「福沢諭吉の「脱亜論」と<アジア蔑視>観」

2013-06-20

このテキストについて

 平山洋氏の依頼により、2013年4月2日にアマゾンキンドルより出版された「福 沢諭吉の「脱亜論」と<アジア蔑視>観」(常葉叢書1)を 公開します。

本文

一 『時事新報』社説としての「脱亜論」

この小論で取り上げるのは、福沢諭吉の「脱亜論」と彼が抱いていたという〈アジア蔑視〉観の関係についてです。そこで最初にお断りしておきたいのは、この場合の「脱亜論」とは、一般にいわれる彼の脱亜思想のことではなく、あくまで新聞『時事新報』に掲載された社説「脱亜論」についてということです。それというのも論説「脱亜論」と、福沢の思想の中核をなす脱亜思想とでもいうべきものはしばしば混同されがちで、そのために重要な点が見失われているように思われるからです。

福沢が脱亜の主義として終生儒教を排したということについての研究者の理解には大きな隔たりはありません。しかし排儒教の表明としての脱亜思想と、論説「脱亜論」が一般に受け取られている印象にはややずれがあります。例えば広い意味での脱亜思想の著作である『学問のすすめ』や『文明論之概略』はしばしば肯定的に扱われるのに、論説「脱亜論」には、近代化しつつある日本のおごりやアジアの人々に対する民族蔑視として、否定的な評価しか下されることはないのです。

いったいそれはなぜなのでしょうか。福沢の主張する脱亜思想と論説「脱亜論」を同一視してしまうと、このあたりの差異が見えにくくなってしまうように思われます。

論説「脱亜論」は明治一八年(一八八五)三月一六日に新聞『時事新報』紙上に社説として掲載されました。『時事新報』はその三年前に福沢の肝いりで創刊された新聞ではありましたが、主筆は甥の中上川彦次郎が務めていたので、紙面で「脱亜論」を目にした読者はそれを『時事新報』の意見とは見なしたものの、無署名のその社説を福沢個人の思想として受け取ったのかどうかはわかりません。

そのことを念頭に置いた上で、次節に「脱亜論」全文を掲げます。

二 「脱亜論」明治一八年(一八八五)三月一六日掲載

世界交通の道、便にして、西洋文明の風、東にし、到る処、草も木も此(この)風に靡(なび)かざるはなし。 蓋し西洋の人物、古今に大にるに非ずと雖ども、其(その)挙動の古(いにしえ)に遅鈍にして今に活発なるは、唯交通の利器を利用して勢(いきおい)に乗ずるが故のみ。 故に方今(ほうこん)東洋に国するものの為に謀るに、此(この)文明東漸の勢に激して之を防ぎ了(おわ)るべきの覚悟あれば則(すなわ)ち可なりと雖ども、苟(いやしく)も世界中の現状を視察して事実に不可なるを知らん者は、世と推し移りて共に文明の海に浮沈し、共に文明の波を揚げて共に文明の苦楽を与(とも)にするの外あるべからざるなり。

文明は猶(なお)麻疹(はしか)の流行の如し。 目下(もっか)東京の麻疹(はしか)は西国長崎の地方より東漸して、春暖と共に次第に蔓延する者の如し。 此(この)時に当り此(この)流行病の害を悪(にくみ)て之を防がんとするも、果して其(その)手段あるべきや。 我輩断じて其(その)術なきを証す。 有害一偏の流行病にても、尚(なお)且(かつ)其(その)勢(いきおい)には激すべからず。 況(いわん)や利害相(あい)伴(ともな)うて常に利益多き文明にてをや。 啻(ただ)に之を防がざるのみならず、力(つと)めて其(その)蔓延を助け、国民をして早く其(その)気風に浴せしむるは智者の事なるべし。

西洋近時の文明が我日本に入りたるは嘉永の開国を発端として、国民漸(ようや)く其(その)採るべきを知り、漸次に活発の気風を催うしたれども、進歩の道に横わるに古風老大の政府なるものありて、これを如何ともすべからず。 政府を保存せん歟、文明は決して入るべからず。 如何となれば近時の文明は日本の旧套(きゅうとう)と両立すべからずして、旧套を脱すれば同時に政府も亦(また)廃滅すべければなり。 然(しから)ばち文明をて侵入を止めん歟、日本国は独立すべからず。 如何となれば世界文明の喧嘩繁劇は東洋孤島の独睡を許さざればなり。

是(ここ)に於てか我日本の士人は国を重しとし政府を軽しとするの大義に基き、また幸(さいわい)に帝室の神聖尊厳に依頼して、断じて旧政府を倒して新政府を立て、国中朝野の別なく一切万事西洋近時の文明を採り、独り日本の旧套を脱したるのみならず、亜細亜全洲の中に在て新(あらた)に一機軸を出し、主義とする所は唯(ただ)脱亜の二字に在るのみ。

我日本の国土は亜細亜の東辺に在りと雖ども、其(その)国民の精神は既に亜細亜の固陋(ころう)を脱して西洋の文明に移りたり。 然(しか)るに爰(ここ)に不幸なるは近隣に国あり、一を支那と云い、一を朝鮮と云う。 此(この)二国の人民も古来、亜細亜流の政教風俗に養わるること、我日本国民に異ならずと雖ども、其(その)人種の由来を殊(こと)にするか、但しは同様の政教風俗中に居ながらも遺伝教育の旨に同じからざる所のものある歟、日支韓三国相(あい)対(たい)し、支と韓と相似るの状は支韓の日に於けるよりも近くして、此(この)二国の者共は一身に就(つ)き又一国に関して改進の道を知らず、交通至便の世の中に文明の事物を聞見せざるに非ざれども、耳目の聞見は以(もっ)て心を動かすに足らずして、其(その)古風旧慣に恋々(れんれん)するの情は百千年の古(いにしえ)に異ならず、此(この)文明日新の活劇場に教育の事を論ずれば儒教主義と云い、学校の教旨は仁義礼智と称し、一より十に至るまで外見の虚飾のみを事として、其(その)実際に於ては真理原則の知見なきのみか、道徳さえ地を払うて残刻(ざんこく)不廉恥(ふれんち)を極め、尚(なお)傲然(ごうぜん)として自省の念なき者の如し。

我輩を以(もっ)て此(この)二国を視(み)れば、今の文明東漸の風潮に際し、迚(とて)も其(その)独立を維持するの道あるべからず。 幸にして其(その)国中に志士の出現して、先(ま)ず国事開進の手始めとして、大に其(その)政府を改革すること我維新の如き大挙を企て、先ず政治を改めて共に人心を一新するが如き活動あらば格別なれども、しもらざるに於ては、今より数年を出でずして亡国と為り、其(その)国土は世界文明諸国の分割に帰すべきこと一点の疑あることなし。 如何となれば麻疹(はしか)に等しき文明開化の流行に遭(あ)いながら、支韓両国は其(その)伝染の天然に背き、無理に之(これ)を避けんとして一室内に閉居し、空気の流通を絶て窒塞するものなればなり。 輔車(ほしゃ)唇歯(しんし)とは隣国相(あい)助くるのなれども、今の支那朝鮮は我日本のために一毫(いちごう)の援助と為らざるのみならず、西洋文明人の眼を以(もっ)てすれば、三国の地利相(あい)接するが為に、時に或はこれを同一視し、支韓を評するの価を以(もっ)て我日本に命ずるの意味なきに非ず。

例えば支那、朝鮮の政府が古風の専制にして法律の恃(たの)むべきものあらざれば、西洋の人は日本も亦(また)無法律の国かと疑い、支那、朝鮮の士人が惑溺(わくでき)深くして科学の何ものたるを知らざれば、西洋の学者は日本も亦(また)陰陽五行の国かと思い、支那人が卑屈にして恥を知らざれば、日本人の義侠も之がために掩(おお)われ、朝鮮国に人を刑するのなるあれば、日本人も亦共に無情なるかと推量せらるるが如き、是(これ)等(ら)の事例を計(かぞう)れば枚挙に遑(いとま)あらず。 之を喩(たと)えば隣軒を並べたる一村一町内の者共が、愚にして無法にして然(し)かも残忍無情なるときは、稀に其(その)町村内の一家人が正当の人事に注意するも、他の醜にわれて堙没(いんぼつ)するものに異ならず。 其(その)影響の事実に現われて、間接に我外交上の故障を成すことは実に少々ならず、我日本国の一大不幸と云うべし。

左(さ)れば、今日の謀(はかりごと)を為すに、我国は隣国の開明を待て共に亜細亜をすの猶予あるべからず、寧(むし)ろ、其(その)伍を脱して西洋の文明国と進退を共にし、其(その)支那、朝鮮に接するの法も隣国なるが故にとて特別の会釈に及ばず、正(まさ)に西洋人が之に接するの風に従て処分すべきのみ。 悪友を親しむ者は共に悪名を免(まぬ)かるべからず。 我れは心に於て亜細亜東方の悪友を謝絶するものなり。

三 「脱亜論」を書いたのは誰か

以上が「脱亜論」の全文ですが、よくもまあ、近隣諸国の批判を遠慮もなく吐露したものだ、という感想をもたれるのはある意味当然のことです。これだけを見れば福沢はアジアに対してひどい偏見をもっていた人物であるということになるかもしれません。

ところが、第一節でも触れたことですが、無署名で発表されている「脱亜論」の執筆者が福沢かどうかは、じつははっきりしていません。福沢作ではない可能性もあるのです。この点を曖昧にしておくことはできないので、「脱亜論」本文の分析とその影響に関する問題に移る前に、まずそのことについての私の立場を明らかにすることにします。

現在では大変有名になっている「脱亜論」ではありますが、じつは自筆草稿も福沢による言及も一切発見されておりません。それを昭和八年(一九三三)から翌年にかけての刊行の『続全集』に採録したのは弟子の石河幹明であり、その選択はひとえに石河の選択眼にのみ依拠しているのです。

私が調べたところ「脱亜論」が発表された明治一八年(一八八五)に社説を書いていたのは、福沢のほか、中上川主筆と社説記者(論説委員)の高橋義雄と渡辺治の計四名でした。先にも少し触れた中上川は福沢の甥で、明治一五年(一八八二)三月の『時事新報』創刊から五年間主筆を務めた後、三井に移ってそこの重鎮となりました。 高橋と渡辺は創刊直後の同年五月から参加した若手記者で、福沢から授けられたアイディアを文章化するのがその役目でした。 高橋は明治二〇年七月に退社して後に三井銀行の重役となり、渡辺は明治二三年七月の第一回衆議院議員選挙に出馬、当選して代議士となりました。無署名論説を選んだ石河幹明の入社は「脱亜論」掲載の翌月のことでした。

こうなると石河は「脱亜論」執筆を目撃したから、『続全集』にそれを採録した、という推測は成り立たないことになります。つまり純粋に紙面の文字情報からだけで判定しないといけないのです。

これまで石河以外には不可能だと思われてきた無署名論説の真偽判定に、一定の基準を示したのは、比較文学者の井田進也でした。 井田は『中江兆民全集』の編纂にあたって編み出した無署名論説の執筆者推定の方法を、現行版『福沢諭吉全集』の「時事新報論集」に応用したのでした。詳しくは平成一三年(二〇〇一)に光芒社から刊行された『歴史とテクスト』をご参照ください。

井田の方法を簡潔に説明するなら、まず社説を書いた可能性のある人々の署名論説を集め、各々の特徴的な語彙や表現をよりだし、ついで当該社説と照合することで起筆者を推定する、というものです。ここでは細かい問題には触れることはできませんが、福沢文ならではの特徴をごく大まかに指摘してみるなら、例えば、福沢的語彙として、「みずから」を「身躬から」、「みなす」を「視做す」、「きぼう」を「冀望」とする表記があります。 これらについては社説記者もそれぞれ、「自ら」、「見做す」、「希望」と書くことが多いため、区別のための大きな手がかりとなります。 また、福沢は過去を意味する熟語として「在昔」を用いることが多いです。

その他井田が指摘する福沢の語彙と文体の特徴を手がかりとして、「脱亜論」の執筆者を推定してみると、やはり福沢真筆と見なしてよいと思われます。この点については井田と私の判定は一致していて、その事実は平成一六年(二〇〇四)文藝春秋社から刊行された『福沢諭吉の真実』にも書いているのですが、なぜか私(平山洋)は「脱亜論」を弟子の作と判定している、という誤解が広まっています。繰り返しますが、私(平山洋)は、社説「脱亜論」を福沢諭吉の真筆とみなしているのです。

四 「脱亜論」批判の不当性について(その一)

真偽についての私の立場がはっきりしたところで、次に、現在よくある「脱亜論」批判の妥当性について検討しましょう。歴史的文脈を離れた「脱亜論」批判・福沢批判は、今なお左翼的思想をもつ人々によってなされています。その場合に注意しなければならないのは、「脱亜論」はただの新聞社説にすぎず、しかもそれは明治一七年(一八八四)から翌年にかけての政治状況に対応したものであるということです。そのため左翼による批判は次の二点において不当なのです。

不当性の第一として、「脱亜論」の影響力に関する過大な評価があります。それが新聞『時事新報』の社説として発表されたことはよく知られていますが、その時点では福沢の作とは認識されていなかった、ということに、遠山茂樹・鹿野政直・安川寿之輔ら多くの研究者の目は向けられておりません。「脱亜論」発表の朝、新聞を開いた多くの読者は、前年暮れに朝鮮で起こった甲申政変の事後処理に関して、朝鮮政府中央から親日派が追放されたことに『時事新報』編集部が失望感をあらわにしたものである、としか思わなかったはずなのです。

福沢自身にも自分の論説であるという認識はなかったらしく、生前に刊行された『福沢全集』には収められていません。さらに大正末年に編まれた『全集』にも見あたらず、結局初出から約半世紀後の『続全集』になってはじめて福沢の手になるものであることが示されたのです。つまり「脱亜論」は『続全集』編纂の過程で、福沢面受の弟子にして『時事新報』編集部員でもあった石河幹明が、創刊以来の同紙の評論を丁寧に読み返すことがなかったならば、今日もなお埋もれたまままであったかもしれないわけです。

私が調べたところでは、「脱亜論」に初めて言及しているのは昭和二六年(一九五一)の遠山茂樹の論文「日清戦争と福沢諭吉」です。同年の旧『福沢諭吉選集』の選には洩れていますので、それが有名になったのさらに近い時期ということになります。それほどのものにすぎないのですから、福沢存命中に「脱亜論」が注目された形跡はまったくありません。

そればかりでなく、明治一四年(一八八一)の政変以降の福沢の思想が、昭和二〇年(一九四五)までの日本の対アジア政策に影響を与えた可能性は低いのです。なぜなら、明治一〇年(一八七七)勃発の西南戦争の前まではあれほどもてはやされていた福沢も、徳富蘇峰・馬場辰猪・沼間守一ら「明治の青年」である若手の論客が育っていく過程で政治思想の提言としては次第に重要視されなくなっていたからです。

掲載当日の朝にたまたま『時事新報』を読んだ人の目にしか触れていなかった「脱亜論」を、近代日本の対アジア政策に影響を与えた評論として現代の高校の社会科教科書に載せようとするほどばかげたことはないでしょう。「脱亜論」が注目されるようになったのは、戦後丸山真男らによって再評価された福沢を、いわばおとしめる目的でなされた、《『学問のすすめ』の著者ですらもこのような露骨なアジア侵略の言動をなしていた》というネガティブキャンペーンの結果によるとみてよいのです。

なお、「脱亜論」がいかにして有名になったかについては、巻末の「「脱亜論」紹介年表」をご覧ください。

五 「脱亜論」批判の不当性について(その二)

次に不当性の第二は、「脱亜論」をアジア蔑視の侵略論とする一般的な解釈そのものについてです。『学問のすすめ』と『文明論之概略』で輝くばかりの独立自尊の精神と真の愛国心を融合させた福沢が、西南戦争後に創刊した『時事新報』において、とりわけ朝鮮への政治干渉を提唱したことに一種の齟齬があるかに見えるのは事実です。第二次世界大戦後のいわゆる左派陣営はもとより、福沢の思想の祖述者といってよい丸山でさえ、前二著と新聞論説との間に解決できない矛盾があることを認めています。要するに、《自国の独立は何より大切だと説きながら他国の内政に介入するのは身勝手ではないか》ということです。私もそう思わないではありません。

ただ福沢にとって弁解の余地はあります。すなわち現代の価値観を無条件に一九世紀にあてはめることはできないということ、また日本がアジアへの侵略を始める前に書かれた『時事新報』の諸論文を虚心坦懐に読むならば、前二著との間に大きな落差を認めない解釈もありうるということです。とりわけ「脱亜論」は日清戦争に先立つほぼ一〇年前に書かれたものなので、そこには清国に対する勝利に驚喜する福沢の姿はないのです。

その詳細は次に記しますが、この「脱亜論」が福沢の思想においてさほど重要なものではないとはいえ、日清戦争までの彼のアジア観を考察するにあたっての基準となりうる条件は備えているのです。そしてその論を当時の時代背景において読むならば、それはアジアを蔑視する侵略論とはいえないばかりか、むしろ『文明論之概略』の正確な延長上にあると思われるのです。以下このことをめぐって論を進めます。

六 「脱亜論」は朝鮮の甲申政変後の情勢を前提に書かれている

先にも述べたように「脱亜論」は、明治一七年から翌年にかけての政治状況に対応していて、清国・朝鮮をただやみくもに批判しているのではない、ということに注意しなければなりません。そのことを知らなければ「脱亜論」の真意を見抜くことなどできないのです。その政治状況とは、福沢がそれまで支援してきた朝鮮独立党の甲申政変における敗北でした。以下でまず近代日朝交流史のおさらいをします。

近世において比較的良好であった日朝関係は、明治政府のとった対朝鮮強硬策によって不幸なものとなりました。それまで厳しい鎖国政策をとっていた大院君が失脚したのに乗じて、新たに政権の座についた閔氏一族が指導する新政府に対し、日本は武力によって開国を迫ったからです。その結果として明治九年(一八七六)二月、朝鮮には不利な日朝修好条規が締結されたのでしたが、その後李朝は日本に使節・留学生・視察団を派遣することになったのでした。それまで朝鮮国内では西洋の学問は厳しく禁止されていたため、留学生たちはその知識を日本のとりわけ慶応義塾に求めたのです。明治一三年(一八八〇)、第二回修信使として来日した金弘集らに面会した福沢は二〇年前にロンドンを訪問した自らの姿を重ね合わせて、彼らを励ましています。『学問のすすめ』の主張に鼓舞されるような志ある人々は、福沢の郷里中津ばかりではなく、日本全国に、そして日本だけではなく朝鮮にもいるはずであって、そうした若者を福沢は対等に扱ったのでした。

明治一五年(一八八二)七月、朝鮮では開国後の近代化政策に不満をもつ軍隊の反乱事件が起こります。壬午軍乱の勃発です。最初の峰起は辛くも鎮圧されましたが、その首謀者の処刑をめぐって彼らに同情的な一般民衆の助命運動が大規模な暴動に発展してしまいます。暴徒は閔氏政権を支援していた日本公館を焼き討ちしたうえ、王宮に乱入して閔氏の高級官僚を殺害したのち大院君を迎えて新政権の樹立を宣言したのでした。

帰国した花房義質公使から報告を受けた日本政府は、居留民保護と朝鮮政府に軍乱の責任を問うために艦艇と陸軍部隊を朝鮮に派遣しました。花房公使は日本軍とともにソウルに入り王宮で国王高宗に謁見、正式な謝罪と責任者の処罰および損害賠償を要求し、いっぽう清国もまた閔氏政権の要請を受けて軍隊を出動させ、大院君を捕らえて天津へ連行し暴徒を鎮圧したのでした。八月末、清国に支持された朝鮮の閔妃政権と日本の間に軍乱首謀者の処罰と日本への賠償金などを取り決めた済物浦条約が結ばれます。

この壬午軍乱の鎮圧において清国が中心的役割を果たしたため、閔氏政権は清に従属する立場をとらざるをえなくなります。大院君が除かれたことは朝鮮の近代化にとって好ましい結果をもたらすはずでしたが、清国軍がソウルに進駐することになったため、日本を範として近代化を推進しようとする金玉均・朴泳孝・徐光範ら独立党の活動は制限されることになり、そのことが明治一七年(一八八四)一二月に起こる甲申政変の遠因となったのです。すなわちそのままでは清国の属国となってしまうことに危機感をもった金らは、日本公使館との連携によって閔氏政権の転覆を謀ろうとしたのでした。クーデターは一二月四日の郵政局開局の祝宴に政府要人が集まることを狙って実行に移されました。計画ではまず郵政局近くの安国洞の別宮に放火し、混乱に乗じて王宮を占拠して新政権を樹立するというものでした。ところが実際にはソウル駐在の清国軍が介入したため 閔氏政権の転覆は失敗し、金・朴らは日本への政治亡命を余儀なくされたのでした。

国内での自由民権運動には直接の支援を行わなかった福沢でしたが、独立党による朝鮮の近代化計画については早い段階から関与していました。それというのも金玉均は明治一五年(一八八二)に来日して福沢と面会し、朝鮮の近代化のために慶応義塾の支援を受けようとしたからです。また福沢は済物浦条約による賠償金五〇万円の返済についても井上馨外務卿を紹介し、朝鮮政府への銀行からの融資に便宜を図っています。さらに福沢は日本国内で独立党を助けようとしたばかりではなく、実際に牛場卓蔵・高橋正信・井上角五郎ら門弟を朝鮮に派遣して西洋文明の移入を図ろうとしました。そしてその成果として明治一六年(一八八三)一〇月に朝鮮初の新聞『漢城旬報』の発刊にこぎつけています。

このように福沢は独立党の活動を注意深く見守っていたので、甲申政変の失敗とその後の独立党関係者の大量処刑に深く胸を痛めたのでした。「脱亜論」発表の三週間ほど前の明治一八年(一八八五)二月二三・二六日には「朝鮮独立党の処刑」が掲載されています。この社説は、前編を高橋が担当し、後編を福沢が担当しているように見えます。当時の状況を理解するのに大変重要な社説ですので、以下二節を使ってその全文を紹介することにします。

七 「朝鮮独立党の処刑(前編)」明治一八年(一八八五)二月二三日掲載

弱者は力を恃て粗暴なり、粗暴なるが故に能く人を殺す、弱者は文を重んじて沈深なり、沈深なるが故に人を害すること少なしとは、一寸考えたる所にて成るほど左ることもあらん歟と思わるれども、実際に於ては決して然らずして却て正しく其反対を見るを常とす。

抑も社会の人類を平均して其強弱如何を比較するときは、強者は少数にして弱者は多数なること、他の智愚賢不肖貧富等の比例に異ならず。愚者貧者の多数なるが如く、弱者の多数なるは掩うべからざるの事実なり。

扨強者の本色は如何なるものぞと尋るに、強き者に敵して勝ち難きに勝つを勉め、苟も己が眼下に在りて制御の自在なる者とあれば、敵にても味方にても之を害するの念は甚だ薄きのみならず、時としては己が眼下に在りて制御の自在なる者とあれば、敵にても味方にても之を害するの念は甚だ薄きのみならず、時としては己が快楽を欠きても弱敵を助けんとするもの多し。故に強者の敵する所の相手は常に社会中の少数にして、仮令い之を殺せばとて其害の及ぶ所決して広からず。 蓋し之を殺すの術なきに非ざれども、之を殺すを要せざるなり。 容易に殺すの術あるが故に、殺すことを急がざるものなり。

之に反して文弱なる者は、其心事仮令い沈深なるも、力に於ては己が制御の下に在るもの甚だ少なきが故に、苟も人を殺すの機会さえありて自身を禍するの恐なきときは、之を殺して憚る所あることなし。 蓋し弱者必ずしも人を殺すを好むに非ざれども、自家に恃む所のものなきが故に、機に乗じて怨恨を晴らし、且つは後難を恐るるの念深くして、一事に禍根を断たんとするが為に惨状を呈するものなり。

古代の歴史を閲して所謂英雄豪傑なる者の所業を見るに、軍事にも政治にも動もすれば人を殺して殆ど飽くことを知らざるものの如し。 甚しきは無辜の婦人小児までも屠戮して憚る所なき其有様は、古人の武断、甚だ剛毅なるに似たれども、内実に就て之を視察すれば、決して其人の強きが為には非ずして、却て弱きが為に然るものなりと断定せざるを得ず。 不開化の世の中に人を制するの方便も乏しければ、一旦の機会に乗じて他に勝つときは、其機を空うせずして殺戮を逞うし、一は以て一時の愉快を取り、一は以て禍根を断絶して永年の安楽を偸まんとするの臆病心より出るものなり。

往古歴山(アレキサンダー)王が戦争に幾万人の敵を殺したりと云い、日本の源平の争に勝つ者は敵の小児にまでも刑に処したるが如き、其事例として見るべきものなり。 歴山王と源平の諸将と甚だ勇なるが如くなれども、其実は敵を縦(ゆる)して複た之を伏するの覚悟なきが為に、斯る鄙怯の挙動して残酷に陥りたるものと知るべし。

世の文明開化は人を文に導くと云うと雖ども、文運の進むに兼て武術も亦進歩し、人を制し人を殺すの方便に富むが故に治乱の際、仮令い屠戮を逞うすべきの機会あるも、時の事情に要用なる外は毒害の区域を広くすることなし。 例えば戦争に降りたる者を殺さず、国事犯に常事犯に、罪は唯一進に止まりて父母妻子に及ばざるのみか、其家の財産さえ没入せらるることは甚だ稀なり。

例えば近年我国西南の役に国事犯の統領西郷南洲翁の如き、其罪は唯翁一人の罪にして妻子兄弟の累を為さず、今の参議西郷伯は現に骨肉の弟なれども、日本国中に之を怪しむ者なし。 蓋し我政府が南洲翁の罪を窮めて殺戮を逞うせざるは、政府の力の足らざるに非ず、其実は文明の武力能く天下を制するに余りありて、西南の変乱再び起るも復た之を征服すべきの覚悟あればなり。 一言これを評すれば、能く人を殺すの力あるものにして始めて能く人を殺すことなしと云て可ならん。 之を文明の強と云う。 古今を比較して人心の強弱、社会の幸不幸、其差天淵も啻ならざるを知るべし。

左れば彼の古の英雄豪傑が勇武果断にして能く戦い又よく人を殺したりと云うも、其勇武や唯一時腕力の勇武にして、永久必勝の算あるに非ず。 其果断や己が臆病心に迫られたるの果断にして、其胸中余地なきを証するに足るべきのみ。 文明の勝算は数理に根拠して違うことなく、野蛮の勝利は僥倖に依頼して定数なし。 僥倖にして勝つものは其勝に乗じて止まることを知らず、数理を以て勝つものは再三の勝を制すること容易なるが故に、其際悠々として余地あるも亦謂れなきに非ざるなり。

源平の事は邈乎たり。 吾々日本の人民は今日の文明に逢うて、治にも乱にも屠戮の毒害を見ず。 苟も罪を犯さざる限りは其財産生命栄誉を全うして奇禍なきを喜ぶの傍らに、眼を転じて隣国の朝鮮を見れば、其野蛮の惨状は我源平の時代を再演して、或は之に過ぐるものあるが如し。 吾々は源平の事を歴史に読み絵本に見て辛うじて其時の想像を作る其際に、朝鮮の人民は今日これを事実に行うて曾て怪しむものなしとは驚くべきに非ずや。

日本なり朝鮮なり、等しく是れ東洋の列国なるに、昊天(こうてん)何ぞ日本に厚くして朝鮮に薄きや。 蓋し人盛なれば天に勝つの古言に違わず、朝鮮国民は数百年来支那の儒教主義に心酔して既に精神の独立を失い、又之に加るに近年は其内治外交の政事上に於ても支那の観賞を蒙て独立の国体を失い、有形無形百般の人事、支那の風を学て又支那人の指揮に従い、自身を知らず自国を知らず、日に月に退歩して益野蛮に赴くものの如し。 其事実を計うれば枚挙に遑あらずと雖ども、近日の一事件として我輩は朝鮮独立党処刑の新聞を得たり。依て聊か所感を記すこと次の如し。

八 「朝鮮独立党の処刑(後編)」明治一八年(一八八五)二月二六日掲載

去年十二月六日京城の変乱以後、朝鮮の政権は事大党の手に帰して、政府は恰も支那人の後見を以て存立し、政刑一切陰に陽に支那人の意に出るとのことは、普く世界中の人の知る所ならん。 彼の国の大臣にして独立党の名ある朴泳考、金玉均等の諸士は、兼て国王陛下の信任を得て窃に国事の改革を謀り、一旦事を挙げて失敗し、俗に所謂負けて国賊なるものの身と為りて、其死生行方さえ文明ならず、現政府は之を捜索すること甚しき其最中、先ず其党類を処分するとて、本年一月二十八日二十九日の両日を以て大に刑罰を行い、金奉均、李喜貝、申重模、李昌奎の四名は、謀反大逆不道の罪を以て死刑に、其父母兄弟妻子は皆絞罪に処す。

李点矽、李允相の二名は謀反不道の罪を以て西小門外に斬に処し、其家族の男は奴と為し女は婢と為す。 徐載昌、南興喆、崔興宗、車弘植、崔栄植の五名は情を知て告げざる罪を以て、当人のみ死刑に処して、家族は無罪。 英昌模は既に死後に付き其罪を論ぜず。 洪英植は孥戮の典を追施す。 又金玉均、徐載弼、徐光範の父母妻子は二月二日を以て南大門に絞罪に処せらる。

右は本月十六日時事新報の朝鮮事件欄内に掲載したるものなれば、読者も知らるる所ならん。 抑も此刑戮は国事犯に起りたるものにして、事の正邪は我輩の知る所に非ず。 刑せられたる者と刑したる者と、孰れが忠臣にして孰れが反賊にても、我輩の痛痒に関するなしと雖ども、今の事大党政府の当局者が能く人を殺して残忍無情なるの一事に於ては、実に驚かざるを得ず。

現に罪を犯したる本人を刑するは国事に至当のことならんなれども、右犯罪人の中、車弘植の如きは徐載弼の僕にして、変乱の夜、提灯を携えて主人の供をしたるまでの罪にして死刑を免れず。 壮大の男子を殺すは尚忍ぶべしとするも、心身柔弱なる婦人女子と白髪半死の老翁老婆を刑場に引出し、東西の分ちもなき小児の首に縄を掛けて之を絞め殺すとは、果して如何なる心ぞや。

尚一歩を譲り老人婦人の如きは識別の精神あれば、身に犯罪の覚えなきも我子我良人が斯る身と為りし故に、我身も斯る災難に陥るものなりと、冤ながらも其冤を知りて死したることならんなれども、三歳五歳の小児等は父母の手を離るるさえ泣き叫ぶの常なるに、荒々しき獄卒の手に掛り、雪霜吹き晒らしの城門外に引摺られて、細き首に縄を掛けらるる其時の情は如何なるべきや。 唯恐ろしき鬼に掴まれたる心地するのみにして、其索の窄まりて呼吸の絶ゆるまでは殺さるるものとは思わず、唯父母を慕い、兄弟を求め、父よ母よと呼び叫び、声を限りに泣入りて、絞索漸く窄まり、泣く声漸く微にして、終に絶命したることならん。

人間娑婆世界の地獄は朝鮮の京城に出現したり。 我輩は此国を目して野蛮と評せんよりも、寧ろ妖魔悪鬼の地獄国と云わんと欲する者なり。 而して此地獄国の当局者は誰ぞと尋るに、事大党政府の官吏にして、其後見の実力を有する者は即ち支那人なり。 我輩は千里遠隔の隣国に居り、固より其国事に縁なき者なれども、此事情を聞いて唯悲哀に堪えず、今この文を草するにも涙落ちて原稿紙を潤おすを覚えざるなり。

事大党の人々は能くも忍んで此無情の事を為し、能くも忍んで其刑場に臨監したるものなり。 文明国人の情に於ては罹災の人の不幸を哀むの傍に、又他の残忍を見て寒心戦慄するのみ。

抑一国の法律は其国の主権に属するものにして、朝鮮に如何なる法を設けて如何なる惨酷を働くも、他国人の敢て喙を容るべき限りに非ず。 我輩これを知らざるに非ずと雖ども、凡各国人民の相互に交際するは、唯条約の公文にのみ依頼すべきものにあらず、双方の人情相通ずるに非ざれば、修信も貿易も殆ど無益に帰するもの多きは、古今の事実に証して明に見るべし。

然るに今朝鮮国の人情を察するに、支那人と相投じて其殺気の陰険なること、実に吾々日本人の意相外に出るもの多し。 故に我輩は朝鮮国に対し、条約の公文上には固より対等の交際を為して他なしと雖ども、人情の一点に至ては、其国人が支那の覊軛を脱して文明の正道に入り、有形無形一切の事に付き吾々と共に語りて相驚くなきの場合に至らざれば、気の毒ながら之を同族視するを得ず。 条約面には対等して尊敬を表するも、人民の情交に於て親愛を尽すを得ざるものなり。

西洋国人が東洋諸国に対し、宗旨相異なるがために双方人民の交際、微妙の間に往々言うべからざるの故障を見ることあり。 今我輩日本人民も朝鮮国に対し又支那国に対して、自から微妙の辺に交際の困難あるを覚るは遺憾に堪えざる次第なり。

蓋し彼の事大党衆が支那人の後見に依頼して斯くも無慚にしてよく人を殺すは、必ずしも其殺気の活発なるに非ず、苟も殺すべきの機会に逢うて、一事其政治上の怨恨を慰ると、又一には独立党の遺類を存在せしめては後難如何を慮かり、機に乗じて禍根を断絶せんとするの心算なるべしと雖ども、如何せん、爰に一国あれば其国人に独立の精神を生ずるは自然の勢にして、之を駐めんとするも留むべからず。

故に今度幸にして独立党の人を殲(つく)して孑遺(げつい)なきに至るも、人を殲すのみ、精神は殲すべからず、数年ならずして第二の独立党を生ずべきや明なり。 第二、第三、朝鮮国のあらん限りは此党の断ゆることなくして、今度折角の残殺も無益の労たるに過ぎざるべし。

語を寄す、韓廷の事大党、国に独立党の禍あらんを恐れなば、早く固陋なる儒教主義を一洗して西洋の文明開化を取り、文明の文に兼ぬるに其武を拡張し、国の独立を万々歳堅固ならしむべし。 既に文明の強あり、外患尚且恐るるに足らず。 況や内閣政治の軋轢等に於てをや。 如何なる変乱あるも之を制すること易し。 尚況や其変乱の際に無辜を殺して禍根を断たんとするが如き卑怯策を行うに於てをや。 啻に無益なるのみならず、自から発明して自から恥入るの日あるべきなり。

九 「脱亜論」は「朝鮮独立党の処刑(後編)」を下敷として書かれている

以上が「朝鮮独立党の処刑」の全文ですが、とりわけその後編が「脱亜論」にそっくりなのは一目瞭然でしょう。「脱亜論」にある、「支那人が卑屈にして恥を知らざれば」とか、「朝鮮国に人を刑するの惨酷あれば」とかいった清国・朝鮮批判は、一般的な差別意識に根ざすものではなく、この甲申政変の過酷な事後処理に限定されていたということが分かります。こうした時局的な表現を除いてしまえば、「脱亜論」は《半開の国々は西洋文明を取り入れて近代化すべきだ》という『文明論之概略』の主張と少しも変わるところがありません。

福沢は、国民国家として独立しかつ自国民の生活水準の向上に勉める国を尊重し、そうはしない国を軽くみます。彼の対外観はその政府が自国民の文明化にどれほど心をくだき、また同時に心身を国に捧げる報国の士がどれほどいるかということによって規定されているのです。金玉均ら朝鮮の独立党を積極的に支援したのも、彼らが真の報国心をもつ有為の人材であり、いっぽう清国に操縦されていた李氏朝鮮王国は打倒されるべき君主専制国家であるとみなしたからに他ならなりません。

福沢は「脱亜論」を独立党への大弾圧の悲惨な現実によって低下した西洋諸国からの東アジアの評価が日本にも波及することを恐れて執筆したにすぎず、考えの中身を変化させたわけではなかったのです。それゆえ韓桂玉のように「脱亜論」を、「先進西欧に習い、近づくためには、これまで交流してきた朝鮮、中国など遅れた国との付合いは迷惑でむしろ支障となるので、これとは絶縁し西欧に目を向けようというアジア蔑視観」(『「征韓論」の系譜』六七頁)のあらわれとする考えはあまりに単純といえましょう。この表現では福沢がアジア全般を蔑視していたかに聞こえてしまいますが、それこそ福沢に対する偏見というものです。いったい福沢は誰を蔑視していたのでしょうか。このことは福沢がめざしていた世界全体と関係するのです。

十 支那人・朝鮮人とは誰か

私たちの習いとして《支那人》とか《朝鮮人》とかいえば民族全体を指すと考えてしまいがちです。しかしその解釈は福沢に関するかぎり間違っています。彼は《人》あるいは《士人》を指導的立場にある人々の意味で使い、国民一般は《人民》という用語を使って、政権担当者と支配されている一般民衆を分けているのです。だから、《支那人》《朝鮮人》が批判されているからといってそれらの民族が全体として蔑視されているなどと考えるべきではないのです。

具体例を見てみましょう。「脱亜論」での《人民》の用例は一つだけですが、それは「此二国の人民も古来亜細亜流の政教風俗に養はるゝこと、我日本国民に異ならず」というように、清国・朝鮮と日本の一般民衆の水準はもともと同じである、という意味で使われています。『文明論之概略』には《朝鮮人》の用例がないため《支那人》で検索してみると、「頑陋なる支那人も近来は伝習生徒を西洋に遣りたり」、「支那人が俄に兵制を改革せんとして西洋の風に傚ひ」などと、明らかに国政改革の主体になりうる人々を指しています。いっぽう《人民》については、《支那の人民》という用例はありませんが、たとえば「支那にて周の末世に、諸侯各割拠の勢を成して人民周室あるを知らざること数百年」とあって、支配層以外を人民と呼んでいるのです。その時々に書かれる時事評論の細部にわたってまで使い分けが貫徹されているとはいえませんが、この規範はおおむね福沢全般についてよくあてはまっています。こうした支配層と国民の区別についての顕著な例が明治一八年(一八八五)八月一三日掲載の「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」です。この社説の草稿は非残存となっていますが、私は文体により福沢の真筆と判定しました。

福沢はアジア蔑視の侵略肯定論者であった、という見方をする人にとっては好都合な評論と思われるにもかかわらず、それが今まで取り上げられることが少なかったのは、実際の歴史とは異なって、イギリスまたはロシアによる朝鮮支配を想定しているからかもしれません。そこには《外国が朝鮮を支配するようになったとしても、そのことはむしろ人民にとって幸いである》ということが述べられています。その衝撃的な題名によって『時事新報』は発行停止とされてしまったのですが、内容は朝鮮蔑視の不当なものということはなく、やはり『文明論之概略』の延長上にあります。次節で全文を掲載します。

十一 「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」明治一八年八月一三日掲載

英人は既に巨文島を占領して海軍の根拠を作り、 露人は穆仁徳(モルレンドルフ)とし合せて陸地より侵入するの用意を為し、 朝鮮国独立の運命も旦夕に迫りたるものと云うべし。

扨(さて)この国がいよいよ滅亡するものとして考れば、 国の王家たる李氏のためには誠に気の毒にして、 又其直接の臣下たる貴族、 士族のためにも甚だ不利なりと雖ども、 人民一般の利害如何を論ずるときは、 滅亡こそ寧ろ其幸福を大にするの方便なりと云わざるを得ず。

抑(そもそ)も天地間に生々する人間の身に最も大切なるものは栄誉と生命と私有と此三つのものにして、 爰(ここ)に一国を立てて政府を設るは此三者を保護するが為なり。

人の物を盗む者あれば国法を以て之を罰し、 借りて返さず欺て取らんとする者あれば法に拠て裁判す、 私有の保護なり。 人を殺し又傷(きずつく)る者あれば之を刑に処す、 生命の保護なり。

又栄誉には内外二様の別ありて、 内国の人民相互に貴賎貧富の別はあれども、 其国民たるの権利は同等なるが故に、 人為の爵位身分など云う虚名を張て漫(みだり)に人を軽侮するを許さず、 若しも犯す者あれば法にて罰せらるるか、 又は社会に対して笑を取る、 内の栄誉を保護するものなり。 又外の栄誉とは独立の外交交際を政府に任し、 政府の当局者が諸外国に対して我国権を拡張し、毛頭の事にも栄辱を争うて、 以て自国の人民をして独立国民たるの体面を全うせしめ、 以て政府が人民に対するの義務を尽す、 即ち外の栄誉を保護するものなり。

斯くありてこそ国民も一政府の下に立て之に奉ずるの甲斐あることなれども、今朝鮮の有様を見るに、 王室無法、 貴族跋扈(ばっこ)、 税法さえ紊乱(びんらん)の極に陥りて民に私有の権なく、 啻(ただ)に政府の法律不完全にして無辜(むこ)を殺すのみならず、 貴族士族の輩が私慾私怨を以て私(わたくし)に人を勾留し又は傷(きずつ)け又は殺すも、 人民は之を訴るになし。 又その栄誉の一点に至ては上下の間、 殆ど人種を殊にするが如くにして、 苟も士族以上、 直接に政府に縁ある者は無限の権威を恣(ほしいまま)にして、 下民は上流の奴隷たるに過ぎず。

人民は既に斯くまでに内に軽蔑せられて、 尚(なお)其外に対して独立国民たるの栄誉如何を尋れば、 復(ま)た言うに忍びざるものあり。 政府は王室のため又人民のために外国の交際を司(つかさ)どりながら、 世界の事情を解せず、 文明の風潮を知らず、 如何なる外患に当り如何なる国辱を被るも、 恬(てん)として感覚なきものの如くして曾(かつ)て憂苦の色なく、 唯其忙わしくする所は朝臣等が権力栄華を政府に争うに在るのみ。

朋党相(あい)分(わか)れて甲是乙非(こうぜおつひ)、 その議論様々なれども、 帰する所の目的は唯一身の為にするものにして、 此輩の内実を評すれば身を以て国事に役するに非ずして、 国事を弄して私の名利の媒介に用るものと云わざるを得ず。 支那に属邦視せらるるも汚辱を感ぜず、 英人に土地を奪わるるも憂患を知らず、 啻(ただ)に此辺に無感覚なるのみならず、 或は国を売りても身に利する所あれば憚らざるものの如し。

即ち彼の事大党の輩が只管(ひたすら)支那に事(つか)えんとし、 又韓(ハン)圭穆(ギュジク)、 李(イ)祖淵(ジョヨン)、 閔(ミン)泳穆(ヨンモック)の流(註3)が、 私に露政府に通じて為すことあらんと企てたるが如き、 身あるを知て国あるを知らざるものなり。

故に朝鮮人が独立の一国民として外国に対するの栄誉は、 既に地を払うて無に帰したるものなり。 人民夢中の際に国は既に売られたるものなり。 而(しこう)して其売国者は何処に在ると尋れば、 政府自(みず)から此事を為せり。

左(さ)れば朝鮮の人民は内に居て私有を護るを得ず、 生命を安くするを得ず、 又栄誉を全うするを得ず、 即ち国民に対する政府の功徳は一も被らずして、 て政府に害せられ、 尚(なお)その上にも外国に向て独立の一国民たる栄誉をも政府に於て保護するを得ず。 実に以て朝鮮国民として生々する甲斐もなきことなれば、 露なり英なり、 其来て国土を押領(おうりょう)するがままに任せて、 露英の人民たるこそ其幸福は大なるべし。

他国政府に亡ぼさるるときは亡国の民にして甚だ楽(たのし)まずと雖ども、 前途に望なき苦界(くがい)に沈没して終身内外の恥辱中に死せんよりも、 寧ろ強大文明国の保護を被り、 せめて生命と私有とのみにても安全にするは不幸中の幸ならん。 手近く其一証を示さんに、 過般来(かはんらい)英人が巨文島を占領して其全島を支配し、 工事あれば島民を使役し、 犯罪人あれば之を罰する等、 全く英国の法を施行する其有様を見れば、 巨文島は一区の小亡国にして、 島民が独立国民たるの栄誉は既に尽き果てたれども(是(こ)れまでとても独立の実なければ其栄誉もなし)、 唯この一事のみを度外に置て他の百般の利害如何を察すれば、 英人が工事に役すれば必ず賃銭(ちんせん)を払い、 其賃銭を貯蓄すれば更に掠奪(りゃくだつ)せらるるの心配もなし、 人を殺し人に傷(きずつく)るに非ざれば死刑に行われ又幽囚(ゆうしゅう)せらるることもなし、 先(ま)ず以て安心なりと云うべし。

固(もと)より英人とても温良の君子のみに非ず、 時としては残刻(ざんこく)なる処罰もあるべし。 或は疳癪(かんしゃく)に乗じて人をつ等の事もあるべしと雖ども、 之を朝鮮の官吏、 貴族等が下民を犬羊(けんよう)視して、 其肉体精神を窘(たしな)めててを絞る者に比すれば、 同日の論に非ず。

既に今日に於て青陽県の管内巨文島の人民七百名は仕合(しあわ)せものなりとて、 他にまるる程の次第なりと云う。 悪政の余弊、 民心の解体したるものにして、 是非もなきことなり。

故に我が輩は朝鮮の滅亡、 其期遠からざるを察して、 一応は政府のために之を弔し、 顧みて其国民の為には之を賀せんと欲する者なり。

十二 批判と蔑視の違いについて

この「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」が朝鮮という独立国に対してあまりに失礼であるということをわきまえつつ、その内容が明治八年(一八七五)刊行の『文明論之概略』で主張されていた《政権に対する文明の優位》の考え方と一致していることは認めなければなりません。福沢によれば文明を阻害する政権は打倒されるべきでした。ただそこでは想定されていなかった事態が朝鮮において現実となっていたことこそが問題なのです。すなわち、《人間の智徳の進歩にあって当該国人の政府よりもむしろ文明国の植民地にされるほうが当の人民にとって望ましい場合がある》という悲劇的状況でした。

要するにこの題名と内容をアジア蔑視と捉えることはまったくのピントはずれな解釈なのです。福沢が「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」ばかりか、「朝鮮独立党の処刑」や「脱亜論」で清国や朝鮮を批判しているのはもとより事実です。 しかしそれは福沢にアジア蔑視観があったということを意味するわけではありません。 なぜなら批判と蔑視(差別意識)はまったく違うことがらだからです。

この二つははっきり区別する必要があります。 すなわち批判とは、誰もが同意可能な基準をあらかじめ定め、その基準からの逸脱を具体的に指摘することで相手の不当性を明らかにするあり方のことです。 いっぽう蔑視とは、もともと何らの基準をもたぬまま、相手をより劣った存在とみなすことです。この観点からいって、福沢のアジア関連論説において、しばしばアジア蔑視と批判されている事柄は、単なる批判にすぎないといえます。

こうして今一度「朝鮮人民のために其国の滅亡を賀す」に立ち返るなら、その題名は大いなる皮肉を秘めていることがはっきりします。そもそも福沢は、国民が自らの都合でその時代にもっとも適した政府を組織するなら、いかなる政権交替も国体の変更ではなく、むしろ好ましい改革であるとし、逆に外国人による支配にあっては国体の失われた亡国の悲劇であると考えていました。だからこそ朝鮮が亡国の運命に陥らないように独立党を支援し、彼ら朝鮮維新の志士の援助をしていたのでした。では、明治一八年(一八八五)の朝鮮国はどうなっていたか、それが問題となるのです。

独立党を中心に進められていた朝鮮の近代化の試みは、すでに「脱亜論」発表の三ヶ月前、明治一七年一二月の甲申政変の失敗によって頓座しています。そうだとするなら、「脱亜論」にある「幸にして其国中に志士の出現して、先づ国事開進の手始めとして、大に其政府を改革すること我維新の如き大挙を企て、先づ政治を改めて共に人心を一新するが如き活動あらば格別」という言葉についても、これから先の希望について述べたものではなく、むしろ失敗したその甲申政変への哀惜の情を吐露したものであったと解釈するべきでしょう。朝鮮にも真の朝鮮人の名に値する報国の士は存在したが、その人々はほとんど処刑されてしまった、と。

このように福沢には、こと朝鮮に関しては、他国のことであるにもかかわらず、まるで自国のことであるかのような感情むき出しの表現が多く見られます。同じ東アジアの国でありながら、清国については、《西洋諸国に蚕食されながらも日本に脅威を与える敵国》としてしか見なされていないのに、朝鮮に関してはあたかも親類が困っているかのような心配ぶりです。福沢の清国観と朝鮮観の差は歴然としています。それは金玉均や朴泳孝らと親しかったからかもしれませんし、あるいは慶応義塾に在籍していた留学生がごく身近にいたからかもしれません。

十三 「脱亜論」はアジア蔑視ではなく、清国・朝鮮両政府批判である

以上、独立党を支援していたころの福沢に、《彼ら朝鮮の報国の士を利用することでそこを日本の植民地にしてやろう》などという様子はみじんも感じられないのです。「脱亜論」に日本による朝鮮支配をうかがわせるような表現はないでしょう。末尾の一文が、心において謝絶する、となっていることに批判者たちはもっと注目するべきでした。彼は東アジアに日本と同じタイプの独立した文明国を欲していましたが、そこに植民地を望んでいたわけではなかったのです。そしてその夢がついえてしまったとき、福沢は落胆のあまり《もはや友人であることを望まない》という「脱亜論」を書いたのでした。

左翼的思想をもつ人々は「脱亜論」執筆の動機を福沢のアジア蔑視と西洋崇拝に求めてきました。論者はそのいずれもが間違いであると思います。確かに福沢は西洋的価値観を尊重していましたが、その理想をアジアにおいて裏切っている他ならぬ西欧の文明国への批判をけっして弱めることはなかったからです。福沢にとって目的とすべき西洋文明は、現実の西洋の文明のことではなく、自由や向上心の尊重や個人を守るものとしての国民国家の概念など、文明そのものの理想とでもいうべきものであったのです。それらを損なおうとするものはたとえ誰であろうとも悪いのであって、人種や民族によってその基準は変動しないのです。

すなわち清国やベトナムに戦争を仕掛けたイギリスやフランス、また国民自体の期待に反していた日本の封建時代や李氏朝鮮の政府は、同じ基準によって《悪》とされたのでした。「脱亜論」は、西洋の視点からアジアを蔑視したものではなく、むしろ西洋諸国を批判したのと同じ目でアジアを評定したものといえましょう。それが結果として当時のアジアの諸国を酷評したものと映るとしても、それを単純に蔑視などと捉えることはできないのです。当該国の政権に批判されても仕方のない側面があったから、そうされたにすぎないといえます。

ただ、福沢に悪意はなかったとはいえ、当時にあってさえそのアジア観が適正であったのかについては、やはり問題が残ります。あれほどの好奇心をもってヨーロッパやアメリカを歴訪した福沢でしたが、いっぽうのアジアの国々を自らの目で見ようとしなかったのは事実です。彼の耳に入る清国や朝鮮の現実は、外国の新聞記事や派遣された弟子たちの報告、そして福沢に同調した考え方をもっていた留学生からの情報に限られていました。彼はあるいは《専制国家を訪問したとしても、誰も本当のことは言わないから、そこに意見を求めても無駄である》と考えていたのかもしれません。しかし《百聞は一見にしかず》ということわざは、西洋にばかりではなく東洋にも適用できるはずです。もし東洋のことなら自分はもうよく知っている、と福沢が考えていたのだとしたら、その推測自体に、彼自身忌み嫌っていた《惑溺》(自信過剰)があったことになるのです。

「脱亜論」紹介年表

一八八五年三月「脱亜論」『時事新報』紙上に発表
一八九八年一月福沢諭吉編『福沢全集』全五巻(時事新報社刊)発行開始
一九〇一年二月大町桂月「福沢諭吉を弔す」『太陽』第七巻第三号
一九〇一年三月慶應義塾編『福沢先生哀悼録』『学報』第三九号臨時増刊
一九一五年一二月田中王堂『福沢諭吉』(実業之世界社刊)
一九二六年九月石河幹明編『福沢全集』全十巻(国民図書刊)発行開始
一九三二年二月石河幹明『福沢諭吉伝』全四巻(岩波書店刊)発行開始
一九三三年五月石河幹明編『続福沢全集』全五巻(岩波書店刊)発行開始
一九三三年七月「脱亜論」初めて『続福沢全集』第二巻に収録
一九三七年六月羽仁五郎『白石・諭吉』『大教育家文庫』第七巻(岩波書店刊)
一九四二年九月川辺真蔵『福沢諭吉ー報道の先駆者』(三省堂刊)
一九四七年三月丸山真男「福沢に於ける『実学』の転回」『東洋文化研究』第三号(日光書院刊)
一九四七年九月丸山真男「福沢諭吉の哲学ーとくにその時事批判との関連」『国家学会雑誌』第六一巻三号
一九四九年一月丸山真男「近代日本思想史における国家理性の問題」『展望』一月号(筑摩書房刊)
一九五一年一一月遠山茂樹「日清戦争と福沢諭吉」福沢研究会『福沢研究』第六号「脱亜論」言及Ⅰ
一九五二年五月服部之総「東洋における日本の位置」『近代日本文学講座』(河出書房刊)「脱亜論」言及Ⅱ
一九五二年七月丸山真男「福沢諭吉選集第四巻解題」『福沢諭吉選集』第四巻(岩波書店刊)
一九五三年八月服部之総「文明開化」『現代歴史講座』第三巻(創文社刊)「脱亜論」言及Ⅲ
一九五三年一二月服部之総「福沢諭吉」『改造』一二月号(改造社刊)
一九五五年八月服部之総『明治の思想』『服部之総著作集』第六巻(理論社刊)
一九五六年六月鹿野政直『日本近代思想の形成』(新評論社刊)「脱亜論」言及Ⅳ
一九五八年一二月富田正文・土橋俊一編『福沢諭吉全集』全二一巻(岩波書店刊)発行開始
一九六〇年四月飯塚浩二「極東・東亜・近西」『中央公論』四月号(中央公論社刊)「脱亜論」言及Ⅴ
一九六〇年六月「脱亜論」『福沢諭吉全集』第十巻に収録
一九六〇年六月飯塚浩二「アジアと日本」『アジアのなかの日本』(中央公論社刊)
一九六一年六月岡義武「国民的独立と国家理性」『近代日本思想史講座』第八巻(筑摩書房刊)「脱亜論」言及Ⅵ
一九六一年六月竹内好「日本とアジア」竹内好・唐木順三編『近代日本思想史講座』第八巻(筑摩書房刊)「脱亜論」言及Ⅶ「有名である」とされる
一九六三年八月竹内好「アジア主義の展望」竹内好編『現代日本思想大系』第九巻『アジア主義』「脱亜論」全文を掲載言及Ⅷ
一九六四年二月松永安左エ門『人間・福沢諭吉』(実業之日本社刊)
一九六六年三月小泉信三『福沢諭吉』(岩波書店刊)岩波新書
一九六六年四月竹内好『日本とアジア』『竹内好評論集』第三巻(筑摩書房刊)
一九六七年四月河野健二『福沢諭吉ー生きつづける思想家』(講談社刊)講談社現代新書「脱亜論」言及Ⅸ
一九六七年一二月鹿野政直『福沢諭吉』(清水書院刊)「脱亜論」言及Ⅹこの時点で「有名さ」が定着する
一九六八年一月橋川文三「近代日本指導層の中国意識1福沢諭吉」『中国』第五〇号(徳間書店刊)
一九六〇年一〇月伊藤正雄『福沢諭吉論考』(吉川弘文館刊)
一九七〇年一一月遠山茂樹『福沢諭吉ー思想と政治の関連』(東京大学出版会刊)
一九七二年一〇月鹿野政直『日本近代化の思想』(研究社出版刊)
一九七三年四月橋川文三「福沢諭吉の中国文明論」『順逆の思想ー脱亜論以後』(勁草書房刊)
一九七五年八月今永清二「福沢諭吉の「脱亜論」ー近代日本における「脱亜」の形成についての試論」『アジア経済』第一六巻第八号(アジア経済研究所刊)
一九七七年九月丸山真男「古典からどう学ぶか」『図書』九月号(岩波書店刊)丸山による最初の「脱亜論」への言及
一九七九年五月今永清二『福沢諭吉の思想形成』(勁草書房刊)
一九八〇年一一月富田正文編『福沢諭吉選集』全一四巻(岩波書店刊)刊行開始
一九八一年三月「脱亜論」『福沢諭吉選集』第七巻に収録函に「脱亜論」初出『時事新報』の写真版
一九八一年三月坂野潤治「福沢諭吉選集第七巻解説」『福沢諭吉選集』第七巻(岩波書店刊)
一九八二年八月坂野潤治「明治初期(一八七三ー八五)の「対外観」」日本国際政治学会編『国際政治』第七一号『日本外交の思想』
一九八四年三月飯田鼎『福沢諭吉ー国民国家論の創始者』(中央公論社刊)中公新書
一九八四年四月初瀬龍平「「脱亜論」再考」平野健一郎編『近代日本とアジアー文化の交流と摩擦』(東京大学出版会刊)
一九九六年一〇月韓桂玉『「征韓論」の系譜ー日本と朝鮮半島の一〇〇年』(三一書房刊)
一九九七年九月杵淵信雄『福沢諭吉と朝鮮ー時事新報社説を中心に』(彩流社刊)