。そうなるとそのうち52日分については1語を含むのみですので、そこに福沢直筆がないとは断言できないものの、弟子の下書きへの加筆に福沢語彙が含まれていた可能性が高いのではないでしょうか。逆に3語以上含まれている社説が41日分あり、その中には本人以外には書けない福沢の経験が語られている社説として「文明の進路を遮ることなかれ」(18830806)、「黒船打ち拂ひ」(18840910)、「支那帝國に禍するものは儒教主義なり」(18850318)の3日分ありました。さらに新発見の書簡により直筆と判明した社説が「数學を以て和歌を製造す可し」(18840111)の1日分あります。このようにふるいにかけることで146日分を42日分にまで絞ることができました。
(スライド11)
 それら42日分の社説の一覧は資料の通りです。判定のための決め手となった福沢語彙も示してあります。
 前節に掲げた社説42日分を一瞥して、大正版・昭和版・現行版と3度に及ぶ社説採録事業が実施されたにもかかわらず、福沢健全期全体の5分の1にも満たない創刊以来3年1ヶ月という短い期間に、すでにこれだけの推定直筆社説があるという事実を受け入れられない向きもあることと思います。
 とはいえ昭和版刊行以後80年の間に21日分の直筆草稿が出てきているのだから、草稿が残らなかった直筆社説がさらに40日分以上あるとしても不思議ではないわけです。
(スライド12)
 これら42日分の社説について概説するなら、創刊当初の明治15年(1882)3月から8月までは、前年の明治14年10月に発せられた「国会開設の詔」を受けて、来たるべき議会政治についての提言を行っています。詔によって明治22年の議会開催が確約されたが、国民はそれまで安閑としていてよいわけではなく、国家の主体としての自覚を高めないといけない、そうでないと維新前のような、ただ政府に牧せられる存在になってしまう、というのです。
 その前提として必要なのは言論の自由でありまた自治の精神であるという主張が①②④⑥⑦⑧⑨で展開されています。
 そのうち①は半月後に連載が開始された署名著作『時事大勢論』(連載18820405~18820414)の、②は5月から連載され、当局の圧力で刊行できなかった『藩閥寡人政府論』(連載18820517~18820617)の原型になっています。また④は議会政治を見越して当局の肝いりで作られた立憲帝政党を批判した社説で、昭和版所収の「立憲帝政党を論ず」(18820331、18820402)の続編です。政党が皇室の名を騙ると天皇の政治責任を惹起しかねないという危機意識は、『帝室論』(連載18820426~18820511)を導いています。
 また⑥⑦⑧は、それまでの福沢の立場からはあるいは意外かもしれませんが、選挙によって地方の首長を選ぶようにしても、その首長は中央政府に従属してしまう可能性が高いので、導入は時期尚早だという結論になっています。ではどうすればよいのか、という疑問に答えようとしたのが⑨で、その後の『時事新報』のモットーとなっている官民調和の必要を説くものです。
(スライド13)
 明治15年7月に勃発した朝鮮壬午軍乱によって、明治7年に結ばれた江華島条約以来の日本の対朝鮮政策は無効になってしまいます。文明の形だけを無理強いしても反発を招くだけだからまずはその精神の理解を得るところから、というのが福沢の考えで、⑩では朝鮮人に西洋実学の主義を移入するように努めるべきだ、という提言がなされています。それは当初はソウルに慶応義塾の分校を設ける試みとなりましたが、明治16年春には頓挫して、代わりに多数の朝鮮人留学生の慶応義塾への受け入れへと変更されました。
 日本人の政治意識の低さが国会設置という国民への権力委譲の機会を無効にしかねないという危機意識によって、⑪⑫⑬⑰⑱では政治思想を深めることの重要性が説かれています。そのうち⑰には福沢の個人的経験が語られています。

「米國の使節水師提督ペルリが我日本に渡來し時の政府德川幕府に迫りて外國貿易を承諾せしめたるは嘉永六年の事にして今を距る三十年の昔に在り。爾來我日本の民情は漸く變化して漸く其歩を速め明治維新廢藩置縣の大變化と爲りてより以來は沛然との水の方に至るの勢を成し遂に今月今日の天地を現出するに至りたり。今日より顧みて昔を見るに嘉永六年以前の日本と以後の日本とは全く別天地の觀ありて些との相似寄りたる俤だにもなき有樣なり。然るに此内國の變化と同時に全世界の文明は嘉永六年以來長足の進歩を爲し月に日に新にして又新ならざるはなし。例へば天下の名城に羽翼を附し自在に世界を橫行するものと稱する彼の甲銕軍艦の如き嘉永六年には全世界中に一隻もなかりし、支那日本を始め東洋諸國と歐洲との徃來航路を二三乃至五分の一に減し東西洋交通の有樣を俄然一新したるスヱスの堀割は嘉永六年には尚ほ未た世にあらさりし、嘉永六年には日本に在て歐米諸國の知人と通信すべき電信線の接續なかりし、嘉永六年には二週間前後の日を費して日本より米國に達することを得る快駛の郵船なかりし、嘉永六年には米國の大陸を東西に横斷して交通上に大便益を興るの銕道なかりし、其他傳話機の如き電氣燈の如き三十年も前になくして今日世界文明の大機關として現出しあるものを計ふれば實に枚擧に遑あらざるなり。世界文明の進歩實に斯の如く甚た迅速なり故に我日本が此三十年の間孜孜として文明の歩を追ひ一日の懈怠なかりしと雖とも試に眼を放ちて自國の外を見れば曩きに喜びし所の嘉永以後の變化も尚ほ其甚た淺小なるを憾むるの情なきにあらず。我輩は此三十年間我日本の文明を進むるがために艱難辛苦を顧みざりし諸老先生に對して常に其勞を謝するのみならず其恩を感することの深き實に蒼海も啻ならずと雖とも我輩又諸老先生の擧動を見て心竊に樂まざる所なきにあらず。嘉永以來社會の局面に當りて日本國民の幸福を推前し來りたる諸老輩の人々を見るに何れも皆文政天保弘化年間の人にして十分に嘉永新紀元以前の空氣を呼吸し居る者なるが故に紀元以後文明の諸事物を採用するに當て幾分か踟躇する所なきにあらず。既にこれを採用することに决して又これを廢せんことを希ひ施行中途にして忽ち又其利害如何を疑ひ自から其種を播して其苗の發育を忌み急なるべきを緩にし緩なるべきを急にし憂ふべきを喜び喜ぶべきを憂へ無用の勞作に其心身莫大の力を消費するの跡なきにあらずために日本全國の大計上に蒙る所の損害は實に計量すべからざるものたるや甚た明なり。」

 思わず読み続けたくなるような名文で、嘉永6年の世相が活写されているうえ、「甲銕軍艦」という福沢が第2回渡米で購入の手伝いをした軍艦のことが記されています。なぜこれほど福沢らしい文章が全集未収録になっているのか、不思議な気がします。
(スライド14)
 また⑭⑯⑳では、経済力を高めるために物資輸送の有力な手段である鉄道の敷設は無理をしても優先させなければならないことが書かれています。
 このうち⑭は発表者が選定した福沢語彙6つを含んでいる社説ですが、それがどのようなものであるか、実際に読んでみるならば、

「交通即ち文明開化なりとは我輩の持論にして交通とは人の智見を交換し有形無形のものを相互に通することなり。先進の學者が後進の輩を導き、家の父兄が其子弟を教訓し或は學術の會議討論の如き或は集會談話の如き皆交通の法にあらざるはなし。其人生を益するの大なるは世人も普く許す所なりと雖とも元來交通なるものは獨り高尚なる學問社會のみに止まるの限に非ず。一事一物至極通常のものたりとも之を知て人を益せざるものなし。道を行くに捷徑を知り、物を見て其名を知り、人に逢ふて其履歴を知り、他郷に遊て其地理を知るが如き何れも人生必要のことにして决して之を等閑に附す可らず。况や商賣工藝の事に關しては物品生産の地を知り、其製造の法を知り、其器械を知り、其人物を知り、其製法の精粗、其時價の昂低、其運輸の方法、其賣買の手續等之を詳明するに非されば忽ち人の營業上に差支えを生す可し。啻に營業者のみ然るに非ず。身躬ら商工に非ずして唯商工の物品を消費する人にても以上枚擧する件々の大略を知るに非されば以て文明の世界に居る可らず。今の世の中は昔に異なるものと知る可きなり。」

ということで、『学問のすすめ』の一節か、というくらいに調子のよい文章です。
(スライド15)
 さて、キリスト教の拡大に懸念を示していた福沢が、「宗教も亦西洋風に従わざるを得ず」(18840606、18840607・昭和版所収)によって態度を豹変させたことはよく知られています。その理由は現行版『全集』の「時事新報論集」を掲載順に読んでも理解困難なのですが、未収録の㉓によって、その転換はフェアな競争は何よりも優先されるという考えに基づいていたことが明らかになりました。経済活動における競争の重要性については福沢が幕末以来提唱してきたことですが、それを布教活動にまで拡大させたのでした。キリスト教の浸透によって日本古来の信仰が滅びてしまうならば、それは歴史の必然にすぎず、そうなる危険性があるからといって布教の自由を認めないのはアンフェアだ、というのです。
(スライド16)
 さて、明治17年は8月にとうとう清仏戦争が勃発、12月には朝鮮で甲申政変が起こって日本外交にも多大の影響がありました。まず㉖㉗㉘㉚㉛が清仏戦争に関わる社説です。このうちでは㉗が『福翁自伝』とのかかわりで興味深い社説です。

「言少しく冗長に属すれども我日本國の舊事を記せんに今を去ること二十二年文久三癸亥年英國の軍艦隊が横濱海に闖入して我徳川政府に十萬「ポント」の償金を要し尚鹿兒島藩に向て二萬五千「ポント」を要求するとて一時の騒擾を致したることあり。盖し其次第は前年鹿兒島の侯族島津久光君東海道の川崎と神奈川との間通行の節生麥に於て英國人「リチアルドソン」が其行列を横きりたるを君の從者が之を制止せんとして聽かず遂に之を其塲に切捨たるより起りたる事變にして英國政府は罪を日本政府に歸し兵力以て金を要めたることなり。之を生麥の事件と云ふ。此談判年の二月より始まり徳川政府が金を與へたるは五月の事にして其間に和議の破れんとしたるは幾回なるを知る可らず。日本に取りては實に大切なる塲合にして朝野共に安からぬ思を爲す其最中に當時横濱在留佛國公使「リュセン、デ、ベレクル」なる者は公書を日本政府に呈し今回英國より償金要求の〓は其〓固より英の方に在りて日本政府の曲者たること〓〓〓れす。故に若しも貴國政府が英の要求を拒むに於ては英艦は直に江戸海に進み市街を砲撃して灰燼と爲す可きは無論我佛國に於ても幸ひ横濱港に軍艦の碇泊するものあれば英艦隊に應援し佛國の旗章を江戸横濱の海上に飜かへして由々しき働を示す可し云々の次第にて徳川政府は其時海陸の軍備も今日の如くならず甚た手薄にして英艦のみを相手にしても當惑の折柄これに加るに佛艦の加勢を以てするとは扨々困ること哉とて大に恐を抱きたることあり。」

 この社説の内容は14年後に口述されることになる『福翁自伝』の「攘夷論」の「仏公使ベレクル無法に威張る」の節に採録されています。ただしこの社説の内容はといえば、そこでの主張は穏健なもので、清仏戦争については局外中立を守るべきであり、また、甲申政変で清国軍により日本軍が損害を被ったからといって軽々に開戦してはならない、賠償請求に留めるべきだというのです。日本の軍事力の実力をよく承知していた福沢は、例えフランスへの加勢として参戦したとしても清国を屈服させるのは容易ではないと考えていたのでした。それに、清国に利権を有していたイギリスがそちらを後押しするかもしれず、そうなったら継続中の不平等条約改正交渉も頓挫してしまいます。国権の拡大は重要ではあるが、全てを失うリスクまで冒してしなければならない戦争ではないというのでした。
 ㉞から㊷までが朝鮮の甲申政変に関係する社説です。甲申政変の混乱が未だ静まっていない時期に書かれた○41も、まったく福沢本人が書いているとしか考えられません。

「我輩漢學は至つて不案内なれども少年の時は諸方の先生の門に入り四書五經以上一と通りは學び得て先ず日本國中にて漢學者の優劣を評したらば我輩も其中通りには位することならん。扨世の中に大學者は甚だ少くして其髙尚論は人の耳に入らず。左ればとて極下等の學者も世に重んぜられずして其言を聴くものなし。故に漢學は如何なるものぞと尋ねるごときは正に我輩如き中通りの學者が解し得たる所のものこそ漢學の主義なれと答えて大なる過ちなかる可し。如何となれば仮令吾輩の漢學説が老儒碩學の耳に逆いて漢土儒教の旨と申すは左様に淺はかなるものに非ずなどゝ辨論説明するも是れは所謂儒教の奥の話にして世上の人は之を知らず兎に角に滔々たる天下に行わるゝ所は其學の餘り髙からず又餘り卑からずして中邊に在るものを以て最も廣くして有力なりとす可きが故なり。」

「脱亜論」の二日後に掲載された本社説も、全集未収録となっています。
 以上が前石河社説群に含まれる推定福沢直筆社説の概観ですが、今後本研究が進展するにつれて抽出の精度が高まり、さらに多くの福沢の逸文が発見されることになると考えられます。
(スライド17)
ご清聴ありがとうございました。

参考資料

Ⅰ 福沢語彙(かっこ内は福沢署名著作での出現回数)

  • 身躬から(41)
  • 視做す(9)
  • 冀望(22)
  • 在昔(64)
  • 一系万世(2)
  • 然りと雖ども(220)
  • 之を譬へば(13)
  • 果たして然らば(27)
  • 三五(10)
  • 落路(4)
  • 際限ある可らず(2)
  • 決して然らず(83)
  • 會釋に及はず(3)
  • 惑溺(31)
  • 朝鮮政府(1)
  • 支那政府(7)
  • 満清政府(3)
  • 頴敏(9)
  • 直段(27)
  • 成跡(58)
  • 駁撃(3)
  • 知る可らず(10)
  • 捷徑(1)
  • 氣の毒(99)
  • 官民調和(5)
  • 甲鉄(6)
  • 懈怠(1)
  • 憂患(6)
  • 鬱散(4)
  • 繁多(60)
  • 國事多端(7)
  • 談天彫龍(1)
  • 彷彿(14)
  • 實学(19)
  • 盲目千人(4)
  • 目あき千人(1)
  • 囂々(5)
  • 輻輳(6)
  • 恣にする(15)
  • 喙を容る(31)
  • 懶惰(33)
  • 無妄(8)
  • 信向(14)
  • 閑を偸まん(1)
  • 大機関(6)
  • 扨々(12)
  • 坐作(5)
  • 莫逆の朋友(6)
  • 折節(23)
  • 鄙見(10)
  • 慥に(40)
  • 羸弱(1)
  • 妄慢(6)
  • 榮辱(31)
  • 情誼(3)
  • 損毛(4)
  • 緩巖(2)
  • 鼓腹(4)
  • 撃攘(2)
  • 放頓(8)
  • 入組(16)

Ⅱ 推定福沢直筆社説42日分

「國会開設の準備」(18820318)三五、頴敏、之を譬へば、成跡
「言論自由の説」(18820329)駁撃、然りと雖ども、知る可らず
「陸軍食費改正」(18820330)在昔、冀望、知る可らず
「立憲帝政党の組織を論ず」(18820408-1)然りと雖ども、身躬から、冀望、成跡
「花房公使赴任」(18820420)然りと雖ども、冀望、知る可らず
「郡區長公撰一」(18820620)然りと雖ども、冀望、際限ある可らず、捷徑
「郡區長公撰二」(18820621)然りと雖ども、際限ある可らず、視做す、知る可らず
「郡區長公撰三」(18820622)然りと雖とも、之を譬へば、成跡、氣の毒、官民調和
「人和論」(18820817)繁多、落路、國事多端、官民調和
「朝鮮開國の先鞭者は誰そ」(18821214)談天彫龍、彷彿、支那政府、實学
「参議長を置くの風説」(18830110)譬へば、成跡、直段、知る可らず
「政談の危険は人に存して事に在らず」(18830228)之を譬へば、駁撃、繁多
「日本人民の政治の思想」(18830410)実学、盲目千人、目あき一人
「文明の交通法は必ずしも高尚ならず」(18830505)身躬ら、然りと雖も、成跡、捷徑、囂々、視做す
「清佛の談判如何」(18830706)輻輳、支那政府、恣にする、喙を容る
「江越鉄道敷設に就ての問題」(18830716)然りと雖も、頴敏、輻輳
「文明の進路を遮ることなかれ」(18830806)甲鉄、懈怠、氣の毒〔福沢の経験談〕
「伊藤參議の心中喜憂孰れか大なるや」(18830829)憂患、身躬ら、鬱散
「数學を以て和歌を製造す可し」(18840111)然りと雖も、〔福沢書簡により〕
「大に鉄道を布設するも商業顛滅の来る気遣ひなし」(18840303)然りと雖も、三五、譬へば、懶惰
「公債証書騰貴の辯」(18840404)三五年、然りと雖も、気の毒
「外國人に公債証書を所持せしめて安心あらば会社の株券を所持せしめても安心ならん」(18840419)三五、無妄、决して然らず
「日本教法の前途如何」(18840618)際限ある可らず、信向、氣の毒
「税法の未来を想像して今日を警しむ可し」(18840626)然りと雖とも、會釋に及はず、視做す
「餘り長きに過ぐることなかれ」(18840724)、氣の毒、閑を偸まん
「東洋國」(18840906)然りと雖とも、輻湊、在昔、支那政府
「黒船打ち拂ひ」(18840910)然りと雖とも、支那政府、大機関〔フランス公使ベレクルの逸話は『福翁自伝』に転用〕
「滿清政府を滅ぼすものは西洋日新の文明ならん」(18840916)満清政府、然りと雖ども、成跡、在昔
「黴毒の蔓延を防止すべし」(18841014)然りと雖ども、在昔、視做す、
「外情を知らざるの弊害恐る可し」(18841020)、扨々、知る可らず、氣の毒、支那政府
「開國の準備遲々すべからず」(18841022)坐作、氣の毒、莫逆の朋友
「商機一刻價千金」(18841031)喙を容る、折節、緩巖
「其利を享る者に其費用を均分すべし」(18841117)然りと雖とも、三五、鄙見
「談判は有形の實物を以て結了すること緊要なり」(18850105)慥に、羸弱、冀望
「日本男兒は人に倚りて事を爲さず」(18850112)朝鮮政府、在昔、懶惰、喙を容る
「主戰非戰の別」(18850128)妄慢、榮辱、支那政府
「國權擴張は政府の基礎たり」(18850202)際限ある可らず、知る可らず、然りと雖ども、支那政府
「朝鮮に行く日本公使の人撰」(18850213)冀望、支那政府、喙を容れ、情誼
「未だ安心す可からす」(18850214)决して然らず、朝鮮政府、支那政府
「日清談判、英國の喜憂」(18850310)然りと雖とも、之を視れば、損毛、榮辱
「支那帝國に禍するものは儒教主義なり」(18850318)鼓腹、撃攘、繁多〔福沢の漢学修業〕
「朝鮮變亂の禍源」(18850331)成跡、放頓、入組

Ⅲ 全集未収録推定福沢直筆社説の紹介

(省略)

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