福沢健全期『時事新報』の署名入社説について

2017-11-01

このテキストについて

平山氏からの依頼により、2017年10月28日・29日に東京都文京区東京大学で開催 された日本思想史学会での発表「福沢健全期『時事新報』の署名入社説について」 の発表要旨と資料及び音声を、平山氏の了解のうえアップロー ドします。なお、 「苅部直東大法学部教授の司会により発表後の質疑も大いに盛り上がりましたが、 著作権の関係で割愛しないといけないのは残念です」とのコメントがありました。

発表要旨

 福沢健全期(明治一五年三月から明治三一年九月まで)の『時事新報』社説欄に福沢以外の署名入社説が掲載されたのは、明治一五年一〇月二六日付の「浅草藤谷空然」による「俗宗旨俗僧侶」が最初であった。この空然は『福沢諭吉全集』の人名索引にも、またネットでの検索にも抽出できない謎の人物である。

 次いで明治一五年一二月三日付の「袖浦外史」による「中正の判断」が掲載されているが、この袖浦は当時時事新報社員だった矢田績と判明している。以後矢田は明治一六年三月一六日付の「文明の道草」まで全部で五回、筆名で社説を書いている。

 さらに明治一六年九月二二日付の「豊浜漁夫」による「清仏交渉の跡を鑑みて感あり」、一二月二一日付「文明の進退は人心に於て見ざる可らず」があるが、この豊浜は豊浦生こと日原昌造のことではなかろうか。日原は明治一七年二月二三日付「明治十七年首欧洲列国の形勢」以降明治一八年二月二七日付「東洋の礼西洋の理」まで一四回英国から投稿している。

 日原は東京正金銀行社員として英国に駐在していたのだが、明治一八年に帰国し、二〇年には今度は渡米して、駐在先から「ボーストン某生」として明治二一年七月一三日付「治者被治者」を皮切りに明治二二年二月二三日付「政党論」まで一〇回寄稿している。

 日原は在外日本人として社説を執筆したわけだが、逆に在日外国人として参加したのがシモンズである。彼は明治二〇年八月二日付「何をか文明と云う」から明治二二年三月八日付「教育の犠牲」まで一五回もの掲載がある。

 本発表はこうした福沢以外の、したがって全集未収録の『時事新報』署名入社説の全体像を明らかにする。

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スライド

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