「帝室論」

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このページについて

時事新報に掲載された「帝室論」(18820426)の書籍化である『帝室論』を文字に起こしたものです。

題名帝室論
執筆期間1882-04 頃
初回掲載日1882-04-26
終回掲載日1882-05-11
掲載日数12
出版御届年月日1882-05-13
刊行年月日1882-05-00
備考草稿未残存

本文

帝室論緒言

我日本の政治に關して至大至重のものは帝室の外にあるべからずと雖も、世の政談家にして之を論ずる者甚だ稀なり。蓋し帝室の性質を知らざるが故ならん。過般諸新聞紙に主權論なるものあり。稍や帝室に關するが如しと雖も、その論者の一方は百千年來陳腐なる儒流皇學流の筆法を反覆開陳するのみにして、恰も一宗旨の私論に似たり。固より開明の耳に徹するに足らず。又一方は直に之を攻撃せんとして何か憚る所あるか、又は心に解せざる所あるか、その立論常に分明ならずして文字の外に疑を遺し、人をして迷惑せしむる者少なからず。畢竟論者の怯懦不明と云ふべきのみ。福澤先生茲に感ありて帝室論を述らる。中上川先生之を筆記して通計十二篇を成し、過日來之を時事新報社説欄内に登録したるが、大方の君子高評を賜わらんとて、近日に至る迄續々第一篇以來の所望ありと雖ども、新報既に缺號して折角の需に應ずること能わず。今依て全十二篇を一册に再刊し、同好の士に頒つと云。

明治十五年五月 編者識

帝室論

福澤諭吉 立案

中上川彦次郎 筆記

帝室は政治社外のものなり。苟も日本國に居て政治を談じ政治に關する者は、その主義に於て帝室の尊嚴とその神聖とを濫用すべからずとの事は、我輩の持論にして、之を古來の史乘に徴するに、日本國の人民がこの尊嚴神聖を用いて直に日本の人民に敵したることなく、又日本の人民が結合して直に帝室に敵したることもなし。往古の事は姑く擱き、鎌倉以來、世に亂臣賊子と稱する者ありと雖ども、その亂賊は帝室に對するの亂賊に非ずして、北條、足利の如き最も亂賊視せらるゝ者なりと雖ども、尚且大義名分をば蔑如するを得ず。左ればこの亂臣賊子の名は、日本人民の中にて各主義を異にし、帝室を奉ずるの法は斯の如くすべし、斯の如くすべからずとて、互にその遵奉の方法を爭い、天下の輿論に亂賊視せらるゝ者は亂臣賊子と爲り、忠義視せらるゝ者は忠臣義士たるのみ。

我輩固よりこの亂臣賊子の罪を免すに非ず、之を惡み之を責めて止まずと雖ども、這は唯我々臣子の分に於て然るのみ。遙に高き帝室より降臨すれば、亂賊も亦是れ等しく日本國内の臣子にして、天覆地載の仁に輕重厚薄あるべからず。或は一時一部の人民が方向に迷うて針路を誤ることあるも、一時これを叱るに過ぎず。そのこれを叱るや、父母が子供の喧嘩して騷々しきを叱るに等しく、之を惡むに非ず、唯これを制するのみにして、僅にその一時を過れば又これを問わず。依然たる日本國民にして、帝室の臣子なり。例えば近く維新の時に當て官軍に抗したる者あり。その時には恰も帝室に抗したるが如くに見えたれども、その眞實に於ては決して然らざるが故に、事收るの後は之を赦すのみならず、又隨て之を撫育し給うに非ずや。彼の東京の上野に戰死したる彰義隊の如き、一時の姿は亂賊の如くなりしかども、今日帝室より之を見れば、十五年前、我國政治上の葛藤よりして、人民共が戰爭の事に及び、雙方に立分れて鋒を爭いしが、雙方共に勇々しき有樣なりし、我日本には勇士多き事なる哉、今にして之を想えば死者は憐むべしとて、一度びは勇士の多きを悦び、一度びはその勇士の死亡したるを憐み給うことならんのみ。右の如く、我日本國に於ては、古來今に至るまで眞實の亂臣賊子なし。今後千萬年も是れあるべからず。或は今日にても、狂愚者にしてその言、往々乘輿に觸るゝ者ある由、傳聞したれども、是れとても眞に賊心ある者とは思われず。百千年來絶て無きものが、今日頓に出現するも甚だ不審なり。若しも必ず是れありとせば、その者は必ず瘋癲ならん。瘋癲なれば之れを刑に處するに足らず。一種の檻に幽閉して可ならんのみ。

去年十月國會開設の命ありしより、世上にも政黨を結合する者多く、何れにも我日本の政治は立憲國會政黨の風に一變することならん。この時節に當て我輩の最も憂慮する所のものは唯帝室に在り。抑も政黨なるものは、各自に主義を異にして、自由改進と云い、保守々舊と稱して、互に論鋒を爭うと雖ども、結局政權の受授を爭うて、己れ自から權柄を執らんとする者に過ぎず。その爭に腕力兵器をこそ用いざれども、事實の情況は、源氏と平家と爭い、關東と大阪と相戰うが如くにして、左黨右黨相對し、左黨に投票の多數を得て一朝に政權を掌握するは、關東の徳川氏が關原の一捷を以て政權を得たるものに異ならず。政黨の爭も隨分劇しきものと知るべし。この爭論囂々の際に當て、帝室が左を助るか、又は右を庇護する等の事もあらば、熱中煩悶の政黨は、一方の得意なる程に一方の不平を増し、その不平の極は帝室を怨望する者あるに至るべし。その趣は、無辜の子供等が家内に喧嘩する處へ、父母がその一方に左袒するに異ならず。誠に得策に非ざるなり。加之政黨の進退は十數年を待たず、大抵三、五年を以て新陳交代すべきものなれば、その交代毎に一方の政黨が帝室に向い又これに背くが如きあらば、帝室は恰も政治社會の塵埃中に陷りて、その無上の尊嚴を害して、その無比の神聖を損するなきを期すべからず。國の爲に憂慮すべきの大なるものなり。世に皇學者流なるものありて、常に帝室を尊崇してその主義を守り、終始一の如くにして畢生その守る所を改めざるの節操は、我輩の深く感心する所なれども、又一方よりその弊を擧れば、帝室を尊崇するの餘りに社會の百事を擧て之に歸し、政治の細事に至るまでも一處に之を執らんことを祈るその有樣は、孝子が父母を敬愛するの餘りに、百般の家政を父母に任じて細事に當らしめ、却て家君の體面を失わしむるに異ならず。帝室は萬機を統るものなり、萬機に當るものに非ず。統ると當るとは大に區別あり。之を推考すること緊要なり。又皇學者流が固くその守る所を守るが爲に、その主義時としては宗旨論の如くなり、苟も己れに異なる者は之を容れずして、却て自からその主義の分布を妨るものあるが如し。人をして我主義に入らしめんと欲せば、之に入るの門を開くこそ緊要なれ。是等は我輩の感服せざる所なり。我輩は赤面ながら不學にして、神代の歴史を知らず又舊記に暗しと雖ども、我帝室の一系萬世にして、今日の人民が之に依て以て社會の安寧を維持する所以のものは、明に之を了解して疑わざるものなり。この一點は皇學者と同説なるを信ず。是即ち我輩が今日國會の將さに開んとするに當て、特に帝室の獨立を祈り、遙に政治の上に立て下界に降臨し、偏なく黨なく、以てその尊嚴神聖を無窮に傳えんことを願う由縁なり。

我帝室の直接に政治に關して國の爲に不利なるは、前段に之を論じたり。或人これに疑を容れ、政治は國の大事なり、帝室にして之に關せずんば、帝室の用は果して何處に在るやとの説あれども、淺見の甚しきものなり。抑も一國の政治は甚だ殺風景なるものにして、唯法律公布等の白文を制して之を人民に頒布し、その約束に從う者は之を赦し、從わざるものは之を罰するのみ。畢竟形體の秩序を整理するの具にして、人の精神を制するものに非ず。然るに人生を兩斷すれば、形體と精神と二樣に分れて、よくその一方を制するも、他の一方を捨るときは、制御の全きものと云ふべからず。例えば家の雇人にても、賃錢の高と勞役の時間とを定るも、決して事を成すべからず。如何なる雇人にても、その主人との間に多少の情交を存してこそ、快く役に服する者なれ。即ちその情交とは精神の部分に屬するものなり。賃錢と時間とは唯形體の部分にして、未だ以て人を御するに足らざるなり。故に政治は唯社會の形體を制するのみにして、未だ以て社會の衆心を收攬するに足らざるや明なり。

この人心を收攬するに、專制の政府に於ては君王の恩徳と武威とを以てして、恩に服せざるものは威を以て嚇し、恩威竝行われて天下太平なりし事なれども、人智漸く開て政治の思想を催うし、人民參政の權を欲して將さに國會を開んとするの今日に至ては、復た專制政府の舊套を學ぶべからず。如何となれば國會爰に開設するも、その國會なる者は民撰議員の集る處にして、その議員が國民に對しては恩徳もなく又武威もなし。國法を議決してその白文を民間に頒布すればとて、國會議員の恩威竝行わるべきとも思われず、又行わるべき事理に非ざればなり。國會は直に兵權を執るものに非ず、人民を威伏するに足らず。國會は唯國法を議定して之を國民に頒布するものなり、人民を心服するに足らず。殊に我日本國民の如きは、數百年來君臣情誼の空氣中に生々したる者なれば、精神道徳の部分は、唯この情誼の一點に依頼するに非ざれば、國の安寧を維持するの方略あるべからず。即ち帝室の大切にして至尊至重なる由縁なり。

況や社會治亂の原因は常に形體に在らずして精神より生ずるもの多きに於てをや。我帝室は日本人民の精神を收攬するの中心なり。その功徳至大なりと云ふべし。國會の政府は二樣の政黨相爭うて、火の如く水の如く、盛夏の如く嚴冬の如くならんと雖ども、帝室は獨り萬年の春にして、人民これを仰げば悠然として和氣を催うすべし。國會の政府より頒布する法令は、その冷なること水の如く、その情の薄きこと紙の如くなりと雖ども、帝室の恩徳はその甘きこと飴の如くして、人民これを仰げば以てその慍を解くべし。何れも皆政治社外に在るに非ざれば行わるべからざる事なり。西洋の一學士、帝王の尊嚴威力を論じて之を一國の緩和力と評したるものあり。意味深遠なるが如し。我國の皇學者流も又民權者流もよくこの意味を解し得るや否や。我輩はこの流の人が反覆推究して、自から心に發明せんことを祈る者なり。

例えば明治十年西南の役に、徴募巡査とて臨時に幾萬の兵を募集して戰地に用いたることあり。然るにその募に應ずる者は大抵皆諸舊藩の士族血氣の壯年にして、然かも廢藩の後未だ産を得ざる者多し。家に産なくして身に勇氣あり、戰場には屈強の器械なれども、事收るの後に至てこの臨時の兵を解くの法は如何すべきや。殺氣凜然たる血氣の勇士、今日より無用に屬したれば各故郷に歸りて舊業に就けよと命ずるも、必ず風波を起す事ならんと、我輩はその徴募の最中より後日の事を想像して竊に憂慮したりしが、同年九月、變亂も局を結で、臨時兵は次第に東京に歸りたり。我輩は尚この時に至る迄も不安心に思いし程なるに、兵士を集めて吹上の禁苑に召し、簡單なる慰勞の詔を以て、幾萬の兵士一言の不平を唱る者もなく、唯殊恩の渥きを感佩して郷里に歸り、曾て風波の痕を見ざりしは、世界中に比類少なき美事と云ふべし。假に國會の政府にて議員の中より政府の首相を推撰し、その首相が如何なる英雄豪傑にても、明治十年の如き時節に際して、よくこの臨時兵を解くの工夫あるべきや。我輩斷じてその力に及ばざるを信ずるなり。

又假に爰に一例を設けて云わん。天皇陛下某處へ御臨幸の途上、偶ま重罪人の刑場に赴く者ありて御目に留り、その次第を聞食されて一時哀憐の御感を催うされ、彼の者の命だけを赦し遣わせとの御意あらば、法官も特別に之を赦すことならん。然るにこの事を新聞紙等に掲げ、世間の人が傳聞して何と評すべきや。我輩今日の民情を察するに、世間一般の人は彼の罪人を目して唯稀有の仕合者と云ふことならんと信ず。某月某日は彼の罪人の爲には如何なる吉日か、不思議の事にて一命を拾うたりとのみにて、嘗て法理云々など論ずる者なく、假令い之を論ずるも聽く者はなかるべし。固より罪ある者を漫に赦すは社會の不幸にして、我帝室に於ても漫に行わせらるべき事に非ず。況や本文は唯假に例を設けて我民情を寫したるまでのことなれども、或は政治上に於て止むを得ざるの場合なきに非ず、國法に於て殺すべし、情實に於て殺すべからず、之を殺せば民情を害するが如き罪人あるときは、帝室に依頼して國安を維持するの外方便あるべからず。故に諸外國の帝王は、無論、亞米利加合衆國の大統領にても、必ず特赦の權を有するは之が爲なり。我帝室も固よりその特權を有せられ、要用のときには必ず政府より請願して命を得ることもあらん。決して漫然たることには非ずと雖ども、外國にても日本にても等しく特赦の命を下して、その民情に對して滑なるの度合如何を比較すれば、我日本の國民は特別に帝室を信ずるの情に厚き者と云わざるを得ず。我輩が今日國會の將さに開んとするに當て、特に帝室の尊きを知り、その尊嚴の益尊嚴ならんことを祈り、その神聖の益神聖ならんことを願い、苟も全國の安寧を欲して前途の大計に注目する者は、容易にその尊嚴を示す勿れ、容易にその神聖を用る勿れ、謹で默して之を輕重する勿れとて、反覆論瓣して止まざるも、唯一片の婆心、自から禁ずること能わざればなり。

人或は我帝室の政治社外に在るを見て虚器を擁するものなりと疑う者なきを期すべからずと雖ども、前にも云える如く、帝室は直接に萬機に當らずして萬機を統べ給う者なり。直接に國民の形體に觸れずしてその精神を收攬し給う者なり。專制獨裁の政體に在ては、君上親から萬機に當て直に民の形體に接する者なりと雖ども、立憲國會の政府に於ては、その政府なる者は、唯全國形體の秩序を維持するのみにして、精神の集點を缺くが故に、帝室に依頼すること必要なり。人生の精神と形體と孰れか重きや。精神は形體の帥なり。帝室はその帥を制する者にして、兼て又その形體をも統べ給うものなれば、焉ぞ之を虚位と云ふべけんや。若しも強いて之に虚位の名を附せんと欲する者あらば、試に獨り默して今の日本の民情を察し、その數百千年來君臣の情誼中に生々したる由來を反顧し、爰に頓に國會を開て、その國會のみを以て國民の身心を併せて共に之を制御せんとするの工夫を運らしたらば、果して大に不可なるものありて大に要する所の者あるを覺うべし。その要する所のものとは何ぞや。民心收攬の中心にして、この中心を得ざるの限りは、到底今の日本の社會は暗黒なるべしとの感を發することならん。左れば帝室は我人民の依て以てこの暗黒の禍を免かるゝ所のものなり。之を虚位と云わんと欲するも得べけんや。讀者も心に之を發明することならん。

例えば、一利一弊は人事の常にして免かるべからず。寡人政治の風を廢して、人民一般に參政の權を附與し、多數を以て公明正大の政を行うは、國會の開設に在ることならんと雖ども、之を開設して隨て兩三政黨の相對するあらば、その間の軋轢は甚だ苦々しきことならん。政治の事項に關して敵黨を排撃せん爲には、眞實、心に思わぬ事をも喋々して、相互に他を傷くることならん。その傷けられたる者が他を傷くるは鄙劣なりなど論辨しながら、その論辨中に復讐して又他を傷くることならん。或は人の隱事を摘發し、或はその私の醜行を公布し、賄賂依托は尋常の事にして、甚しきは腕力を以て爭鬪し、礫を投じ瓦を毀つ等の暴動なきを期すべからず。西洋諸國大抵皆然り、我國も遂に然ることならん。文政天保の老眼を以て見れば誠に言語道斷にして、國會などなきこそ願わしけれども、世界中の氣運にして、この騷擾の中に自から社會の秩序を存し、却て人を活溌に導くべき者なれば、必ずしも之を恐るゝに足らず。然るに爰に恐るべきは、政黨の一方が兵力に依頼して兵士が之に左袒するの一事なり。國會の政黨に兵力を貸す時はその危害實に云ふべからず。假令い全國人心の多數を得たる政黨にても、その議員が議場に在る時に一小隊の兵を以て之を解散し又捕縛すること甚だ易し。殊に我國の軍人は自から舊藩士族の流を汲て政治の思想を抱く者少なからざれば、各政黨の孰れかを見て自然に好惡親疎の情を生じ、我れは夫れに與せんなど云ふ處へ、その政黨も亦これを利して暗に之を引くが如きあらば、國會は人民の論場に非ずして軍人の戰場たるべきのみ。斯の如きは則ち最初より國會を開かざる方、萬々の利益と云ふべし。斯る事の次第なれば、今この軍人の心を收攬してその運動を制せんとするには、必ずしも帝室に依頼せざるを得ざるなり。帝室は遙に政治社會の外に在り。軍人は唯この帝室を目的にして運動するのみ。帝室は偏なく黨なく、政黨の孰れを捨てず又孰れをも援けず。軍人も亦これに同じ。固より今の軍人なれば陸海軍卿の命に從て進退すべきは無論なれども、卿は唯その形體を支配してその外面の進退を司るのみ。内部の精神を制してその心を收攬するの引力は、獨り帝室の中心に在て存するものと知るべし。且又軍人なる者は一般に利を輕んじて名を重んずるの氣風なるが故に、之が長上たる者は、假令い文事理財等に長ずるも、武勇磊落の名望ありてその地位高きに非ざれば任に適せず。今の陸海軍の將校が、その給料の割合に比して等級の高きも、是等の旨に出たるものならん。又亞米利加の合衆國にては宗教も自由にして、政府に人を用るにその宗旨を問わずと雖ども、武官に限りて必ずその國教なる耶蘇宗門の人を撰ぶと云ふ。蓋し他宗の人は兎角世間に輕侮せられて軍人の心を收るに足らざればなり。武流の人が名を重んずるの情、以て見るべし。然るに今國會を開設して國の大事を議し、その時の政府に在る大臣は國會より推撰したる人物にして、偶々事變に際して和戰の内議は大臣の決する所なりとするときは、陸海軍人の向う所は國會に由て定めらるゝ者の如し。

軍人の進退甚だ難きことならん。假令いその大臣が如何なる人物にても、その人物は國會より出たるものにして、國會は元と文を以て成るものなれば、名を重んずるの軍人にして之に心服せざるや明なり。唯帝室の尊嚴と神聖なるものありて、政府は和戰の二議を帝室に奏し、その最上の一決御親裁に出るの實を見て、軍人も始めて心を安んじ、銘々の精神は恰も帝室の直轄にして、帝室の爲に進退し、帝室の爲に生死するものなりと覺悟を定めて、始めて戰陣に向て一命をも致すべきのみ。帝室の徳、至大至重と云ふべし。僅に軍人の一事に就ても尚且斯の如し。我輩は國會の開設

を期して益その重大を感ずる者なり。

西洋碩學の説に、一國の人心を收攬して風俗を興すの方便は、その國々の民情舊慣に從て同じからずと雖ども、各國に通じて利用すべき者は、宗教、學事、音樂、謳歌等にして、殊に立君の國に於ては王室を以て人心收攬の中心たるべしと云えり。我日本の如きは古來宗教に拘泥せざるの民俗なれども、僧侶善智識の一言を以て兵刃既に接するの戰を和解したるの例なきに非ず。又敗軍の將士が高野の山に登り、國事犯の罪人が鎌倉の尼寺に入り、或は舊諸藩にて士族の間に不和を生ずるか、又は藩法の爲に止むを得ずしてその家來に割腹を命ずる等のときに當て、君家菩提寺の老僧が仲裁に入り、或は命乞いとて犯罪人を寺に引取ることあり。何れも皆宗教に依て政治社會の風浪を和したるものなり。又江戸の市中に鳶の者と稱する壯丁の種族が、火事場などに於て動もすれば喧嘩に及び、雙方結ぼれて解けざる時に、親分なる者が仲裁に入り、公裁を仰がずしてその喧嘩の是非を糺して、非なりと認る所の者を坊主にするか、或は自から剃髮して仲直りの式を行う事あり。この坊主は固より寺に入るの坊主には非ざれども、その本は落飾の趣意に出でしものならん。僅に鳶の者の仲間に於ても尚且法理のみに依るべからず、必ず一種の緩和力を頼てその社會の安寧を維持す。況や政治の大社會に於てをや。その社會の愈大なるに從てその喧嘩軋轢も亦愈大なり。その愈大なるに從て緩和仲裁の力を要することも亦愈急なるべし。耶蘇教に熱心なる歐亞諸國に於ては、その宗教を以て國事に利したるの例甚少なからず。英國に於て千六百年代「コロンウェル」の亂に、國中の人心劇烈の極點に達して、當時議事院の如きは左右兩黨に相分れ相互に疾視咆哮して、その劇論の底止する所を知るべからず、人をして寒心戰慄せしむる程の情況なりしが、時に一老僧の勸めに從い、急に席を改めて上帝禮拜の式を行い、然る後に座を定めて更に議事を開きしかば、滿場自然に和穆の氣を催うして、穩に議を終たることあり。爾後英國の議事院に於ては、開議の前必ず禮拜の式を行い、今日尚その例に依ると云ふ。

學風の利弊は、日本にも支那にもその例最も多くして、人心に銘すること最も深し。徳川政府にて昌平館の學風を朱子學と一定してより、各藩大抵皆これに傚い、太平二百七十年の間に、碩學大儒、異風を唱る者なきに非ざれども、天下一般學者の多數は朱子學に制せられて他はその意を逞うするを得ず。唯舊水戸藩に於て一種の學風を起したれば、忽ちその藩士の氣風を一變したることあり。唯學校の教則のみならず、或は一部の著書を以て天下の人心を左右すること甚だ易し。頼山陽の日本外史は王政維新の元素となり、又維新の前後に僅々の著書飜譯書を以て一時に日本國の全面を一變して、朝野改進の端を開きたるものあるが如し。

音樂謳歌は日本に於て左まで效力なきが如くなれども、西洋諸國にては一節の歌を以て幾千萬の人心を繁ぎ、之を幾百年に維持して國の治亂を制する者あり。佛の「リパブリック」、英の「ルールブリタニヤ」の曲の如き、是なり。日本にて之に類するものは、舊暦三月三日上巳の節句、家々に雛を飾り、俗に云ふお内裏樣とて雛の棚の上段に奉るは、蓋し日本國中の至尊たる歴世の天皇と皇后との御兩體を表したるものならん。又唄の文句にも、王は十善、神は九善と云ふことあり。是亦同樣の意味ならん。何れも皆尊王の人心を收攬するものと云ふべし。又舊暦の正月に、三河萬歳とて、古風なる衣裳を着けたるものが、鼓太鼓を携え、毎戸に來て祝詞を唄うは、徳川家康公の萬歳を祝するの遺禮なりと云ふ。又元和元年、大阪の落城は五月六日なりしより、爾來徳川の政府にて最も端午の節句を重んじたるか、全國の風俗を成し、男兒ある家には家の内外に軍旗樣のものを樹て武者人形を飾る等、專ら尚武の風を裝い、又或る地方の習慣にて、その旗と人形を收るに、武家は五月五日の夕を限り、農商の家は翌六日までに存するの風あり。蓋し大阪落城は六日にて、武家はこの日に凱陣して、軍器は最早不用なるが故に、その前日に之を收るの式を表すれども、町人百姓は軍事に關係なくして、翌日までも勝手次第と云ふ意ならん。何れも皆徳川の舊を懷うて、尚武の士氣を鼓舞する爲には、大に效力ありし風俗ならん。尊王なり尚武なり、既に全國の風俗をなすときは、容易に消滅すべきものに非ず。以て亂を治むべし、以て治を亂るべし。俚俗謳歌とて決して之を輕々看過すべからざるなり。

王室の功徳は共和國民の得て知らざる所なれども、その風俗人心に關して有力なるは擧て云ふべからず。人或は立君の政治を評して、人主が愚民を籠絡するの一欺術などとて笑う者なきに非ざれども、この説を作す者は畢竟政事の艱難に逢わずして民心軋轢の慘状を知らざるの罪なり。青年の書生輩が二、三の書を腹に納め、未だその意味を消化せずして直に吐く所の語なり。試に思え、我日本にても政治の黨派起りて相互に敵視し、積怨日に深くして解くべからざるのその最中に、外患の爰に生じて國の安危に關する事の到來したらば如何するや。自由民權甚だ大切なりと雖ども、その自由民權を伸ばしたる國を擧げて、不自由無權力の有樣に陷りたらば如何せん。守舊保守亦大切なりと雖ども、舊物を保守し了りてそのまゝに他の制御を受けたらば如何せん。鷸蚌相鬪て勝敗容易ならず、全身の全力は既に盡して殘す所なし。何ぞ他を顧みて之が謀を爲すに遑あらんや。去年發兌時事小言の緒言に云く、

前略、記者は固より民權論の敵に非ず、その大に欲する所なれども、民權の伸暢は唯國會開設の一擧にして足るべし。而して方今の時勢これを開くことも亦難きに非ず。假令い難きも開かざるべからざるの理由あり。

然りと雖ども國會の一擧以て民權の伸暢を企望し、果して之を伸暢し得るに至て、そのこれを伸暢する國柄は如何なるものにして滿足すべきや。民權伸暢するを得たり、甚だ愉快にして安堵したらんと雖ども、外面より國權を壓制するものあり、甚だ愉快ならず。俚話に、青螺が殼中に收縮して愉快安堵なりと思い、その安心の最中に忽ち殼外の喧嘩異常なるを聞き、竊に頭を伸ばして四方を窺えば、豈計らんや身は既にその殼と共に魚市の俎上に在りと云ふことあり、國は人民の殼なり。その維持保護を忘却して可ならんや。近時の文明、世界の喧嘩、誠に異常なり。

或は青螺の禍なきを期すべからず。この禍の憂うべきもの多くして之を憂る人の少なきは、記者に於て再び不平なきを得ざるなり。唯如何せん、今日は是れ民權論一偏の世の中なれば、世論或は却て記者に對して不平なる者あらんと雖ども、今後十年を期し、その論者が心事を改て今日の記者と主義を同うするの日を待つのみ。

右時事小言の所論も、その旨は本編の義に異ならず。斯る内政の艱難に際し、民心軋轢の慘状を呈するに當て、その黨派論には毫も關係する所なき一種特別の大勢力を以て雙方を緩和し、無偏無黨、之を綏撫して各自家保全の策に從事するを得せしむるは、天下無上の美事にして人民無上の幸福と云ふべし。是れ我輩が偏に我帝室の獨立を祈願する由縁なり。方今世の民權論者も帝室を尊崇すると言い又實に尊崇するの意ならんと雖ども、その語氣眞實の至情に出るものゝ如くならず、唯公然と口を開き帝室は尊きが故に之を尊ぶと云ふのみにして、その功徳の社會に達する由縁を語らず、人民の安寧は帝室の緩和力に依頼するの理由を述べず、その殺風景なる有樣は、家の子供が繼母に對して、苟も我々の母なるが故に孝養を盡すは勿論の事なりと公言する者に彷彿たり。加之主權云々に就ても何か議論がましく喋々と述立て、又或はその論者の黨類と稱する者の中には隨分過激の徒もなきに非ず。凡そ政黨に免かるべからざることなれども、保守論者の流より之を見れば猜疑なきを得ず。彼等は口に甘き言を唱れども、内心は甚だ危險なる者なり、去迚は恐ろしき次第、これを捨て置くべからずとて、何の手段もなくして唯容易に帝室の名を用い、公に帝室保護などゝ唱えて經營するその有樣は、恰も帝室の名義中に籠城して滿天下を敵にする者の如し。固よりこの保守論者も、立憲政體、國會開設の事に付ては異論なくして、その邊は民權家と同一致の如くなれども、その帝室云々と口に唱え筆に記する所の氣風を察し、その主權論などの論鋒を視れば、維新以前專制政治の時代に唱えし古勤王の臭氣を帶るが如くにして、その持論の要點には常に神代の事共持出し、我帝室は開闢の初に於て斯の如くなりしが故に、今日に在て斯の如し、今後も亦斯の如くなるべしとて、唯歴史上の舊事のみを稱揚し、今の日本國民が帝室を奉戴するは、恰も唯その舊恩に報ずるの義務の如くに披露するのみにして、その帝室が現に今日に在て人心收攬の中心と爲り、以て社會の安寧を維持するの理由は之を知らず。即ちその帝室に盡す所は單に過去報恩の一點に在るものにして、現在の恩徳を識別するの明なし。之に盡すこと薄しと云ふべし。又今後國會の開設、隨て政黨軋轢の不幸もあらば、未來の恩徳は益洪大なるべしと雖ども、その邊に就ても誠に漠然たる者の如し。之に望むこと少なくして、之を仰ぐこと高からずと云ふべし。畢竟保守論者皇學者流の諸士は、その心術忠實なるも經世の理に暗きが爲に、忠を盡さんと欲して之を盡すの法を知らず、恩に報いんと欲してその恩徳の所在を知らざる者のみ。持論、常に過去の報恩を主として、現在の事を云わず。故にその所説、往々宗旨論の風を帶びて變通に乏しく、自ら守て他に敵すること劇烈なるのみならず、その黨類と稱する者の中には、古勤王論に不似合なる人物もあり、又少壯の輩には隨分不學にして劇しき者もなきに非ざれば、民權の自由論者より之を見て、純然たる頑固物と認め、彼等は口に立憲國會など云ふと雖も、元來その持論に於てあるべからざる言なり、結局我々を驅除してその本色の專制に復古せんとするの内心ならんとて、亦大に猜疑の念なきを得ず。即ち方今世論の實況にして、その勢、近日に至て益増進するが如し。我輩は固より今の所謂自由改進の民權論に心醉する者に非ず、又今の所謂守舊保守の輩に左袒する者に非ず。彼の流の人が雙方その主義の相投ぜずして政談を爭うは自由自在にして、氣力のあらん限りに勉強すべしとて之に任ずると雖ども、雙方共に攻撃するにも又辨駁するにも、唯政治の談のみに止りて謹て帝室に近づくなからんこと、雙方の諸士に向て飽くまでも冀望する所なり。若しも然らざるときは、緩和の功徳は變じて劇烈なる亂階と爲るべきのみ。恐るべきに非ずや。尚甚しきは近日政府の内閣もこの黨派に關係するとの説あり。その關係の深淺は我輩これを知らずと雖も、假令い内閣たりとも、未だ政黨の姿を爲さずして、民間に黨與を募るが如き痕跡なければ則ち止まん。苟もその姿を成すこと眞實にして、その痕跡の見るべきものあらんには、その黨派として決して帝室の名を用ゆべからず。我帝室は下界の政黨に降り給うべきものに非ざればなり。萬に一も、我輩の憂慮する所、過慮ならずして、後日或は之が爲に不幸の禍を見ることもあらば、我輩は、今の在野の諸政黨に併せて政府の内閣に向い、その辨解を乞わんと欲する者なり。

前段に陳述する如く、我日本國民は帝室に對し奉りて、過去の恩あり、現在の恩あり。今後國會を開設して政黨の軋轢を生ずるの日には、必ずその緩和の大勢力に依頼せざるを得ず。即ち未來の恩にして、この三樣の大恩は日本國民たる者に於て平等に戴くべき者なり。然るに近來民間に黨派を結で改進自由など唱る者あれば、之を目して民權黨と名け、民權に反する者は官權なりとて、世間漸く官權黨の名を生じたるが如し。抑も官とは如何なる字義なるぞや。今の内閣の大臣參議以下の官吏を〔總〕惣稱したる名にして、官權とはこの官吏が政府に立て國事を執るの權力と云ふ義ならん。今日の政體に於ては、官吏は天皇陛下の命じ給う所の者にして、そのこれを命ずるの間に天下人心の向う所を斟酌し給うに非ず、固より賢良なる人物を擧げて衆庶の望に副わせられ給うは明々たることなれども、公然たる姿に於て人民よりその人を推撰するに非ず、投票の多數に由て進退するにも非ざれば、官吏は純然たる帝室の隸屬にして、帝室と政府との間に殆ど分界なしと云ふも可なり。即ち明治元年より今年に至るまで我國の政體なれば、今年に在て官權と云えば、その權は帝室の威光の中に在るものにして、或は之を帝室の大權中の一部分と云ふも大なる不可なかるべし。然るにこの官權の下に黨の字を加えて官權黨の名を作り、之を口に唱えて黨派を募るとは何事ぞ。字義を推してその極度に至れば、帝室の御爲に特に盡力せよと云ふ意味に落ることならん。天下四分五裂、大義名分も殆ど紊亂の姿を呈して、帝室の安危如何とて憂慮の餘りに、帝室に御味方申せと天下の志士を募りたるの例はなきに非ざれども、此れは是れ上古亂世の事にして、明治の昭代には夢にも想像すべからざるの不祥なり。既に御味方申せと云ふからには、畏くも眞實帝室に反する朝敵の所在なかるべからずと雖ども、今日の日本に朝敵は何處に在るや。我輩は世の新聞記者の流を學で態と過激なる語法を用る者に非ず、又巧に辭を婉曲にする者にも非ず、中心に我帝室を仰てその安泰を祈り奉り、之を祈て果して天下に朝敵なきを信ずる者なり。朝敵と云えば、維新以來舊幕政府の一類共に何か不審の筋あり云々等の事ならば、先ず古來和漢の例に於ても、國民前政府を慕うとか云ふ意味にて、隨分世にあるまじき嫌疑に非ざれども、幕府滅却の後は斷えてその痕跡を見ざるのみならず、舊幕府の談は政治社會に於て信に意に介する者もなきに非ずや。世界古今革命の事少なからずと雖ども、その革命の後に物論の穩なるは、獨り我明治政府を以て未曾聞の一例と爲すべき程のことにして、我輩は實に我帝室の萬々歳を信じて疑を容れず、之を疑わんと欲して中心にその疑懼の端を得ざる者なり。斯る昭代に居て、等しく是れ帝室の臣民なるに、その一部分の人が何を苦んで帝室保護等の言を吐くや。不祥の甚しきものなりと云わざるを得ず。固よりその社會の長老は必ず誠實なる人物にして、唯一偏に帝室の御爲を思い、之れを思うの餘りに世間を見て不安心なりと認る箇條もあらんと雖ども、その不安心は唯是れ局處に止まるものゝみ。萬頃の杉の林に兩三根の松を見ればとて、その松の繁茂して杉林の景色を變ずべきに非ず。帝室は全國人心の歸する所也。二、三の狂愚あるも之を如何すべきや。苟も社會の大勢に着眼する者ならば、之を視ること難きに非ざるべし。今一歩を進めて我輩は別に却て恐るゝ所のものあり。その次第は、官權主張の人物が、誠意誠心に帝室を重んじて、その極度は遂に帝室の御味方を申すとまでの姿に陷るときは、恰も敵なきに味方を作りたるものにして、その味方なる者は敵を求めて敵を得ず、却て新に敵を作るの媒介たるなきを期すべからず。去迚はその誠實の本心に戻るに非ずや。或は長老の人物に於ては、徒に敵を作るが如き粗漏もなきことならん、寛大以て人を容るゝの度量あらんと云ふと雖ども、如何せん俚俗に所謂禍は下からとて、その社中の末流に至ては大に長上の意の如くならずして、本源は獨り却て心を痛ましむるものあらん。甚しきは舊幕政府の末年に、幕府が世論の劇しきに苦しみ、政府の成規外に新徴組、新撰組なるものを作て、之を制せんとして却て益その劇しきを増進したるが如き齟齬を生ずべきやも測られず。誠に苦々しき次第にして、帝室の大恩徳を空うする者と云ふべし。都て事を論じて他よりその論を聞くに當り、論ずる者と聞く者との間に一點の猜疑ありてはその論旨は通達せざるものなり。故に我輩が斯く論じ來るも、讀者に於て何か疑を抱くときは實に際限もなきことなれども、我輩の持論は既に世に明告したる如く、在野の政黨に與みするものに非ず、又今の政府の官吏に左袒するものに非ず、唯社會の安寧を祈て進で建置經營する所あらんを願い、その針路方法を論じて世の政治家の注意を喚起せんとするまでのことなれば、彼の政治宗旨の小大夫が、眞宗を出れば必ず日蓮宗に歸し、兩宗の一に歸依するに非ざれば身を處すること能わざるが如き者に比すれば、少しく異なる所のものあり。讀者も少しく靜にして先ず猜疑の念を去り、虚心平氣以て聽く所あれ。記者の行文波瀾を失い、誠に無力赤面の至なれども、只管讀者の推考を乞うのみ。

官權固より擴張せざるべからず。苟も一國の政府として施政の權力なきものは、政府にして政府に非ず。殊に維新以來の政府は三百藩を合併したるものにして、その財政なり又兵力なり、頗る強大なるべき筈なるに、今日の有樣にて日本國と日本政府との權衡を見れば、我政府は決して強大なるものと云ふべからず。官權大に擴張せざるべからざるなり。然りと雖ども、この官權は前節に論じたる如く、今日の政體に於ては直に帝室に接したる政府の權力にして、毫も人民の意見を交ゆべき者に非ざれば、今の法律に從い今の慣行に由り、名も實も帝室の旨を奉じて政を施すべきは無論、内閣の大臣參議以下眞實に帝室の隸屬にして、その施政の際に一毫の私意を交うべからず。故にこの政體を遵奉するの間に、政府より發する所の政令は、悉皆帝室の政令たるべきのみならず、或は施政の便利の爲に人民に説諭することあれば、その説諭も帝室の旨を奉じたるものと認めざるを得ず。又その説諭は樣々の事に關して或は官權を擴張するの旨に出ることもあらん。即ち今の政體の政權を強大にするの趣意なれば、我輩に於て毫も異論あるべからずと雖ども、官權の二字に黨の字を加えて官權黨の熟字を作るときは、即ち純然たる政黨にして、その政黨の中には帝室を含有するものと云わざるを得ず。如何となれば、今の官權は下の人民より集めたるものに非ずして、上の帝室に出たるものなればなり。然るに帝室は無偏無黨、億兆に降臨して、我輩人民はその一視同仁の大徳を仰ぎ奉るべきものなりとの事は、我輩が反覆論辨したる所にして、この論旨果して是にして、日本人民が帝室に對し奉るの本分は、正にこの點に在るものなりとするときは、帝室の政黨に關係すべからざるや明なり。強いて之に關係すべしと云ふ者は、畏くもその尊嚴を?してその神聖を損するものにして、尊王の旨に非ざるなり。故に曰く、今の政體にて官權を擴張するは可なりと雖ども、官權黨の名義を作て黨與を募るが如きは不祥の甚しきものなり。

或は去年の十月國會開設の詔を拜してより、在朝の人もその心事を改め、明治二十三年の後は必ず黨派政治となることならん、その時には我々も一政黨を團結して他の政黨と頡頏せんものをと思い、その黨與を求るに、今日偶々同時に官途に在るの縁故を以て、官吏の仲間に一政黨の體を成して、兼て又民間に同志を募り、偶然に之を官權黨と名けて、以て二十三年後の用意を爲すが如きは怪しむに足らず。然るときはその政黨は全く帝室に縁なきものにして、帝室より降臨すれば毫も他の諸政黨に異なる所あるべからずと雖ども、尚この趣向にても官權黨の名は穩ならざるが如し。

如何となれば、この官權黨が明治二十三年の後より尚幾年も官に在れば、その名實相適うべしと雖ども、苟も黨派政治とあれば幾歳月の間には落路の政黨たるべきやも圖るべからず。若しも然るときは、之を在野の舊官權黨と名けざるべからざればなり。語を成さゞるが如し。但しその名稱は何樣にても苦しからず、唯我輩の冀望する所は、今の官權が若しも黨派の姿を成すことならば、速に帝室と分離して他の諸政黨と併立するの一事に在るのみ。右の如く官權黨たる者が、恰もその身を國會開設の後に置き、爾後の資格を今より假定して帝室と分離し、その分界明白なることならば、今の在野の諸政黨が何程に進歩し、又一方の官權黨が何程に有力にして、相互に軋轢を生ずるも、その軋轢は唯在官の人と在野の人との間に止まりて、大變亂に及ぶこともなかるべし。云わばその軋轢辛うじて政府に達して、其以上に昇らざるものなり。若しも然らずして、その官權が帝室に縁あるときは、この官權と頡頏するは、恰も帝室に頡頏するが如くに見え、この官權が民權を征伐するは、帝室が之を征伐するが如くに見えて、その人心を震動するの禍は實に容易ならざることならん。恐るべきの甚しきものなり。我帝室は萬世無缺の全璧にして、人心收攬の一大中心なり。我日本の人民はこの玉璧の明光に照らされてこの中に輻輳し、内に社會の秩序を維持して外に國權を皇張すべきものなり。その寶玉に觸るべからず、その中心を動搖すべからず。官權民權の如きは唯是れ小兒の戲のみ。豈小兒をして之に觸れしめんや、之を動搖せしめんや。謹て汝の分を守て汝の政治社會に經營すべきものなり。

我輩が帝室に望む所は唯前條々に止まらずして、他に又依頼するもの甚だ多し。近來は法律次第に精密を致して、世間に法理を云ふもの次第に喧しきに隨ては、政府の施政も都て規則を重んずるの風と爲るべきは自然の勢にして、國會開設の期にも至らば、政府は唯規則の中に運動するのみにして、規外には一毫の自由を得ざることならん。然るに人間社會はこの規則中に包羅すべきものに非ず。即ち政府の容量は小にして、社會の形は大なりと云ふも可なり。小を以て大を包まんとす、固より得べからず。例えば鰥寡孤獨を憐れみ、孝子節婦を賞するが如し。人情の世界に於ては最も緊要なる事にして、一國の風俗に影響を及ぼすこと最も大なるものなれども、道理の中に局促する政府に於ては、決して之に着手するを得ず。政府の庫中に在る一錢の金も一粒の米も、その出處は國會に議定したる租税にして、粒々錢々皆是れ國民の膏血なるぞ、焉ぞこの膏血を絞て他の口腹を養うの理あらんやなどゝ論じ來るときは、道理の世界に於て之に答るの辭あるべからず。去迚國民全體の情に訴るときは、無告を憐れみ孝悌を賞す、誰か之を拒む者あらんや。之を拒まざるのみならず、その擧を聞見して心に悦の感を生じ、共に之を助けんとする者こそ多からん。然るにその國民の名代たる國會議員の政府は、道理の府なるが故に情を盡すを得ざるなり。理を伸さんとすれば情を盡すべからず、情を盡さんとすれば理を伸ばすべからず。二者兩立すべからざるものと知るべし。左ればこの際に當て、日本國中、誰かよくこの人情の世界を支配して徳義の風俗を維持すべきや。唯帝室あるのみ。西洋諸國に於ては宗教盛にして、唯に寺院の僧侶のみならず、俗間にも宗教の會社を結で往々慈善の仕組少なからず、爲に人心を收攬して徳風を存することなれども、我日本の宗教はその功徳俗事に達すること能わず、唯僅に寺院内の説教に止まると云ふべき程のものにして、到底この宗教のみを以て國民の徳風を維持するに足らざるや明なり。帝室に依頼するの要用なること益明なりと云ふべし。人事を御するに必要なる者は勸懲賞罰にして、その勸賞の必要なるは懲罰の必要なるに異ならず。然るに國會の政府に於てはよく懲罰を行うべしと雖ども、勸賞の法は甚だ難くして之を行うこと甚だ稀なり。蓋し罪を犯す者は證左に據て罪の輕重を量り、その輕重に從て罰も亦輕重すべきが故に、恰も實物の輕重を量るが如くにして、約束の書に記すこと難からず。

即ち法律書の用を爲す由縁なれども、人の功を賞しその徳を譽るが如きは、その輕重を測量すること甚だ易からず。孝子節婦の徳義の輕重、固より量るべからざるのみならず、或は戰場の武功とても、その大小を區別して、何を大功と稱し、何を小功と評するは、甚だ難きことならん。即ち政府にて勸賞の事を行うの難き由縁なり。西洋諸國に於ても、その國民が何か大事業を擧げて國に益するか、又は海陸の軍人等が非常の働を爲したるときに、國會の議決にて之に謝するの法なきに非ざれども、極めて稀有の例なりと云ふ。故に國民の善を勸めてその功を賞する者は、必ず政府の外に在て存すること緊要にして、彼の國に於ては一地方の人民が申合せて有功の人に物を贈ることあり、或は學校その他公共の部局より之を賞することあり。稍や以て人事の缺を彌縫するに足ると雖ども、結局國民の榮譽は王家に關するものにして、西洋の語に王家は榮譽の源泉なりと云ふことあり、以て彼の國情の一〔斑〕班を見るべし。既に榮譽の源泉なるときは斷じて汚辱の源泉たるべからず。懲罰を蒙るは人生の汚辱なれば、その源を王家に歸すべからざるの理由明白にして、一國の王家は勸る有て懲らす無く、賞する有て罰するなきものなり。是即ち各國帝王の詔敕にも、罰則を掲ることなきのみならず、懲罰以て人民を威するが如き語法をも、容易に用いざる由縁なり。之を譬えば、風俗厚き良家の父母はその子に命ずるに、斯くせよと云ふに止まりて、斯くせざれば鞭つぞと云わざるが如し。口に之を云わず、況や手に鞭を取て直に之を打つに於てをや。良家の父母の常に愼しむ所なり。一國の帝王は一家の父母の如し。固より親から鞭を執る者に非ず、口にも鞭の字を云ふべからず。帝王の常に愼しむ所なり。西洋諸國の慣行に於て、その帝王と國民と相接するの厚情、斯の如し。況や我日本に於ては一層の厚きを加えざるべからず。數百千年來、賞罰共に專制の政府より出るの法にして、民間公共の部局に於て人を勸賞するが如 2 きは曾て聞見したることもなきものが、俄に國會の政府に變じて規則の内に局促し、よく懲らして勸ること能わず、よく罰して賞すること能わず、數を以て計え時を以て測り、規矩繩墨を以て社會の秩序を整理せんとしたらば、人民は恰も疊なき室に坐するが如く、空氣なき地球に住居するが如くにして、道理の中に窒塞することあるべし。今この人民の窒塞を救うて國中に温暖の空氣を流通せしめ、世海の情波を平にして民を篤きに歸せしむるものは、唯帝室あるのみ。

學術技藝の奬勵も亦た專ら帝室に依頼して國に益すること多かるべし。

方今全國の教育を司て學藝を奬勵する者は文部省なりと雖ども、その直轄の學校は誠に僅々にして生徒の數は數百に過ぎず。固より以て全國の學士を養うに足らざるなり。且文部も亦政府中の一省なれば、常に政府と運動を共にして、府に變あれば省にも亦變を生じ、甚しきは文部卿の更迭に從て省中の官吏を任免するのみならず、その學校の教員に至るまでも或は進退なきを期すべからず。教員を進退し學制を改革し、既に之を改革して又之を修正し、毎三、五年に變換するが如きは、教育に於て最も不利なるものと云ふべし。加之國會開設の後は、國庫の金を以て國中唯二、三の官立學校のみに給與することあるべきや。甚だ難きことならん。左ればその開設の後は、假令い文部省を廢せざるも、省の事務は唯國中の學事を監督するに止まりて、直に學校を支配するの慣行は止むことならんと信ず。天下既に官立の學校なし。假令い是れあるも全國の學士を養うに足らず。然ば則ち私立の學校を奬勵して之を盛大ならしむるの外に方便あるべからず。然るに今日各地に在る私學校の有樣は、實に微々たるものにして、見るに足るべきものなし。よく數百の生徒を教育してその法を誤らず、之を十數年に維持して學校の名に恥じざるものは、日本國中僅に指を屈するに足らず。小學下等の教は地方の協議に附して小學校に任すべしとするも、苟も小學以上學術の部分を以て、之をこの微々たる私立學校に任ぜんとするは、固より行わるべき事柄にあらず。是に於てか、我輩の大に冀望する所は、帝室に於て盛に學校を起し、之を帝室の學校と云わずして私立の資格を附與し、全國の學士を撰てその事に當らしめ、我日本の學術をして政治の外に獨立せしむるの一事に在り。文化漸く進で國民皆文の貴きを知るに至らば、民間富豪の有志にて學術のために金を捐る者をも生ずべしと雖ども、今日の民情尚未だこの段に進まず、之を如何ともすべからざれば、唯帝室に依頼して先例を示すの一法あるのみ。

斯の如く、新に高尚なる學校を起し、又在來の私學校には保護を與え、又或は時に隨ては今の官立學校の取るべきものを取て一度び帝室の御有と爲し、更に之に私立の資格を附與して從前の教官等に授るも可ならん。その細目の如きは實際の談として姑く擱き、兎に角にこの大體の趣向にて、我學術を政治社外に獨立せしめてその進歩を促すは、内國の利益幸福のみならず、遠く海外に對して、日本の帝室は學術を重んじ學士を貴ぶとの名聲を發揚するに足るべし。國の一美事なり。方今英國等に於て大學校の盛なる者は、悉皆獨立私立の資格なれども、その本を尋れば在昔王家の保護を蒙る者多しと云ふ。又近くは同國の皇婿「アルバルト」公は、在世の間、直接に政事に關せずと雖ども、好んで文學技藝を奬勵し、國中の碩學大家は無論、凡そ一技一藝に通達したる者にても、親しく公の優待を蒙らざるものなし。蓋し數十年來英國の治安を致して今日の繁榮を極るも、間接には公の力與りて大なりと云ふ。王家帝室の名聲を以て一國の學事を奬勵し、その功徳の永遠にして洪大なること以て知るべし。

又一方より論ずれば、學者は靜にして政治家は動くものなりと雖ども、人生各長所あり、悉皆動くを好む者に非ず。政治家が朝に立て威福を行い、軍人が敵に臨て勝を制す、愉快は固より愉快ならんと雖ども、學者が天然の原則を推究して、化學器械學等の微細を試驗し、偶然の機に會して千古の疑を解き、或は幽窓の下に孤坐して深妙の事理を思考し、一部の著書以て容易に天下の人心を左右するが如き、その時の愉快は他人の得て知らざる所にして譬えんに物なし。啻に連城の璧のみならず、天下を得る、亦大なりとするに足らず。心志茲に至れば、眼中復た王侯將相を見ざるなり。之を學者の愉快と云ふ。左れば人生の快樂はその人の性質と職業の習慣とに由り異なる者なれば、よくその性に隨て職業を得せしむるときは、世に學者なきを憂るに足らず。續々輩出してその業に安んずべきなり。

人或は近日の世態を見て政談客の多きに驚き、日本の學者は一種の氣風を帶びて悉皆政治に熱する者なりとて、漫に臆測憂慮する者なきに非ざれども、畢竟學者に一種の氣風あるに非ずして、世間に一種の氣風を缺くが故に然るものなり。即ち世間に學術を貴ぶの氣風なし、之を貴ばざるが故に學者は學問を以て身を立ること難し、身に才氣を抱て世に身を立るの路なし、靜ならんと欲するも得べからず。今の學者が政談に奔走するも亦謂れなきに非ざるなり。學者が自から好て政談に入るに非ず、驅て之を政談に入らしむるものあればなり。故に今若し帝室に於て天下に率先して學術を重んずるの先例を示し、學者をして各その業に就くを得せしめなば、全國靡然として風を成し、政治社外に純然たる學者社會を生ずるを得べし。是に於てか始めて我學問の獨立を見るべきなり。且又學者なるものは、政治家に比すれば生活の趣を殊にして、衣食住の外見を裝う者に非ず。又これを裝うの要用もあらざれば、自から質素にして他に異なる所のものあるべし。外の形體は粗にして内の精神は密なり、身の外見は賤しくして社會に對するの榮譽は極めて貴し。亦以て人の標準として世の教風を助くるの方便たるべし。偶然の利益と云ふべし。今日の有樣にては後進の學生日に増加すと雖ども、學問を以て靜に身を畢らんとする者は甚だ稀なるが如し。蓋しその靜なるを好まざるに非ずと雖ども、靜にして依頼すべき中心を得ず。學に志すこと愈篤き者は愈名利に遠ざかるの勢なるが故に、枉げて學問の社會を脱するのみ。我輩が只管我帝室を仰で全國學術の中心たらんことを願うも、その微意は蓋し此に在て存するものなり。

前節の論旨に帝室を仰で學術の中心に奉ぜんと記したるは、我日本の學問をして、假令いその主義は之を西洋近時の文明に取るも、之を取て以て遂に獨立すること、今の漢學がその源を支那に取て遂に我國に獨立したるが如くならしめんと欲するの趣意にして、學問の稍や高尚なるものに就て説を立たることなれども、尚この以下の藝術に於ても帝室に依頼せざるべからざるもの甚だ多し。抑も一國文明の元素は際限なく繁多なるものにして、人間社會の一事一物、文明の材料たらざるものなし。日本内地の人民と北海道の土人とを比較するときは、内地は文明にして北地は不文なりと云ふべし。如何となれば内地は人事繁多にして北地は簡約なればなり。内地の人民は三度の食事するに毎人に膳椀と箸とを備えて、北地の土人には往々是れなきものあり。左れば人間世界、僅に箸一膳の有無にても文明の高低を見るに足るべし。箸は文明の物なり。之を用る、文明の事なり。之を作り之を賣買す、亦文明の事なり。況や箸以上の事物に於てをや。その益多きに從て、益文明の高きを徴すべし。之を要するに人事の繁多、即ち文明開化と云ふも可ならん。

故に一國の文明を進むるの法は、人事の繁多を厭うべからざるのみならず、多々益これを奬勵して繁多ならしむるにあり。二十年前は二汁五菜を以て盛饌としたりしも、今は之に兼て西洋風の料理を食う。我人民は洋食の旨否を嘗るの知見を増して文明を進めたるものなり。二十年前は僅に漢書を讀て學者の名に恥じざりしものも、今は漢書に兼て洋書を知らざれば學者の社會に齒すべからず。我人民は横文を解するの知見を増して文明を進めたる者なり。人事繁多の世の中にして、文明進歩の秋と云ふべし。然りと雖ども、此は是れ新に文明を作て舊に加うるの談なれば、他日の議論に讓て暫く筆を擱し、爰に我輩が端を改めて專ら陳述せんと欲するものは、舊來我國に固有する文明の事物を保存せんとするの一事にして、又重ねて帝室に依頼せざるを得ざるなり。抑も人心を震動するの甚しきは政治の革命にして、政府爰に一新すれば人心も亦隨て一變し、その好尚の趣をも舊に異にすること多し。殊に我日本近時の革命は、唯に内國政治の變換のみに非ずして、恰も外國交際の新なる時に際して、外の新奇を以て内の舊套を犯したるもの少なからず。苟も舊時の事物とあれば、利害得失を分たずして、舊の字に加うるに弊の字を以てし、舊弊の熟語は下等社會にまで通用して、是れも舊弊なり、其れも舊弊なりとて、之を破壞する者は世間に識者視せらるゝの勢にして、内外兩樣の力を以て人心を顛覆したることなれば、その有樣は秋の枯野に火をの秋と云ふべし。然りと雖ども、此は是れ新に文明を作て舊に加うるの談なれば、他日の議論に讓て暫く筆を擱し、爰に我輩が端を改めて專ら陳述せんと欲するものは、舊來我國に固有する文明の事物を保存せんとするの一事にして、又重ねて帝室に依頼せざるを得ざるなり。抑も人心を震動するの甚しきは政治の革命にして、政府爰に一新すれば人心も亦隨て一變し、その好尚の趣をも舊に異にすること多し。殊に我日本近時の革命は、唯に内國政治の變換のみに非ずして、恰も外國交際の新なる時に際して、外の新奇を以て内の舊套を犯したるもの少なからず。苟も舊時の事物とあれば、利害得失を分たずして、舊の字に加うるに弊の字を以てし、舊弊の熟語は下等社會にまで通用して、是れも舊弊なり、其れも舊弊なりとて、之を破壞する者は世間に識者視せらるゝの勢にして、内外兩樣の力を以て人心を顛覆したることなれば、その有樣は秋の枯野に火を放ちたるが如く、際限あるべからずして、殆ど舊來の文明を一掃したるものと云ふも可なり。〔太〕大陽暦を用いて五節句を廢し、三百藩を廢して城郭を毀ち、神佛混淆を禁じて寺社の風景を傷うたるが如きは、今更恢復するも難からん、又今の事實の利害に於て恢復すべからざるものもあらんなれば、是等は姑く不問に附して、爰に我輩の特に注目する所は日本固有の技藝にして、今日これを保存せんと欲すればその事難からず、之を放却すれば遂にその痕を絶つの恐あるもの、即是れなり。日本の技藝に、書畫あり、彫刻あり、劍槍術、馬術、弓術、柔術、相撲、水泳、諸禮式、音樂、能樂、圍碁將棋、插花、茶の湯、薫香等、その他大工左官の術、盆栽植木屋の術、料理割烹の術、蒔繪塗物の術、織物染物の術、陶器銅器の術、刀劍鍛冶の術等、我輩は逐一これを記し能わずと雖ども、その目甚だ多きことならん。是等の諸藝術は日本固有の文明にして、今日の勢既に大なる震動に逢うて次第に衰えんとするものなれば、之をその未だ滅了せざるに救うは實に焦眉の急と云ふべし。如何となれば、藝術は數學、器械學、化學等に異にして、數と時とを以て計るべきものにあらず、規則の書を以て傳うべきものに非ず。殊に日本古來の風にして、假令い規則に據るべきものにても、所謂人々家々の祕法に傳るもの多くして、その人に存するが故に、その人亡ればその藝術も共に亡ぶべきは當然の數にして、今日僅にその人を存し、然かもその人は將さに自然に亡びんとするの時なればなり。今この急を救うの策、果して如何すべきや。之を今日の文部省に托すべからず。之を托せんとするも、省の資格に於て行われ難きもの多からん。況や國會政府たるの後に於てをや。唯冷なる法律と規則とに依頼して道理の中に局促し、以て僅に國民の外形を理する政府の官省が、目下の人事に不用なる藝術を支配して特に之を保護奬勵せんとするが如き、全く想像外の事にして、唯この際に依頼して望むべきは帝室あるのみ。帝室は政治社會の外に立て高尚なる學問の中心となり、兼て又諸藝術を保存してその衰頽を救わせ給うべきものなり。

人或は曰く、前段に記したる諸藝術を保存せんが爲に、帝室に依頼するは則ち可なりと雖ども、その藝術の中には全く今日に無用なるものあるを如何せん、無用の藝術を保存するに有用の心思を勞して、又隨て多少の金を費す、全く無用の事なりとの説あれども、或人は誠に今日の人にして明日を知らざる者なり。人間の文明は、その日月永遠にして其の境界廣大なる者なり。文明一跳、千歳一日の如し。豈今日目下の無用を以て千歳文明の材料を棄ることを爲んや。今日土中より掘出す勾玉金環等の如きも、當時に在てその時代の經濟理論に明なる書生の評に附したらば、或は無用の物なりしならんと雖ども、數千年の下、今日に於てその勾玉の細工とその金環の鍍金とを視察すれば、我日本は數千年の前、既に鍍金の術ありしことを知て、その文明の度を見るに足るべし。左れば今日無用の物も明日その無用たらざるを知るべからず。試に今の書畫骨董を見よ。十餘年前は塵埃に埋めて顧る者もなく、緋威の鎧一領はその價金二朱と云ふも尚買う者なし。名家の筆跡と稱する金屏風も、之を燒てその金箔の地金を利するの時勢なりし者が、今日は全くその反對にして、鎧も刀劍も骨董として之を貴び、書畫の如き、一片紙帛、價幾百圓なる者あり。僅に十年の經過にして尚且然り。況や今後百年を過ぎ千年を經るに於てをや。人の好尚の變化は決して計るべき者に非ざれば、物の存すべきは之を存し、術の傳うべきは之を傳えて、我文明の富を損するなきこと緊要なるのみ。諸藝諸術、無用ならざるのみならず、我國固有の美術にして、洋人等の絶て知らざる者あり。茶を喫するに法あり、茶の湯の道と云ふ。花を器に插すに法あり、插花立花の術と云ふ。香品を薫して之を嗅ぐに法あり、薫香の藝と云ふ。此類甚だ少なからずして、西洋人に語るも容易に其意味を解すること難かる可し。又御家流の文字の如き、其本は支那に取りしものにても、支那流外に一種の書風を成して其法を傳授する上は我國の固有にして、美術の中には大切なるものならん。何れも皆我文明の富にして、外人に誇る可きものなり。此他、蒔繪、塗物、陶器、銅器、植木、割烹等の諸藝術に付き、逐一説明を下すは吾輩の能はざる處、又本編の旨にも非ざれば之を省き、唯願ふ所は、之をして政治革命の如き小世變の爲に、斷絶せしむるなきの一點に在るのみ。

在昔封建の時代に於て、三百諸侯の生活は頗る高尚なるものにして、之が爲に自から藝術を保護して其進歩を助けたるは人の知る所なり。諸侯の内に武具馬具の職工は無論、茶道の坊主あり、御用の大工左官あり、蒔繪師お庭方あり、料理人指物師等、大抵皆譜代世祿の家來にして、其職業に付き利を射るよりも名を爭うに忙わしく、所謂藝術家の功名心よりして、往々非常の名人を生じて、名作も少なからざりしことなり。蓋しその名作の物を代價に積るに、名人の家に數代宛行う所の扶持米を算用したらば、非常に高價なるものならんと雖ども、封建の諸侯はその會計變則にして、入を計らずして出を爲す者なれば、之を厭わざりしことならん。今後世に富豪を出して、その富或は古の諸侯に優る者もあらんと雖ども、苟も計入爲出の常則に從うときは、その藝術に對するの功徳は容易に望むべからざるなり。左れば今日に在て藝術家に世祿を與るは固より行われざることなれども、爰に一種の法を設けてその功名心を奬勵するの要用は明に知るべし。その法如何して可ならん。前節に帝室は榮譽の源泉なりと云えり。然ば則ち藝術家の榮譽もこの源泉より涌出するの法に依るべきのみ。近くその先例を擧れば、徳川の時代に陪臣又は浪人の儒者醫師等に高名なる人物あれば、御目見被仰付とて將軍に拜謁を許し、時としては之に葵の紋服を賜わるの例あり。一度び拜謁したる者は、假令幕臣ならざるも所謂御目見以上の格式にして、諸藩士の上に位し、幕府旗下の士と同格なるが故に、儒醫の身に在ては殆ど無上の榮譽にして、世間の名望甚だ高し。儒醫のみならず、圍碁將棋等に巧なる者にても、名人の譽ある者には拜謁を許し、且碁所將棋所とてその藝の宗家には豐に扶持を給し、毎年例に依て幕府の殿中に上覽の圍碁將棋會を開て屈指の者共藝を鬪わすときには、將軍も必ず親から出座して之を觀るの例あり。代々の將軍必ず碁將棋を嗜むにも非ざるべし、隨分迷惑なりしこともあらんと雖も、俗間にては之を御城碁、御城將棋と唱え、その當人は當日一局の勝敗を以て生涯の榮辱を卜し、甚しきは勝敗心勞の爲に吐血して死したる者もありしと云ふ。この他能樂者にも扶持を給し、刀鍛冶、彫刻師にも宛行を與る等、樣々の工夫を以て、徳川政府十五世の間に藝術將勵の一事は甚だ行屆たるものなり。今日は既に幕府なし、又諸侯なし。是に於てか全國人心の中心榮譽の源泉なる帝室に於て、今の民情を視察し前年の例を斟酌して、或は勳章の法を設け、或は年金の恩賜を施し、或はその人に拜謁を許され、或は新古の名作物を蒐集せらるゝ等の事あらば、天下翕然として一中心に集り、榮譽の源泉に向て功名の心を生じ、我藝術を將さに衰えんとしたるに挽回して、更に發達の機を促すのみならず、人心の帝室を慕うに一層の熱を増して、益その尊嚴神聖を仰ぐに至るべきなり。

帝室は人心收攬の中心と爲りて國民政治論の軋轢を緩和し、海陸軍人の精神を制してその向う所を知らしめ、孝子節婦有功の者を賞して全國の徳風を篤くし、文を尚び士を重んずるの例を示して我日本の學問を獨立せしめ、藝術を未だ廢せざるに救うて文明の富を増進する等、その功徳の至大至重なること擧て云ふべからず。蓋し輕躁の書生輩はこの大徳の輕重を辨ずること能わずしてこれを言わず、或はこれを云ふもその情水の如し。畢竟無智の罪なり。又鄭重にして着實なりと稱する長老の輩もその實は案外に性急にして、熱心極れば過激と爲り、却て恩徳の所在を忘れて狼狽を致す。是れ亦無智の罪なり。無智の罪は有心故造にあらず。之れを恕して正に歸するの日あるべきのみ。天下皆正に歸したり。乃ち帝室に於て前條々の事に着手せんとするに、第一の需要は資本、是なり。明治十四年度の豫算に、帝室及皇族費は百十五萬六千圓にして、宮内省の定額三十五萬四千圓とあり。この金額多きや少なきや。伊太利の帝室費は三百二十五萬圓にして、皇弟の賄料六萬圓、皇甥同四萬圓、その他國皇の巡狩費又は皇居建築營繕費等の如きは、別に國庫より出すと云ふ。又英國はその富裕の割合にして他の諸國に比すれば帝室費の少なきものなれども、二百萬圓を限りて、この外に「ランカストル」侯國より入るものあり。日耳曼は三百八萬圓の外に、帝室に屬する土地山林甚だ廣大にして、その歳入は悉皆宮殿及び皇族の費に供す。荷蘭は三十一萬二千圓の外に、曾て第一世「ウヰルレム」王の時より王家の私産に屬するもの甚だ多しと云ふ。

右各國の比例を見れば、我帝室費は豐なるものと云ふべからず。金圓の數も少なきその上に、帝室の私に屬する土地もなし又山林もなし。今後國會開設の後に於ては、必ず帝室と政府とは會計上にも自から分別の姿を爲すべきことなれば、今日より帝室の費額を増し、又幸にして國中に官林も多きことなれば、その幾分を割て永久の御有に供すること緊要なるべしと信ず。「バシーオ」氏の英國政體論に云く、世論喋々、帝室は須らく華美なるべしと云ふ者あり、須らく質素なるべしと云ふ者あり、甚しきは華美の頂上を極むべしと云ふ者あれば、之に反對して全く帝室を廢すべしと云ふ者あり、皆是れ一場の空論のみ、今の民情を察して國安を維持せんとするには、中道の帝室を維持すること甚だ緊要なり、理財の點より觀察を下すも、例えば百萬「ポンド」を帝室に奉じて人心收攬の中心たるを得るは、策の最も良きものにして、百萬は百萬の用を爲すものと云ふべし、今これを減少して七十五萬「ポンド」と爲し、その用法を異にして人心を得ること能わざるときは、七十五萬の全損にして拙策の甚しきもの云々と。言論簡單にして事理を盡したるものと云ふべし。都て帝室の費用は一種特別のものにして、その公然たるものあるべきは無論なれども、或は自由自在に費して殆ど帳簿にも記すべからざる程の費目もあるべし。最も大切なる部分なり。例えば在昔佛帝第一世の先后「ヂョセフヒン」は名高き賢婦人にして、常に皇帝の内行を助けてその失を彌縫し、宮中府中を問わず人心をして離散せしむるなきを勉めたりしが、皇帝が一旦の變心にて皇后を廢してより、忽ち内外の人望を失うたることあり。又近くは今の伊太利の皇后「マガリタ」は夙に賢明順良の名あり。よく人心を收めて皇帝を輔翼し、間接には政治上の風波も平素皇后の徳に依て鎭靜するもの少なからずと云ふ。左れば帝室の徳義の民心に通達するは一種微妙のものにして、冥々の間に非常の勢力を逞うするを得べし。萬乘の皇帝、微行して一夫の貧を救い、以て一地方の人民をして殖産の道に進ましむることあり。一士卒の負傷を尋問して、三軍の勇氣を振わしむることあり。花の莚、月の宴、決して輕々に看過すべからざるものあり。是等の事に付ても必要なるものは財なり。然かもこの財を費して、その費目は帳簿にも記すべからざるものならん。我輩は固よりその目を論ぜずして、唯全體に皇室費の豐ならんことを祈る者なり。

或人云く、帝室の大名聲を以て天下の人心を收攬するの説は則ち可なりと。その有功の者を賞し文學藝術を保護奬勵するに當り、或は從前の習慣に於て帝室に近づく者は兎角に古風の人物多きが爲に、實際の着手に於ても自から古を尚ぶの氣風を存して、例えば人を賞するにも所謂勤王家に厚くして他は之に預ること薄く、或は學藝を奬勵すればとて專ら皇漢の古學に重きを附する等の意味なきを期すべからず、去迚はこの駸々乎たる文明進歩の爲に如何あるべきやの説あれども、我輩に於ては毫も之を恐れず。嘉永癸丑開國の以來、我國勢を一變したるものは西洋近時の文明なり。この大勢進歩の間に、或は故障もあらん、妨害もあらんと雖ども、唯是れ一局處の障害にして憂るに足らず。古學は日新の學に害あるが如くに見ゆれども、その害たる唯一時一部分に止まるのみ。千百の古學者あるも天下の大勢を如何すべきや。況やその古學流の中にも、物理原則の部分を除くときは、取るべきも甚だ少なからず。我輩は勉めて之を保存せんと欲する者なり。尚況や我輩が帝室を仰で人心の中心に奉らんとするは、その無偏無黨の大徳に浴して一視同仁の大恩を蒙らんことを願う者なれば、我輩の志願決して空しからず。帝室は新に偏せず古に黨せず、蕩々平々、恰も天下人心の柄を執て之と共に運動するものなり。既に政治黨派の外に在り。焉ぞ復た人心の黨派を作らんや。謹でその實際を仰ぎ奉るべきものなり。

帝室論大尾