「竹添大書記官歸京」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「竹添大書記官歸京」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

竹添大書記官歸京

竹添外務大書記官は過般比叡艦に塔して仁川に行き本月廿五日明治丸にて歸航に付花房公使が入京の獏〓等傅聞の〓客は前号の雑報に記したる通りなるが此報道に就いて先ず我輩の喜ぶ可きものは仁川へ我軍艦の到着其期を誤るざりしの一事なり實は今日なればこそ之を公言すれども本月十六日上海よりの電報に馬建忠、丁汝昌は軍艦を以て本月五日芝〓を發したりとの事を聞き海上の里叡を計るに芝〓より仁川へは二百七十里にして下の關より仁川へは五百里とあり加之我〓剛艦は本月六日に下の關を發し明治丸は十日、比叡艦は其の翌日出發したることなれば凡そ一倍の海路に向かいて出發の日は遙かに後れたり故に前後この三艦が仁川入港の時は支那艦は數日前に到着して馬建忠の如きは疾く既に京城に入りたる跡にて恰も支那人に千鞭を着けられたるの有様ならんと〓に心を勞し遺憾に思いしが何ぞ〓らの今日報道の實際に於いては則ち然らず金剛艦の入港は九日にして支那艦に先だつこと一日、又明治丸も海路非常の風波ながら十二日の午前に達したりと云う明治丸は素と燈毫の用に供したる官船にして其速力平均十節内外のものとは會て聞きたれども十日の曉四時下の關を發して十二日の午前十一時仁川着とあれば其時間五十五時にして五百里を走りたり尋常の海ならば格別なれども大風波を犯して一時に凡そ十海里の割合とは風波にも拘わらず十分の速力を逞したるや明なり運用の巧にして我海軍の活溌なるを以て見る可し又近頃釜山浦より歸京せし某の話に同港碇舶我清輝艦の乗組は校尉以下水夫に至るまでも品行正しく艦内の号令厳命にして齊々粛々他國艦の及ぶ所に非ず日韓の別なく皆飮賞せざるはなしとのことなるが是には〓り清輝艦に限らず今回仁川碇舶の軍艦に於いても同様なる由、軍艦の号令厳命なる可きは當然のことなれども〓年の軍人動もすれば粗暴の擧動なきを保ち難し世界中の通〓〓るに今我軍艦に限りて其弊を見ること少なし特に斯る事變の際、戰和の二途さえ未決の他國に在を特に齊粛なるは我輩の飮喜に堪えざる所なり

又花房公使着港の上十四日には伴接艦尹成鎮京城より來たり其翌日は玄昔運も亦來たり共に彼の政府の命を傅へて城中の民心尚未だ鎮定せざるに付き公使の入京は暫く猶像ありたしとの懇談なれども之を聽かず十六日〓曉仁川を出發して進京の途中京畿道の觀察使洪〓昌も楊花鎮まで待受のために出張〓候暫時場外に滯在〓の依頼なれども固より承知す可き事なら〓ば其〓を〓へて直に發途無事に入城したりと云う以前日本の公使舘は清水舘とて城外に在〓すを此舘に日本人の居るは大院君を始め昔日の斥攘家は甚だ不快〓事に思いしものが今度は其日本人が深く城内に入り然かも八百の護衛兵を率いて直に王宮の傍に乗込たることなれば朝野人毫も狼狽〓覆想見る可し去月二十三日清水舘を襲撃して倭漢を塵〓せんことを企て過ちて之を逸れて〓念に思い居る彼兇賊の輩も未だ縛に就かずとのことなれば今度公使の入城をば〓〓遠方より眺めて〓〓念を増すことならんと雖も氣の毒ながら如何ともす可からざるのみならず今後談判の進すに從いて彼の輩は縛せられて糺問を受け其巨魁たる者は刑に處せらるゝことならん〓氣の毒なりと云う可し

又支那の馬建忠、丁汝昌が率いたる三艦は我金剛艦に後るゝこと一日、明治丸に先だつこと二日、本日十日仁川に來着し花房公使も馬氏に面會又竹添大書記官も仁川滯艦中度々往来談話も多かりし由なるが馬氏の口氣は甚だ平穏にした日本を疑う様子もなく朝鮮爲中國所属之邦などの言は決して口外せざりしやの由、又馬丁両氏が着港の上も直に京城に入るに非ず加之朝鮮の民情を目撃して護衛の兵なくては不安心とて丁氏は早々天津に歸りて弊を催促すると云う程の有様なれば支那政府は初より事變の而しても知らざるは無論、今後とても日韓の間に立入らんとする念慮はなき者の如し故に今日都を此事情の表面をして内實の裏面と毫も相異することなからしめ馬氏來韓の主意は單に朝鮮政府に忠告するに止まりて日韓の關係は日韓両政府の談判に任ずるに於いては平和の局を結ぶこれ甚だ易くして甚だ速なる可し和戰の分るゝ所は唯支那政府の意見如何に在を存するのみ而して其意見の表裏は外交の機密にして他國人の得て知る可きものに非ざれば吾輩は刮目して今後の運動を見んと欲する者なり