「花房公使赴任」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「花房公使赴任」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

花房公使赴任

花房公使は來る廿六日を以て朝鮮國の任所に向て出發せらる可しと云ふ同國交際の事に付ては我政府も大に主義を定め公使は其意を體して赴任の事ならん抑も朝鮮國は開國以來日尚淺くして其開化に進むは容易なる事に非すと雖とも其始めに於て之を開きたる者は我日本國なるが故に今後其開國の端を擴めて其終局の幸福を得せしむる者も亦我日本國ならさるを得ず即ち我れは朝鮮の師國なり其交際の法は師にして門弟子を御するが如くならざるを得ず然るに其門弟子なる者は至極頑固にして師の言を聴かず時としては之を御するに堪へ難き場合もあらんと雖ともよく心を虚にして之を考れば其頑固は愚鈍無智の徴に非ずして却って剛毅忍耐の實質なるやも未だ知る可らず三十年前我國に於て最も外國人が嫌悪したる者は最も國中の有力者たりし實例もあり朝鮮人頑固なりと雖とも決して之を蔑如す可らざるなり其交際の要は虚心平氣勉めて之を誘導するに在り我輩が公使に向て冀望する所なり

新たに國を開て其國人の頑固なるは世界普通の常數にして毫も怪しむに足らず殊に朝鮮人が我日本人に對して遽に親睦の莫きは別に其原因の在るあり三百年外の事とは雖とも豊公征韓の事は今尚其民心に銘して〓る〓と能はず我日本人にて却て知らざれとも當〓〓勇將加藤清正小西行長の流が彼の國土を蹂躙したるは随分残酷なることにて其中諸〓〓れの所〓にて又は壮〓〓の〓〓〓〓〓〓もの〓〓の王家の山陵を發〓〓ることある由にて國民今に至まで之の御骨の悵と稱し志士の間には〓妃陵の仇の通語あり又民間にて年始の祝儀又は祭禮等の時に祝詞を述る前後に於て「イムジン、ニョン、ウェン、スル、カパ、スニー、シ〓〓ヲ(小書きのヲ)ン、ハテー」と唱るは壬辰の年の怨靈を酬〓は愉快愉快と云ふ義にして彼の國の字音なりとて壬辰は即ち我文禄二年征韓の年にして今を去ること二百九十一年の古なれとも其日本國に對して執念深きこと斯の如し〓に近來に至て彼の開化者流と稱する人〓百〓に〓〓説諭して第一着に此執念を脱せしめんとて勉れとも其事甚た容易ならず先つ説諭中に梢や國民の耳に入る可き者は清正も行長も實に徹骨の怨敵不倶戴天の仇なれとも三百年前死して痕なし加之行長の如きは其身の終を全ふするを得ず清正も二世にして家を滅したり天の罰は我手を俟たすして明白なれば今日は最早これを不問に置て可なり云々などにて〓〓に人心緩和の一方に盡力最中なりと云ふ

〓の事情なれば今我日本人にて朝鮮の國民を開明に導くは頗る困難の事にして公使か其先導の局に當るは責任重しと云ふ可し、然りと雖とも朝鮮の開明は無より有を造るに非す數百年來其國の固有に存する智徳の質を其ままに維持して唯其形を變するまでのことなれば前途の望なきに非す唯全國人心の變形を要するのみ例へば彼の國の王族にして國中第一流の鎖國家と稱する興宣大院君の履歴を聞くに君は今の朝鮮王の生父にして王の即位は齢十四歳未た幼冲を免かれず〓に於て國命を執る者は大院君にして綱紀擧り〓〓〓〓国民者其徳を仰かさる者なし就中同國にて〓〓〓〓〓侵入の時より三百年來壤頽に歸したる宮〓〓〓〓したるが如きは未曾有の盛事にして人の耳目〓〓かれたりと云ふ(景福宮我明治九年焼失)此宮〓の造營に就て〓從前の慣行に於ては唯國中の平民のみを役するの法なれとも大院君は則ち其不公平なるを知り均しく士族に分徴したりしは是亦未曾有の新例にして擴く国民の歡心を得たるも亦偶然に非す此一〓〓見ても其非凡なるを知る可し左れは今の朝鮮人〓〓とるは必すしも其無智なるに非す恰も文明〓〓を〓るの〓を有して唯未た之を視さる者と云ふ〓きのみ故に我公使が赴任の後勉めて其國の賢者〓〓して朝に夕に之を〓導したらば今日文明の敵は〓て〓〓の〓〓爲り共に改進の路に入るも亦決して〓き〓〓さる可し況や大院君其人の如きが一旦これ奮發して國民に率先することもあらば全國忽ち〓〓して一盲目を改む可きは疑を容れず朝鮮は抉して無智の〓〓〓に非さるなり