「福沢諭吉と慰安婦」

2017-05-21

このテキストについて

このページについて 平山洋氏の依頼により、2013年5月14日にアマゾンキンド ルより出版された「福沢諭吉と慰安婦」(常葉叢書11)を 公開します。

本文

一 福沢が天皇に娼婦の出稼ぎの指示を与えた?

 福沢諭吉が「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可すべき」という指示を天皇に与えた、という噂がネット上で広まっている。確認できたところでは、サイト「日本人が知らない恐るべき真実」中の二〇〇六年八月二五日付エントリ「天皇の蓄財①」が最初で、鬼塚英昭著『天皇のロザリオ・上巻・日本キリスト教国化の策謀』(同年七月八日・成甲書房刊)からの引用の形をとっている。

日本の偉人中の偉人と評価の高い福沢諭吉は、「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可するべきこそ得策なれ」(『福沢諭吉全集』第十五巻)と主張した。娼婦を送り出す船会社が、天皇家と三菱に大いなる利益をもたらすということを計算したうえでの「得策なれ」の主張であった。

「至尊の位と至強の力を合して、人間の交際を支配し、深く人心の内部を犯してその方向を定る」

福沢諭吉の思想は当時の天皇家に迎えられた。

というのがその問題の部分だが、注意深く見てみると引用の末尾の一文は、最初の文を受けているわけではないことが分かる。その直前の引用文から引き続く、エントリでは省略されている部分を導いているのである。ちなみに出典が明示されていない「至尊の位と至強の力を合して、人間の交際を支配し、深く人心の内部を犯してその方向を定る」というのは、『文明論之概略』(一八七五年刊)からの引用で、この部分をより広く引くなら、実は次のように記述されているのである。すなわち、

 人の天性を妨ることなくば、その事は日に忙わしくしてその需用は月に繁多ならざるを得ず。世界古今の実験に由(より)て見るべし。是即(すなわ)ち人生の自(おのず)から文明に適する所以(ゆえん)にして、蓋(けだ)し偶然には非(あら)ず。之を造物主の深意と云うも可なり。

 この議論を推して考れば、爰(ここ)に又一の事実を発明すべし。即(すなわ)ちその事実とは、支那と日本との文明異同の事なり。純然たる独裁の政府又は神政府と称する者は、君主の尊き由縁(ゆえん)を一に天与(てんよ)に帰して、至尊の位と至強の力とを一に合(がつ)して人間の交際を支配し、深く人心の内部を犯してその方向を定るものなれば、この政治の下に居る者は、思想の向う所、必ず一方に偏し、胸中に余地を遺(のこ)さずして、その心事常に単一ならざるを得ず。心事繁多ならず故に世に事変ありて聊(いささ)かにてもこの交際の仕組を破るものあれば、事柄の良否に拘(かか)わらず、その結果は必ず人心に自由の風を生ずべし。(巻之一)

と、要するに福沢は独裁政府による「至尊の位と至強の力を合して、人間の交際を支配し、深く人心の内部を犯してその方向を定る」あり方を専制政治として批判していたのである。

 実際の福沢は君主専制政治とは異なる立憲君主政治を理想としていて、その立憲君主政治のありかたが当時の天皇家に迎えられた、というのが本当のところである。もともと『天皇のロザリオ』の書き方が誤解を招きやすいものであったのを、さらに不適切な切り取り方をしたために、あたかも福沢が天皇に娼婦の出稼ぎを進言したかのような奇妙な内容のエントリができあがっているわけである。

 このように天皇に進言した、という部分は否定されたのではあるが、この噂の前段をなす娼婦の出稼ぎそのものについての福沢の考えはどのようなものであったろうか。エントリ中で出典として示されている現行版『福沢諭吉全集』第一五巻(三六二頁~三六四頁)にあたってみると、それが「人民の移住と娼婦の出稼」という明治二九年(一八九六)一月一八日掲載の『時事新報』社説であることが分かる。次節でその社説を全文掲載する。

二 社説「人民の移住と娼婦の出稼」(明治二九年一月一八日掲載)

世間一種の論者は賤業婦人の海外に出稼するを見て甚だ悦ばず、此種の醜態は國の體面を汚すものなり、是非とも之を禁止す可しとて熱心に論ずるものあり。婦人の出稼は事實なれども、之が爲めに國の體面を汚すとの立言は更に解す可らず。娼婦の業は素より清潔のものに非ず、左ればこそ之を賤業と唱へて一般に卑しむことなれども、其これを卑しむは人倫道徳の上より見て然るのみ。

人間社會には娼婦の缺く可らざるは衛生上に酒、煙草の有害を唱へながら之を廢すること能はざると同様にして、經世の限を以てすれば寧ろ其必要を認めざるを得ず。彼の廢娼論の如き、潔癖家の常に唱ふる所にして、或は時に實行したるの例なきに非ざれども、其結果を如何と云ふに、表面に青楼と名くる悪所の存在を止めたるまでのことにして、實際に風俗を破り衛生を害するの弊は、公娼の營業を公許したる時に比すれば一層の甚だしきを致して其弊に堪へず、苦情百出の爲めに遂に復舊したるの事實は世人の知る所なる可し。

或は内の醜態は兎も角も、之を外に現はすに至りては國の體面に關係すと云はんかなれども、娼婦の醜態、果して國の體面に關係するものならんには、之を内に存するも其體面は旣に汚れたるものなり。内には公行を許しながら外出を禁ずるが如きは、俗に云ふ臭き物に蓋の喩に漏れずして、其臭は到底掩ふ可らず。内に置て臭きものならば、外に出すも亦臭からざるを得ず。四面開放の世の中に、臭き物に蓋して國の體面を維持し得たりと思ふが如きは、所謂井蛙の見にして、與に世界の事を談ずるに足らざるなり。

況んや論者の如き、娼婦の営業を以て國の體面に関係ありと論ずれども、娼婦の公行は世界一般に同ふする所にして、現に文明の中心を以て自から居る倫敦、巴里、伯林(べるりん)、ニューヨークの如き大都會の眞中に於てさへも、賤業婦人の數は計ふるに遑あらざる程にして、公に私に其業を營めども曾て人の怪しむものなし。論者は獨り我醜業婦の外出を禁じて誰れに讃められんとの考なるや。果して井中の蛙なるを免れざるものと云ふ可し。

抑も我輩が殊更らに此問題を論ずる所以のものは外ならず、人民の海外移植を奨勵するに就て、特に娼婦外出の必要なるを認めたればなり。移住民たるものは或る可く夫婦同行して家居團樂の快楽を其儘、外に移して、新地に安んずること猶ほ故郷に居ると同様ならしめんこそ最も望む所なれども、多数の移住民、必ずしも妻帯のものゝみに限らず、否な、最初の間は不知案内の海外に行くことゝて、移住の希望者は差當り係累のなき獨身者に多きのみか、或は妻帯のものとても先づ万人にて移住したる上、國より妻子を呼寄せんとするものもあらんなれば、移植地の人口は男子に割合して女子に乏しきを訴へざるを得ず。

人口繁殖の内地に於てさへ娼婦の必要は何人も認むる所なるに、況して新開地の事情に於てはますます其必要を感ぜざるを得ず。往年徳川政府の時に香港駐在の英國官吏より日本婦人の出稼を請求し來りしことあり。其理由は同地には多數の兵士屯在すれども婦人に乏しきが故に、何分にも人気荒くして喧嘩争論のみを事とし制御に困難なれば、日本より娼婦を輸入して兵士の人気を和げたしと云ふに在りき。又浦塩斯徳(ウラジオストク)などにても同様の理由を以て頻りに日本婦人の出稼を希望し、偶ま出稼のものあれば大に歓迎して、政府の筋より保護さへ與ふるやの談を聞きたることあり。

海外の移植地に娼婦の必要なるは右の事實に徴するも甚だ明白にして、婦人の出稼は人民の移住と是非とも相伴ふ可きものなれば、寧ろ公然許可するこそ得策なれ。且つ又當人の爲めに謀るも、賤業婦として外に出づるものは内地に於ても何れ同様の境界に在るものにして敢て苦とせざるのみ。現に外に出稼して相應の銭を儲け歸國の上、立派に家を成したる輩も多きよしなれば、等しく賤業を営まんとならば寧ろ外に出でゝ利益の多きを望むことならん。何れの点よりするも賤業婦の外出は決して非難す可きに非ざれば、移住の奨勵と共に共出稼を自由にするは經世上の必要なる可し。

三 全集への収録状況と文体の判定

 社説「人民の移住と娼婦の出稼」が福沢諭吉の作と最初に示されたのは、昭和八年(一九三三)一二月三〇日刊行の『続福沢全集』第四巻(七五九頁~七六一頁)である。その後、昭和三六年(一九六一)四月一日刊行の『福沢諭吉全集』第一五巻(三六二頁~三六四頁)と昭和五六年(一九八一)三月二五日刊行の『福沢諭吉選集』第七巻(二八四頁~二八七頁)に再録されている。

 草稿非残存の社説であるため、実際に福沢が書いたかどうかは文体による判定と状況からの推測によるしかない。後にも触れることだが福沢は署名著作中で一度も「娼婦」という言葉を使っていない。これは執筆が福沢ではない証拠となると思うが、では書いた当事者はといえば、私としては文中にある「殊更ら」の「ら」の送り仮名と、福沢の特徴である「冀望」という表記ではなく通常の「希望」が使われていることから、石河幹明と判定する。問題は、この社説を福沢が石河に命じて書かせたのか、それとも石河が福沢とは無関係に書いたのかである。

 この問題についてはかつて、本社説について触れている清水義範著『福沢諭吉は謎だらけ』(二〇〇六年九月一六日・小学館刊)に関し、著者にあてた書簡(同年一〇月二三日付)で一度言及したことがあった。以下関係する部分をアラビア数字を漢数字に改めたうえで引用する。

 それ以外に私と関係があることとしては、一七五頁にある論説「人民の移住と娼婦の出稼」の真偽問題です。この論説は全集第一五巻三六二頁に掲載されているもので、時事新報の明治二九年一月一八日に社説として発表されています。昭和版『続全集』に初収録で福沢の自筆原稿は残存せず、です。少なくとも下書きは石河と断定できるとはいえ、そのアイディアを福沢が出したかどうかについての証拠はまったくありません。

 この時期の真筆は、仕上げにかかっていた『福翁百話』となりますが、その中に国民の海外移住をテーマとした話はありません。また、明治二八年一一月から二九年一月までの書簡三〇通に、海外移住に触れたものは一通もないのです。福沢自身は社説掲載と同じ日である明治二九年一月一八日に、帝国ホテルで開催予定の立食パーティの準備に忙殺されていたようです。

 要するに、「人民の移住と娼婦の出稼」は、石河が自らの関心から執筆して紙上に掲載したものを、一九三三年に、折からの満蒙開拓ブームにのっかって、「実はこれも福沢先生が書いたものだ」、とか言って、『続全集』に採録したもののように見えます。現在の『全集』の「時事新報論集」は、ほんとうにめちゃくちゃなもので、無署名論説を使う場合には細心の注意が必要なのです。

 私としては書簡と同時期に執筆中の『福翁百話』を検討して、「アイディアを福沢が出したかどうかについての証拠はまったくありません」と書いたのだったが、今年(二〇一三年)になって福沢諭吉が「賤業婦人の海外に出稼ぎするを公然許可すべき」という指示を天皇に与えた、という噂がたっていることを知り、今一度調べ直したところ、『福翁百話』と『福沢先生浮世談』の中で娼婦の出稼ぎについて触れていることを知った。そのことを次節で扱いたい。

四 『福翁百話』と『福沢先生浮世談』での娼婦出稼論

 平成二〇年(二〇〇八)に慶應義塾が開学一五〇周年を記念して立ち上げたサイト「デジタルで読む福澤諭吉」は、明治三一年(一八九八)四月刊の『修業立志編』を除く福沢諭吉名で刊行された著作がデジタル化されている。署名著作については全文検索ができるようになったことにより、自分の調査の不十分さについても思い知らされることになった。

 まず検索語「娼婦」で調べると、この言葉は福沢の署名著作中に一例もないことが分かった。私は目を皿のようにして署名著作中からその言葉を拾おうとしたのだったが、それは無駄な努力だったのである。ついで「醜業」で調べると、明治三〇年(一八九七)七月刊行の『福翁百話』の四十八「人事に裏面を忘る可らず」に、

西洋人の言に移住地の組織は寺と酒屋と軒(のき)を並べて始めて可なりと云(い)うその次第は、移住者の艱難辛苦(かんなんしんく)は酒色の快楽を以(もつ)て償(つぐな)い、酒色の敗徳(はいとく)は宗教の福音(ふくいん)を以て救い、随て(したがつ)苦しみ随て楽しみ又随て矯正(きようせい)するの意味なり。西洋の諸強国より海外の地に兵士を屯在(とんざい)せしむるその地には、必ず娼妓(しようぎ)のあらざるはなし。若(も)しも然(しか)らざるときは、政府の筋(すじ)より窃(ひそか)に賤業婦の往来に便利を与えて必要に応ずと云う。娼妓の害大ならざるに非(あら)ずと雖(いえど)も、之(これ)を禁じて却(かえつ)て兵士の気を荒くするの害は更(さ)らに大なるものあるが故に、その利害を比較して扨(さて)こそ娼妓の醜業(しゆうぎよう)を黙許(もくきよ)することなり。

とある。

 さらに検索語「出稼」で調べると、明治三一年(一八九八)三月刊行の『福沢先生浮世談』に、

今外国に醜業婦の出るのは国の恥だと云うて厳しく之を差止(さしと)め、開港場から船の出る時などには中々喧(やかま)しい様子であるが、抑(そもそ)も醜業とは金銭の為(た)めに淫(いん)を売ると云うことであろうが、斯(かか)る婦人を醜業婦と云えば、今日唯(ただ)外国に出稼(でかせ)ぎする者ばかりでなく、日本国内の立派な処に沢山(たくさん)稼(かせ)いで居るではないか。光り輝く東京の真中の立派なお席に、その醜業婦が居るではないか。この一段に至ては如何(どう)しても日本人が外国人に対して何としてもどうも申訳(もうしわけ)のない話で、何と攻撃されても答弁に一句の言葉がなかろう。

とある。

 ちなみに『福翁百話』各話の執筆時期を確定できないため、四十八も明治二八年から二九年にかけて書かれたとしか言えない。社説「人民の移住と娼婦の出稼」が掲載された明治二九年一月一八日はその中にすっぽり入ってしまうわけで、石河から話を聞いて『福翁百話』四十八にそれを書いたのか、先に福沢がそうしたアイディアを持っていて石河にその内容の社説を書かせたのかは判然としないのである。

 もう一つの『福沢先生浮世談』については、たった一日になされた談話を筆記して刊行したもので、それは口述筆記でなされる予定の『福翁自伝』の準備作業のためだったと推測できる。語られたのは明治三〇年一一月頃なので、社説発表から二年弱が経過している。

 いずれにせよ社説「人民の移住と娼婦の出稼」の見解と福沢自身の意見とは一致しているわけで、そのことは改めて確認しておきたい。

五 慰安婦問題と娼婦出稼論

 第二節の全文からもはっきりしているように、社説「人民の移住と娼婦の出稼」の主張は、性風俗業に従事する女性が海外に出ることを許可するべきだ、というにきわまっている。理由は海外で現に働いている日本人男性に独身者が多いせいで、要するに現地の女性に迷惑がかからないようにするためである。どこにも強制の側面はなく、この社説がどうしていわゆる「従軍」慰安婦問題と絡めて論じられるのか不思議なのだが、ともかくそうなっているのである。以下本節ではそのことについて扱いたい。

 いわゆる「従軍」慰安婦問題は平成四年(一九九二)に持ち上がった事案なので、その問題と福沢諭吉が結びつけられて論じられるようになったのは、それ以降のことである。そこで調べてみると、どうやら鈴木裕子著『従軍慰安婦・内鮮結婚―性の侵略・戦後責任を考える』(一九九二年三月・未来社刊)が最初らしく、次に引用する『戦争責任とジェンダー―「自由主義史観」と日本軍「慰安婦」問題』(一九九七年八月・未来社刊)でも扱われている。

 日清戦争が勝利に帰した翌九六年一月一八日、「明治」の代表的知識人、福沢諭吉は自らが主宰する新聞『時事新報」に「人民の移住と娼婦の出稼」を書き、「娼婦」の積極的「輸出」を唱えた。その骨子を紹介すれば以下のようなものであった。一つは、日本国人民の海外移住・植民事業の発展にともない、「単身赴任」する男に「快楽」を与えるために「娼婦」が必要であること、二つめは、海外各地に駐屯する軍隊・兵士の気を和らげるためにも、また「娼婦」が必要であること、三つめは、「娼婦」自身にとっても、海外出稼ぎで金がかせげ、故郷にも送金ができ、立派な家の一軒も建てられるようになる、というものであった。

 この要約と第二節の全文を比較してほしい。要約にはカッコ付きとなっている「輸出」なる言葉は、実は社説中では「外出」と表記されている。「輸出」なら強制性が感じられるが、「外出」にはそれを感じることはできない。また要約中の第二の理由についても、まるで福沢が日本軍のために慰安婦が必要だと主張しているようになっているが、原文では徳川時代に香港在住の英国官吏が英国軍向けに要請したこととされているのである。第四節の『福翁百話』の引用でも、福沢は外国軍隊(とくに英国軍)の周辺で営業している性風俗関係者について言及しているだけで、日本軍についてのことなど一言も触れてはいないということが分かる。

 要するに福沢諭吉と「従軍」慰安婦問題など、どう転んでも無関係としか言いようがないのであるが、両者をさらに結びつけようとしたのが、安川寿之輔である。安川は言う。

福沢諭吉がかりにアジア太平洋戦争の時代に存命ていたならば、「従軍慰安婦」と呼ばれる日本軍性奴隷制度の存在と構想に反対することはなかったであろう、という大胆な推測・仮定を、あえて私が書くことに一定の積極的な社会的意義を見いだしたい。(『福沢諭吉のアジア認識』〔二〇〇〇年一二月・高文研刊〕二三二頁)

 福沢諭吉が一九三〇年代以降の日本軍と関係する慰安婦制度に賛成したか、それとも反対したか、私には分からない。けれども、事実として言えることは、一九世紀を生きていた福沢は性風俗従事の女性が海外に出ることを肯定した、ということだけなのである。