「兵論」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「兵論」(18820909)の書籍化である『兵論』を文字に起こしたものです。

本文

兵論緒言

方今宇内の形勢を察するに立國に兵備の必要なるは論を俟たず然るに我日本の海陸軍備は未だ充實せるものと云ふ可らず此兵力を以て各國と對立し一國の體面を全うすること甚だ難し速に之を改良せざる可らず、之を改良せんとするには費用を要するを以て國民より徴税せざる可らず、租税を徴收せんとするには全國人民の心をして政府に反對するの意あらしめては到底之を爲す可らず、人民の心を得んとするには廣く天下の有力者を政治社會に入れて其處を得せしめざる可らずとの主旨を以て福澤先生の立案せられたる一篇の論策を中上川先生之を筆記せられ題して兵論と云ふ通篇を十八に分ち前日之を時事新報の社説に載録したるに善と稱せらるゝの君子江湖に乏しからず實に近日の一大文字と云ふ可し依て更に之を重刊して一册子と成し同好士君子の通讀に便ならしむと云ふ

明治十五年十一月 編者識

兵論

福澤 諭吉 立案

中上川 彦次郎 筆記

立國に兵備の缺く可らざるは今更特に喋々の辯を俟たず外國交際の事實に就ては今世は尚未だ道理の世界に非ずして武力の世界なり或は語を少しく文飾すれば口によく道理を言ふて實際によく武力を用るの世の中と云て可ならん本社出版の時事小言(明治十四年福澤諭吉著)の第四編に云く

(前略)此交際に情を以てせんとするは萬々想像す可きことにも非ず既に情に依頼す可らず然ば則ち何を以て之に接せん情の反對は力なり外國交際は腕力に在りと決定す可きなり徃古は此腕力なるもの眞實に人の腕を用ひしことなれども人智開明の今日に在ては腕に代るに器械を以てし、腕を以て器械を使用し此器械を以て人を殺すことを發明したり即ち軍艦銃砲是なり國を護るには人を殺すの器械なかる可らず古人の語に兵は凶器なり戰は不祥なりと云ふと雖ども此主義に由て兵器を廢し戰を止む可きに非ず此語は唯漫に兵を弄する勿れとの警たるに過ぎず昔封建の時代に武家の習慣に拔刀は嚴禁にして父母之を警め長者之を諭して少年血氣の輩も容易に刀を弄するを得ず、然りと雖ども當時唯拔刀の不可なるを警るのみにて刀を廢せず、啻に廢せざるのみならず刀劒は武家至重の器として常に良工の作を撰び寶劒價千金なるも産を傾けて之を購求したるは何ぞや天下の武士帶刀の世の中に在て自身を保護して他の輕侮を防がんが爲には缺く可らざるの用意として此凶器を帶びたることなり今日世界萬國と竝立する一國にして其國を保護して他國の輕侮を防ぎ又隨て之を威伏せんが爲に軍艦銃砲を備へ海陸の兵備を嚴にするは封建の武士が刀劒を帶するに異ならず日本國内の封建こそ廢止したれ世界は正に恰も封建割據にして武を研き勇を爭ふの最中なれば一國の重大寳劒たる海陸の軍備をば常に研き立てゝ常に良工の作物を撰び常に新規の工夫を運らし要用なるときは一擲幾百千萬金をも愛しむ可らず若しも然らずして之を怠る者は封建の武士が木刀を帶するが如く又丸腰なるが如し國を丸腰にして他國の輕侮を防がんとするは亦た難きに非ずや三歳の童子も其非を知らんのみ(中略)兵備の事に付き我日本と西洋二三の國と其比例を示さんが爲に各國の人口歳入海陸軍及び其歳費の數を記すこと左の如し此數は千八百八十年出版の原書に據るものなり

佛蘭西

人口 三千六百九十萬五千

歳入 五億九千九百十三萬圓

陸軍人 五十萬二千六百九十七名

陸軍費 一億一千〇五十八萬圓

軍艦 四百九十八艘

海軍費 四千二百二十萬圓

日耳曼

人口 四千二百七十二萬七千

歳入 非常歳入を除く 一億三千五百十九萬圓

陸軍人 四十一萬九千〇十四名

陸軍費 八千〇二十七萬圓

軍艦 八十八艘

海軍費 六百二十五萬圓

英吉利

人口 三千百六十二萬八千

歳入 四億一千五百五十七萬圓

陸軍人 十三萬五千六百二十五名

陸軍費 八千八百二十六萬圓

軍艦 二百三十六艘

海軍費 五千九百八十一萬圓

魯西亞

人口 八千五百六十八萬五千

歳入 四億千九百二十六萬圓

陸軍人 七十六萬五千八百七十二名

陸軍費 一億二千九百六十九萬圓

軍艦 二百二十三艘

海軍費 一千八百七十一萬圓

伊太利

人口 二千六百八十萬一千

歳入 二億八千五百十一萬圓

陸軍人 十九萬九千五百五十七名

陸軍費 四千五十八萬圓

軍艦 八十六艘

海軍費 八百六十七萬圓

荷蘭

人口 三百五十七萬九千

歳入 四千八百二十六萬圓

陸軍人(海外所領の地四萬の兵は之を除く) 六萬一千九百四十七名

陸軍費 七百八十六萬圓

軍艦 八十五艘

海軍費 五百四十七萬圓

日本

人口 三千五百七十六萬八千 十二年調

歳入 五千九百九十三萬圓 十三年豫算

陸軍人 七萬四千三百三十四名 十三年調

陸軍費 八百十五萬一千圓 十三年豫算

軍艦 二十九艘 十三年調

海軍費 三百〇一萬五千圓 十三年豫算

右の表に據り大數を以て比較すれば日本の人口は佛蘭西に同ふして其歳入の高及び陸海軍の有樣は日本に十倍し、又日本と荷蘭とを比較すれば我人口は荷蘭に十倍して歳入以下の箇條は殆ど相同じきを見る可し一國の維持保護は其國人民の資力に依るものとすれば我日本の人民は佛國荷國の人民に比して其力僅に十分の一なりと云はざるを得ず、即ち日本の十人は佛、荷の一人に當ると云はざるを得ず、今一歩を進めて云へば日本全國の價は佛蘭西國の十分一に相當するが故に日本國と荷蘭國と在形のまゝに交易するも損益の差なしと云ふも可ならん、誠に法外千萬なる言にあらずや抑も實際に於て我國に殖産の路なく我人民に資力を有せざるものなれば止むを得ざることなれども我輩未だ其實を見ず如何に説を作つて自國を蔑視せんと欲するも未だ其實證を見ざれば之を信ずること能はざるなり

議論は姑く擱き現に二十年前封建の時代には我日本に於て四十萬の士族を養ふたるに非ずや即ち四十萬の軍人なり但し其これを養ふの法に至ては獨り之を農民の責に任じて偏重偏輕の弊も多かりしことなれども唯法の宜しからざるのみ今日に於て其法を改むるは難きに非ず兎に角に昔年は此四十萬の軍人を養て之に武器を貯へしむるのみならず當時の軍人は今の徴兵の類に非ず各一家を成して其妻子家族をも人民より保護するの法なるが故に一家五口と算して總計二百萬人の衣食を給したる其費用即ち軍費は實に容易ならざる高なれども我人民は毎年この巨額の軍費を供して之に堪へたり荷蘭等の如き小國の企て及ぶ所に非ず大國と雖ども亦難んずる所ならん我日本國の資力に乏しからざること明に證す可し今や此軍人四十萬の兵役を解て之に代るに七萬四千の陸軍と兵艦二十九艘の海軍を作り其費用陸海合して僅に一千一百餘萬圓のみ曩にはよく二百萬人を養ふの資力を有して今日は頓に之を失ひ復た一歩を進むること能はざる歟、證す可らざるの事實なり故に今我國に於て兵備を改良すると否との問題は之を人民の資力如何に謀からずして其國を護るの熱心如何の一點に糺す可きのみ

右は唯時事小言中の一節にして該書は刊行既に一年發賣の數も頗る多くして其論説の旨は世人の知る所なれば今爰に之を掲載するは重複に似たれども此一節を冒頭に掲げて尚數日の社説を記して其主義を擴め以て我輩の持論を世に公にして讀者の高評を乞はんとす

支那の諺に云く勝則王候敗則賊候と又日本の軍人の唄にも勝てば官軍負れは賊よと云ふことあり其意味甚だ相似たり道理を以て云へば王候と賊と勝敗を以て相分る可きものに非ず所謂義分の存する所なれども人事の實際に於ては賊にして王候たる可し王候にして賊名を負ふたる者少なしとせず唯兵の強弱如何に在て存するのみ然りと雖ども此王候又官軍は一國内の名にして必ずしも常に兵力のみを以て博す可らざるの事情ありて時としては全く兵力を空ふすること能はざるも大に其勢力を殺ぐもの多し盖し其事情とは數百千年立國の習慣と教育の氣風とに由て人民一般の公議輿論を成し此公議輿論に從ふものを正理と認めて之に背くものを邪曲と名るもの是れなり例へば我日本に於て立國の習慣は君を立てゝ之に奉ずることにして教育の氣風は唯忠義の外ならず即ち大義名分を重んずるは我國の公議輿論なりと云ふ可し然るに此義分なるもの常に明なるに非ず或は局處に明にして全面に暗きこともあり或は暫く暗くして又忽ち明なることあり又或は局處に甚だ明なるものが忽ち明を失ふて全面一般は其割合に光を放つこと能はざる時もあり在昔北條氏が國命を執てよく治安を致したるは北條の政府にも自から大義名分の存ずるあればこそ然るものにして義分局處に明にして日本の全面には暗き時節なりしが北條の末年高時の世に至ては其兵力の尚強きにも拘はらず割合よりも容易に斃れたるは勤王の大義名分即ち忠義の公議輿論を以て北條家の兵力を殺ぎたるものと云ふ可し又今の政府にても維新の事を擧る前に帝室直轄の兵とては更に無かりしものが忽ちにして革命の功を成し爾後十五年の今日に至るまで舊政府の回復を口に藉して事を企るが如きは噂に聞たることもなく又或は別の原因よりして現に兵を擧げたる者もあれども直に帝室に敵したるものあるを聞かず畢竟大義名分の力を以て兵力の運動を逞ふせしめざるものと云はざるを得ず左れば勝則王候敗則賊の諺も實際に於ては必ずしも然ること能はざるの場合あり公議輿論の勢力強大にして義分の湮沒す可らざること以て知る可し(近來世間にて民權論の少しく喧しきを聞き經世の思慮に乏しき學者流が大に驚き勤王又は官權等の名を作て心配するは未だ大義名分の眞意を能く解せざるものならん)

右の如く一國内の機關に於ては兵馬の力の外に公議輿論なるものありて自から其力の運動を制す可しと雖ども尚且政府を立てゝ之を維持するには兵力莫る可らず即ち國に海陸軍を設て内亂に備る由縁なり

今内國を去り眼を轉じて外國の交際を視察するときは兵力を棄てゝ別に大に頼む可ものありや今の世界の實況に於ては我輩未だ之を見ず固より世界の人民は日に文に趣く今日なれば口に文を言ふて道理を唱ふる者甚だ少なからず即ち彼の萬國公法なるものも此文の結果にして假に之を世界人民の公議輿論なりと稱して幾分か兵力の暴動を制止するの場合もなきに非ざれども世界の公議輿論は其勢力誠に漠然たるものにして一國内に行はるゝ大義名分等の議論に比すれば固より同日に語る可らず凡そ世界各國の戰爭に勝て其名の正しからざるものなし、敗して罪名を蒙らざるものなし、名正しくして然る後によく勝つに非ずしてよく勝たるが故に名正しきを得るものなり故に我輩は今日世界の某國と某國と將さに戰を開かんとするを聞けば豫め其名の正不正を問ふを須ひず勝敗決するの後は其勝敗の報道と共に開戰の名の孰れか正しきをも知る可し佛蘭西と普魯士との戰に第一世「ナポレオン」の時には曲、普に在て第三世「ナポレオン」の時には佛蘭西の曲たり、露土の戰にも露は正にして土は曲たり、今回埃及の事變に就ても曲は埃及に在て英は正しきことならん、百年前在亞米利加の英國民が政府に反して國を立てたり當時若し官軍の勢力強大にして反民等が失敗したらんには今の合衆國も唯反賊の古戰場たらんのみ是等の例を計ふれば枚擧に遑あらず徒に記して紙面を費すにも足らざるものなり左れば勝則王侯敗則賊の諺は一國内に通用するよりも寧ろ世界各國の交際上に行はれて今日正に其事跡を見る可きものなり萬國公法の如き其言最も公平にしてよく道理に叶ひよく人の口に唱る所のものなれども口に唱るものは必ずしも實際に行はるゝに非ず今日の實際を評すれば人の言論は道理公平の世界にして其現行は武力侵略の活劇場と云ふ可し數千萬言の萬國公法は硝鐵一聲の烟を以て抹殺す可しと云ふも可なり加之實事を行ふ者は往々默して之を決し、人に語らず又人の言を聽かざるもの多きが故に公法の言論を以て其運動を制せんとするは益難きを知る可きなり

西洋各國の兵制は日に新にして月に改正を加へ其強其鋭實に恐る可きものなれば苟も爰に外交の道を開て海外の各國と并立の勢を成したる上は自國に相應する程の兵備なかる可らず時事小言に云へる如く今日世界の各國は恰も封建時代の武士が雙刀を帶びて武を誇るが如き時節なれば獨り我日本國に限りて刀を廢す可らざるは三歳の童子にても知り易きことにして日本國中苟も國を憂るの心あらん者は西洋諸國の強兵を心に關せざるはなし然りと雖ども國勢の進歩するは草木の成長に異ならず今日薄弱の國と稱するものにても其國の人氣爰に一變して政治の方向を改るときは忽ち舊套を脱して強大の勢を致すこと草木の時氣に適し培養を得て忽地に長茂するものゝ如し例へば近く我日本國の武備に就て之を論ずるも弘化嘉永文弱の極度に沈て僅に弓矢槍劍の軍器に依頼したるものも開國の一擧以て今日の兵制と爲り前後三十年を比較すれば今の日本は舊日本に非ず長者は今を見て驚き少者は古を聞て驚くのみ拱把の桐梓三十年の星霜に成木したるものと云ふ可し左れば世界の強國今日は唯西洋に在りと云ふと雖ども今後十數年の氣運に於て東洋亦一強國を出現するなきを期す可らず我輩の所見に於ては支那國即是なり抑も人の言に強兵の本は富國に在りと云ふ此言果して是ならば支那は貧國に非ず其國民は忍耐勉強の質に乏しからずして其國土は天産人造の物品に富み商賣貿易の便利は全國の二面に海を受けて良港少なからざる其上に楊子江黄河の二大川は深く内地に入て恰も萬里の長灣と云ふも可なり今日既に貧國に非ず今後殖産商賣の源は汲めども竭きざるものにして世界第一の富國たる可き又疑を容れず強兵の資本豐なりと云ふ可し

又兵制の事は全く有形の物を以て成る可きものにして固より道徳宗教等の事に異なり又政治法律等の事にも同じからず一國の徳教を變動して其風俗を改めんとし又は政體法律を改革せんとするが如きは人民教育の根本より漸次に實際に及ぼすに非ざれば叶はざることにして大に力を勞して又歳月を費すも尚功なきもの多しと雖ども兵制は則ち之に異なり今日これを改革せんと欲すれば明日より之に着手す可し之に着手して即時に其功を見ること易し西洋諸國に軍艦銃砲あり錢を以て之を買へば我軍艦銃砲たる可し、西洋諸國に兵士訓練の法あり兵艦運用の法あり我れ此法を用れば即ち我法なり、或は其器物を製造し其用法を學び得るには多少の智力と又日月を要することなりと云ふも無形の道を學て精神を研くが如きとは全く類を異にして耳目四肢の働を以て直に學ぶ可きものなれば其傳習甚だ易くして甚だ速なり例へば我日本人が開闢以來始て蒸氣船なる者を目撃して乃ち其船を買ひ其用法を傳習して自から之を運用し古來未見の大平海を渡て亞米利加に行たるは僅に七年間の事業なりき(時事小言百三十頁を見よ)有形の事を傳へて之を習ふの容易なること以て知る可し故に今支那人が其富實なる資本を以て西洋諸國より一艘の軍艦を買へば即ち支那の軍艦なり、一門の大砲を買ふも支那の大砲なり、其幾艘幾門の多寡は資本の厚薄如何に在て存するのみ或は其軍艦銃砲を自國に製造し自國人をして之を使用せしめんと欲すれば唯其法を傳習するの勞あるのみ必ずしも十數年の星霜を費す可き難事に非ず若しも支那の政府が一旦活眼を開て立國の根本は兵力に在るを知り、其兵法は西洋諸國に取るの必要なるを知り、兵器は錢を以て買ひ又錢を以て製造す可きを知り、其製法又用法は之を傳習するの容易なるを知り、國論此に一定して更に國財を愛まず全國の兵制を一變して盛に海陸軍を開くことあらば東洋俄に一強國を出現して其勢力は殆ど當る可らざるものならん人或は今の支那軍の振はざるを見て其國人を文弱なりと評するものあれども人の弱きにあらず器の弱きなり又其軍人の編制の弱きなり方今世界中の戰爭は軍器の精不精と隊伍編制の巧拙に由て勝敗を決するものなれば人物の強弱は第二着の考案に附す可きものなり

支那人を文弱なりと目して之を輕侮するは多くは我武人流の所評にして當るものに非ず又爰に政治學者流の評論に於ても之を輕侮するもの多しと雖ども是亦感服するに足らず其論に云く兵を強くして國を護るは民心の一致に在り民心を一致せんとするには國民各政治の思想を抱て自から護國の念を發するに非ざれば不可なり支那の政治風俗の如きは全く之に反するものなりとて其旨を推して論ずれば專制政府の下に強兵なしと云ふものゝ如しと雖ども所謂腐儒の理論にして實際を見ざる者の言のみ一國永遠の大計を目的として百年の經世上より觀察を下だすときは此理論も亦甚だ然りと雖ども軍國兵馬の事は百年の謀に非ず壓制政府の兵にても自由政府の兵にても強き者は勝て弱き者は敗す可し其強弱は軍人の多寡と兵器の精粗と隊伍編制の巧拙と國財資本の厚薄とに在て存するのみ露國の「ペイトル」大帝は壓制至極の君にして兵力甚だ強く其壓制の政治は今日にまで持續して其強兵も亦今日にまで持續す第一世「ナポレオン」帝が佛兵を以て歐洲を蹂躙したるは帝の政治自由寛大なりしが故に非ず、前年佛普の戰爭に佛の敗したるは佛の政治の壓制にして普政の自由なりしが爲に非ず

事實の最も睹易き者にして特に幾多の例を枚擧するに及はざることならん故に政論と兵論とは自から各別の問題にして政を壓制にすれば富強の國にても遂には治め難きに至らん今日の露國の如き是れなり或は獨逸と雖ども今の政治の有樣にて改革することなくんば文明改進の風潮に制せられて亦遂に治め難きに至らん云々の談は誠に的當の所見にして我輩とても固より異論なしと雖ども目下の兵論に至ては殆ど政治に關係なきものにして壓制政府の兵士よく戰ふのみならず元來兵の性質は嚴令に束縛せられて恩威に服從するものなれば壓制の長上に卑屈の軍人を附して却てよく功を奏するの事實を見る可し

左れば今支那の政府は眞に壓制なり其人民は眞に卑屈なりと雖ども其兵制を改革するに政體の如何は意に介するに足らず今の帝政を遵奉して今の相將を採用し今の國税を收めて今の國庫を富まし唯新式の兵備を増加すれば以て一時の強國たるべし現に今日に於ても支那政府の眼力此に及ばざるに非ず明治十四年一月我陸軍文庫發兌の隣邦兵備畧に據れば支那全國兵備の合計及び其景況の大畧左の如し

名稱 兵數

八旗兵 三十一萬〇九百三十三人

緑旗兵 六十一萬八千六百二十七人

勇兵 五萬一千三百人

蒙古兵 十萬〇〇七百八十二人

合計 一百〇八萬一千六百四十二人

八旗兵は清朝譜代の親兵にして域内の各地に駐防し緑旗兵は漢人を以て編制して地方の靜穩を維持し勇兵は各地の壯兵を募て編制し機變に應動せしむる者なり八旗兵緑旗兵は大概皆支那軍の古式なれども勇兵は之に異なり、勇兵又これを郷勇と稱す即ち新募壯兵の名にして嘉慶(我享和年中)の初め川楚の教匪を平定するに當て始めて郷勇を募て額兵の不足を補けたれども十中二三の外は未だ功績の著しきものを見ざりしが長毛賊の起るに及び楚勇湘勇天下に名を得て緑旗營の如きは却て世の爲に詬病せらるゝの勢と爲り湘勇は羅澤南に始まりて曾國藩これを統べ、楚勇は江忠源より起りたり此即ち清國二百年來兵制の一變にして爾來其數益増加し十八省中幾んど此設なきは非ず平時と雖ども之を解散せずして常に營中に留め概ね與ふるに西銃を以てして教るに西洋の操法を以てす所謂機變に應動す可き清國第一流の精兵にして現に李鴻章の旗下に屬する天津地方の淮勇の如き其最も著しきものにして之を李大臣三萬の精兵と稱す右は隣邦兵備略中の大意にして此書は去年一月の發兌に係り書中所記は其前年の調査とするも既に五萬餘の新式兵あり爾後必ず次第に増加し今後又増加することならん此五萬を増して十萬と爲し又二十萬と爲し遂には全國一百八萬の兵員を悉く新式に訓練して新器を授るも亦決して期す可らざるの事に非ざるなり

又隣邦兵備略に據るに支那にては近來新式の兵器を造ること甚だ盛なりと云ふ其百五十一丁造兵局の條に云く造兵局の如きも亦未だ其詳細を得ること能はず僅に聞知する所を記するを以て固より全豹の一班に過ぎずと雖ども亦以て清國戒嚴の一端を窺ふに足る可し

天津彈藥の製造甚だ盛なり

上海

砲工一名、彈工二名、學校教師二名即ち五名の英人を雇ひ盛に銃砲彈藥を製造す製する所の大砲は四十「ポント」の「アルムストロング」にして平均四週日に一門を製するの比例なり明治十二年十二月に在て既に落成せし者一號より十五號に及ぶ其他二百「ポント」の巨砲を製し又「レミントン」後裝施條銃一日平均十挺及び砲彈平均十五箇を製す

杭州

杭州の造兵局に於ては更に歐人を用ひず都て國人の力を以て製造修理の事を爲し局内二十馬力の蒸氣器械一基を設く又小銃修繕所あり

口徑大約五寸の鋼鐵臼砲を製し明治十二年十二月に在て既に落成せしもの一號より十七號に及べり其他要寨に備ふ可き十二「ポント」の野砲及び各種の小銃彈藥を製造す

廣州

廣州城を溯る十里の地及び文明門外に機械局あり一は職工五十名、一は二百名を役して共に小汽船を製造す又小銃及び彈藥の製造所あり

未だ其數を詳にせず

福州

軍艦製造頗る盛大にして實に東洋第一と稱す

江寧

城の南門外に機械局あり上海に比すれば稍や少なりと雖ども尚職工七百餘名を役し現に四斤半の野砲と各種の砲彈及び「レミントン」彈藥の製造盛なり

又兵備略に支那海軍の景況を記して云く海軍は陸軍に比すれば其進歩頗る迅速にして造船所を福州上海の二港に設けて盛に軍艦を製造し或は外國に就て之れを購求し既に福州造船所に於て落成したるもの二十艘に及べり又其編制は都て英國水師の建制に則り加るに備る所の大砲の如きも亦皆近世の製造に因る者なり云々とて明治十二年の調査に係る軍艦の名號艘數及び之に備る大砲の數等を記したるに船の數は五十五艘、大砲は合して二百七十四門あり此軍艦の内四艘は千八百七十七年英國製造の甲鐵砲艦にして各艦三十八噸の大砲一門を備へて共に天津に停泊し又此外に四艘も英國製の甲鐵砲艦にして近ごろ落成したる者なりと云ふ以下大小の軍艦に就て其船體砲類の説明は兵備畧に詳なれば此に略す又先月二十二日時事新報の雜報中に清國の軍艦表を記したり此表は明治十三年の調査とて其前年の調査に比すれば既に五艦を増して六十艘の數あり其進歩の實況亦以て見る可し

以上所記に由て之を觀るに清國にて近年海陸軍の改正を施したるは唯其一小部分なれども其實數を見れば殆ど我日本國の海陸軍に等しきのみならず海軍に至ては我國の一倍に近し方今、日本と支那との間は誠に親睦にして誠に平和なれども國と國との和親は百年の和親に非ず

殊更に我れより敵を求るに非ざれども世界古今の事實に徴するに外國の交際は友中常に敵あり唯其敵意を裏むに友情の外套を以てするのみのことなれば一旦の變に際して此外套を脱却するときは世界萬國皆敵ならざるはなし此點より見れば支那も亦敵國中の一にして然かも一葦水を隔るの隣に在るものなれば此隣邦の兵備を聞知して漠然の觀を爲す可けんや且我國の士人は動もすれば支那人を目して怯懦なり

と評する者多しと雖ども明に其實證あるに非ず弘安蒙古の入寇に日本刀を以て十萬の兵を鏖にしたりとの口碑を存すれども六百年前の事を以て今を證するに足らず、明末に彼の海岸地方の者が日本人に窘められたりとの事もあれども其顛末詳に知る可らず唯古來我日本人は支那人を威したることあるも彼れに屈したることなしと云ふまでの事にして何も今日兩國人の強弱を斷ずるの標準たる可きものなし加之一個人の體質に就て論じたらば日本人の腕力必ずしも彼れに超越するとも思はれず貝原養生訓に云く

中華の人は日本人より生質健に膓胃強き故に飮食多くして且肉を多く食ふ日本人は生れつき薄弱にして膓胃弱く食少なくして牛馬

犬羊の肉を食ふに宜しからず、かろき物を食ふに宜し此故に藥劑も昔より小服に調合す(中畧)中華の法父母の喪は必ず三年是れ天下古今の通法なり日本の人は體氣膓胃薄弱なり此故に朝廷より期の喪を定め給ふ云々

又在横濱なる西洋醫の話に日本人と支那人と其骨格畧相似たりと雖ども支那人の病を治するは日本人を療するよりも易きを覺ふ蓋し

支那國の食物は平生肉類多きの故ならんと云ふ

左れば支那人の體力は日本人に劣る者に非ず斯る體力を有しながら尚其軍人の怯懦なるが如くに見ゆるは何ぞや即ち前にも云へる如く人の怯懦なるに非ず唯兵制の不完全なるが爲に然るのみ之を譬へば今の支那國に兵制の整頓せざるは獅子にして爪牙を缺く者の如し一旦これを生じて其爪を磨き其牙を鋭くしたらんには東洋諸國よく之に當る者はなかる可し或は大象にして獅子の爪牙を具る者と云ふも可ならん今日既に其爪牙の一部分を磨きたり我士人は尚これを怯懦なりとし輕侮し了らんと欲するか我輩は士人と共に枕を高するを得ざる者なり」

或は方今宇内の形勢に於て支那帝國の治亂を卜するに到底内地の安寧を保存す可きものに非ず近時文明の利器たる蒸氣船車電信郵便印刷法の如きを利用して其國民の交通を便にし數百千年來壓制卑屈の睡眠を一覺して民權自由の何ものたるを知らしむるに於ては迚も四億の人民を一政府の下に羈絆するを得ず國勢四分五裂して幾多の小王國を出現する歟又は其内亂の釁に乘じて諸外國の侵伐を蒙り廣大なる國土も遂に外人の手に落ることある可し左れば支那強兵の政略は今日其始あるも終ある可きものに非ざれば深く恐るゝに足らずとの説を作すものあれども我輩は斯る變亂を豫期して益戒心を増す者なり

如何となれば其國勢果して四分五裂せん歟變亂は十數年に持續するものに非ず變亂中既に武を尚ぶの要に感じて其風を成し亂定るの後も尚其風を存して假令ひ幾多の小王國を生ずるも其國は必ず尚武の國たる可ければなり又或は内亂騷擾の爲に國土を擧げて諸外國人に分取せられん歟斯の如きは益我日本の爲に謀て危きを覺るなり如何となれば方今露なり英なり又獨、佛なり支那の地方に垂涎せざる者なし一旦の機に由て此國々の人が東洋の一大富國を分取したらば何を以て之を守る可きや必ず大に兵力を用るの外に方便ある可らず西洋の諸強國は遠洋を隔るの地位に在てすら尚且我輩の常に苦心して之に豫備する所の者なり然るを況んや今此強國が近く隣國に居を占めて直に我に接するの勢を成すに於てをや益我日本の嚴戒を促すものなればなり加之支那國果して自立を得ずして果して諸外國人の手に落ることなれば我日本人にして袖手傍觀するの理なし我も亦奮起して共に中原に鹿を逐はんのみ是亦勢の止む可らざるものなれば我日本の兵力は消極の防禦を離れて積極の遠略に忙はしきことならん

右は唯想像にして未來の萬一を測り或は斯る形勢に立至ることもあらんと説を作りたるものなれば喋論は姑く擱くも現に今日の實際に於て支那の關係は度外視す可らざるものあり近く今回朝鮮の事變に際し支那政府は公然我に向て朝鮮爲支那之所屬の論を吐かず又朝鮮政府の外交を傍より干渉するの痕跡をば現はさずと雖ども支那と朝鮮と兩國限りの間柄を見れば決して對等の隣國には非ざるが如し其國亂の報を得て直に軍艦兵士を差向けたるは盖し之を保護して力を貸すの意ならん又彼の馬建忠が大院君を以して本國に歸るも尋常の隣國なれば現に隣の國太公を捕へて去るものなれば對等の間柄に於ては萬々施す可らざるの擧動なれども平生これを所屬視すればこそ之を斷行して疑はざることならん斯る事の成行きにして今後支那政府は朝鮮に對して如何の政畧を施す可きや我日本は花房公使談判の結果に從て今より一年の間は我公使館保護のため我兵員を彼の地に屯駐せしめ或は事情に隨て一年より長きこともあらん此日月の間に支那政府は唯一個の大院君を以し去るのみにして朝鮮國全面の事は棄てゝ忘れたるが如くせん歟目下朝鮮海にこ出の支那艦竝に上陸の支那兵も一時に引拂ふて今後更に往來も稀なる可き歟未來の事は知る可らずと雖ども支那の政略、斯くまでに淡泊なる可しとは思はれず假令ひ今度の事變は大院君の支那行と花房公使の談判とを以て一段落を終るも過般以來西洋諸國と締盟の事も未だ其局を結たるに非ざれば朝鮮爲支那之所屬の論は必ず一場の問題となりて日本政府は固より大に之に關係し支那政府も此問題に就ては恰も主人の資格を以て辯論することならん之を辯論して所屬論を廢棄するか持張するか何れにも談判は面倒なるものならんと臆測せざるを得ず固より此談判を奇貨として我より敵を求るに非ず支那も亦初より敵意あるものには非ざる可しと雖ども前節に云へる如く外國の交際は雙方の敵意を裏むに外面の友情を以てするのみにして談判の背後に兵力の必要なるは識者を俟たずして明白なることなれば兵は單に戰に臨で用るの器に非ず其平和の時に入用なること封建の武士が朋友談笑の間も親戚懇會の時も坐臥進退片時も身に刀を離さゞりしが如くならざる可らず苟も方今我國社會の表面に立て時事を語り又時事を執る者は在朝在野多くは在昔の封建の武士ならずや伐柯伐柯其則不遠試に十五年前武士の其身に立戻りて考へたらば當時無刀にて武士社會の交際を能す可しと思ふ者はなからん當時武士の交際に帶刀を要することならば今日外國の交際に兵力を要するの理も他人の論を聽かずして自から發明することならんのみ

前條々に記する所の論旨果して大に違ふことなくんば今の外國交際に於て西洋諸國に對し又近く隣國たる支那朝鮮に接しても兵力の缺く可らざるは誠に明白ならん既に其缺く可らざるを知り又目下我兵備の不十分なるを知らば一日も早く其改進に着手せざる可らず即ち我海陸軍を擴張して我日本國に適當する程のものに改進することなり此一事の要用なるは必ずしも我輩の辯論を俟たずして朝野士人のよく知る所ならんと雖ども爰に兵備擴張の事を云へば同時に胸裏に横たはるものは費用の一點にして兵備論を抹殺するものは常に一片の財政論あるのみ然りと雖ども是亦少しく推考を要することにして自から兵と財との權衡もある可きものなれば我輩も亦唯此權衡の域内に居て論を立てんと欲するのみ即ち我輩の所見に於ては今の我兵備を以て足れりとする者に非ず、足らざるが故に之を足さんと欲する者なり、之を足さんとするには費用を要す、其費用の由て出る所は日本國民なるが故に國民より之を支瓣すること當然なりとの旨を以て左に其論端を開かんとするものなり

右の主義を以て爰に改めて論壇に上らんとするに當り前以て一言せざる可らざるものあり

即ち第一には政府の當局者が虚心平氣にして聽くあらんことを祈る、抑も我輩が時事を論ずるは素とより爲にする所のものあるに非ず今の政府に代て事を執らんと欲するが爲に非ず、他人に囑托せられて其人の爲にするに非ず、政府を惡むに非ず政府を怨むに非ず、況や之を羨むに於てをや之を言に發するも赤面に堪へざる程の次第にして結局我輩の爲にする所のものを聞かんとならば唯國の爲にするの一言を以て答へんと欲するのみ而して其國の爲にする一段に至ては我輩も政府も共に厚薄ある可らず政府の當局者が日本人にして日本の爲を思へば我輩も亦日本人にして日本の爲を思ふ、國を思ふの一念發して言論に現はれ此言論にして實際に施す可きものあらば之を施行するは當局者の職分なれば我輩は之を見て唯喜ぶのみ是を以て吾事終ると云ふ誠に以て無至至極の主義なれば若しも我輩の言に採る可きものあらば之を採るに吝ならず斷して之を施行せられよ其效は即ち政府の效にして他に爭ふ者ある可らず我輩は名利の報酬を求る者にあらざるなり

第二は世の民權新聞の論者にて我輩の所論を通覽して公平なる評論あらんことを祈る、我輩の議論中には直筆直言政府に忠告して或は論者が之を見て快しと思ふ者もあらんなれども本來の主義に於て唯他の缺典のみを枚擧して自から樂むものに非ざれば或は往々民權論者の意に適せざるものを開陳することもあらん自家の持論に異なる者は之を駁撃する當然のことにして千駁百撃其自由に任して敢て之を辭せずと雖ども唯他の論説の一班を窺ひ自家の持論に都合宜しきものは之を贊成する歟若しくは默々に附し去り顧て他の一班を見て意に適せざる者あれば其局處に就て漫に駁論を下だすが如きは我輩の感服せざる所なり之を譬へば十丈の大木に長さ一尺か二尺の定規を當てゝ其曲直を判斷するが如し誠に無益の勞にして事實を糺すに足らず假令ひ我輩に於て之に頓着せざるも斯る徒勞は論者の爲に取らざる所なり

故に唯願ふ所は我輩の所論を通覽して其全面に公平なる評論を下たされんことの一事のみ

第三には世に所謂在野官權新聞の論者にて我輩の所論を贊成する勿らんことを祈る、凡そ我持論を吐露して贊成を求めざるはなき筈なるに我輩が特に官權論者の贊成を謝絶するは盖し又其由縁あり抑も我輩が曾て論じたる如く(八月十九日社説)新聞紙なるものは正議?論、毫釐も他人に依頼することなきを以て本色と爲し他の囑托扶助を蒙りて説を屈し又持論を左右するが如きは最も人の悦ばざる所なり或は西洋諸國の如く政府も政黨を以て立ち民間にも公然たる政黨を團結して其國の何新聞は何某の機關なりと明言するが如き時勢なれば官權新聞も政府の機關にて差支なきことならんなれども今の日本の有樣にては然らず政府は公然たる政黨の政府に非ず新聞紙も亦公然たる政府の機關に非ず、公然たる機關に非ずして間接直接に隱然たる扶助を政府の筋より受るものを名けて之を官權新聞と云ふのみにして其性質甚だ瞹眛なるものゝ如し凡そ事物は公明正大なるも尚世俗の猜疑を招くは人事の常なるに今の所謂官權新聞は性質既に瞹眛なるのみならず其記者とても人物の強弱勇怯に拘はらず自から元氣餧へて十分に筆を振ふこと能はざるの意味もあれば假令ひ如何なる名説を吐くも到底世人の信を取るに足らず、世間に信用を失ふたる新聞紙にして偶然にも我輩の所論に同意を表し大に贊成せられては其人の好意は忝なしと雖ども我輩自家獨立の信を世に失はんことを恐るゝなり之を譬へば山野獨歩の折柄偶然に我が後より獵師の尾し來るあれば我れも亦殺生する者かと傍人に疑はれ、月の十七日要用を以て淺草の方角に行き觀音參詣の群集の中を通行すれば我れも亦群集の士女と共に觀音の利益を祈る者かと思はるゝが如し是即ち我輩が官權論者に對して甚だ氣の毒にも察し又禮を失するが如くにも思へども其人の心術の如何に論なく官權の名を帶る間は鄙言に贊成する勿らんことを祈る由縁なり

右三條の序言を以て記者の祈願を述べ三條共に祈願の如くなるものと假定して乃ち爰に本論の主義に入らん前に云へる如く我輩は今の日本の兵備を以て不足なりとする者なり日本國の割合に不相當なりとする者なり抑も兵備の用を云へば其國民の安全を保護するに過ぎず左れば兵員は主保者にして國民は被保者なり此主保者と被保者との割合は如何して適當なりやと尋るは自國の地理に由り隣國の景況に由り一時自他の政略に由る等樣々の事情に從て一概に定め難しと雖ども歐洲二三の國の比例を案するに主保者一人に付被保者六七十人なるを最も手厚きものとして中等は百人より上て二百人以上なるは稀なり即ち佛の人口は大數三千七百萬にして陸軍人の數は五十萬なるが故に人口七十に付兵員一名の割合なり此計算に從て日耳曼は百分の一、露國は百十分の一、伊太利は百三十分の一、荷蘭は五十七分の一にして英國は殆ど海軍を以て國を守る者と稱しながら人口三千百六十萬に陸軍人十三萬五千の數ありて尚二百三十分一の割合なり

獨り我日本に至ては大に此割合の外にして人口三千五百七十萬餘の被保者に主保者たる陸軍人の數は七萬四千に過きず即ち四百八十人に一人の割合なり讀者は此割合を見て如何の觀を爲すや外戰は猶出火の如く軍人は猶消防方の如し歐洲諸國にては此火事に備るに人口の惣數百分一の男丁を養ひ我日本は四百八十分一を養ふ歐洲諸國の火事には四人八分の力を以て消防するものを我國にては唯一人を役す可きのみ加之右の大數七萬四千とは豫備軍後備軍をも合したる數にして現に軍裝して衞所に在る者のみに非ず尚この上の缺典を云へば云ふ可き者甚だ少からず現今將校下士の未だ全備せざるが爲に後備軍の如きは假令ひ二萬の數あるも實地に臨ては士官に乏くして用を爲すこと十分ならざる可し後備軍にして尚且斯の如し況んや國民軍に於てをや全國の男子にて兵役に堪る年齡の者は幾十百萬の數ありて其男子も至極勇なりと雖ども今日は其軍器戎服さへ未だ完全に至らず之を指揮す可き士官の如きは差向き其用意に苦しむと云ふ可き程の有樣なれば他事は姑く擱くも多く士官を教育し又今日野に在て士官に適する者は臨時の法を以て之を招集して或は現職に就かしむるか又非役士官として之を養ふこと緊要なるべし

明治十九年に至れば豫備軍は三萬餘、後備軍は四萬餘の數と爲り之に近衞鎭臺の見兵を加へて十萬餘の數を得べき豫算なりと聞たれども今後の五年は如何なる日月なる可きや安心の日月に非ざるなり在昔大洋の天險を以て東洋諸國と西洋諸國と恰も別乾坤を成したるの時代なれば尚可なりと雖ども今や近時の交通至便にして東西萬里も比隣軒を竝ぶるに等しき今日に在ては歐洲の事變も彼岸の火事に非ずして其延燒する所實に測る可らず況や近隣の支那に於ても近年は漸く兵備の改革あるに於てをや何樣に説を作て強ひて自から安心せんとするも今の我陸軍を以て我國の保護に足れりとの理由は我輩に於て之を發明する能はず明治十九年を待たずして今月今日十萬の數あるも尚不足なりと云はざるを得ず況や現今近衞鎭臺の常備兵は三萬五千にも足らざるに於てをや益其寥々たるを覺るものなれば當局者の意見に從て急に之を増す歟又は徐々にする歟事實に行ふ可き事ならば一日も猶豫せずして兵隊の増員は最も緊要なる可しと信ず

又本邦の兵員たる者は大概皆其平生に於て粗食に慣れたる者なりとは雖ども今の陸軍の成規に兵士一日の食料白米六合と金六錢の割合は如何にも手薄きものと思はる殊に今日の如き紙幣下落して物價騰貴したる時節に於て六錢を以て菜代、薪、炭、味噌、醤油、鹽より浴湯の費までを辨ずるは極めて苛き賄にして迚も鮮魚肉類を喰ふは難きことならん

此外に毎月給料なるものあれども是亦一日五六錢に過きず日曜の休暇散歩の時僅に點心一杯の酒代に足るか足らざるのみ西洋諸國の兵士は大抵一日に肉一斤を給せざるものなしと云ふ古來の習慣にて我國人は食に肉を要すること少なしと云ふと雖ども方今物價高き地方に於ては鷄卵一個にても一錢五厘乃至二錢を費す可し一日六錢を以て諸色を賄はんとするは到底行はる可きことに非ず之を平日にしては病者の數に差響き非常の時に當ては軍人の強弱勇怯に關す兵食の事決して等閑に附す可らざるなり

海軍の不完全なるに至ては陸軍より更に一層の甚しきものと云ふ可し四面海に濱する海國にして海軍の缺く可らざるは其理由を言ふも迂濶なれば唯讀者の自知に任じ去て之を擱き今試に我海軍を以て我航海の師國たる荷蘭の海軍に比較するに我れに二十九艘の軍艦あれば蘭には八十五艘あり荷蘭國は日本國の十分一にして其海軍は殆ど我れに三倍せり或は海軍の強弱は單に軍艦の數を以て標準にす可らずと云はん歟、左らば之に費す金の多寡を以て知る可し日本の海軍費は三百萬圓にして荷蘭の海軍費は五百四十萬圓なり伊太里は八百六十萬圓にして英國は五千九百萬圓なり亦以て強弱を知るに足らん我軍艦の數二十九艘なりと云ふも其實際遠洋に航して水戰に適す可きものは僅に半數ならんのみ此寥々たる軍艦を以て一旦海上の警を聞たらば如何す可きや近く前月朝鮮の事變に際しても我輩も世人も共に第一着に危懼を抱きたるは海軍薄弱の一事なりき固より我海軍人は航海に巧にして戰鬪に勇なり朝鮮事變の如きに處するは誠に易々たらんと雖ども天變亦恐る可し維新の年に脱走の兵が舊幕府の軍艦を以して去り其中に開陽丸あり嘗て荷蘭に注文して新に成り堅牢第一と稱する軍艦にして脱兵の最も依頼する所のものなりしが明治元年十一月十二日江刺の海にて烈風に逢ひ遂に暗礁に觸れて破碎し是より賊氣大に沮喪したることあり脱走兵は一艘の開陽艦に依頼して之を失ふて大に兵氣を挫きたり今我海軍人は果して幾艘の開陽艦に依頼するや江刺の烈風再たびす可らざるに非ず之を再たびし之を三たびしたらば如何ん我海軍の士氣は未だ戰はずして大に沮喪せざるを得ざるなり稀有の天變を豫期しても其不安心なること斯の如し然るを況や人變繁多なる今の外國交際の中に在るに於てをや凡そ内外の形勢を知る人にして今日の我海軍を以て足れりとする者はなかる可し我國人にして造船航海の學士なきに非ず其願に應じ其力に任ずれば成らざる者なしと雖ども彼の横須賀の造船所を見よ二年に一艦を造り五年に二艦を製し隨て新艦を製造すれば舊艦は隨て破れ更に進歩の實況を見る可らず他なし海軍の費額に乏しきが故のみ苟も憂國の志士にして之を憂とせずして又何事を憂ふ可きや頃日政府より百三十萬圓の金を出して共同運輸會社なるものを設立せしめたるは平日は運送に從事して商業を營みことあるときは之を軍艦に用るの趣向なりと聞たれども第一百三十萬圓の金を以て幾艘の船を製造すべきや誠に頼むに足らざる數なり第二商用と兵用と兩面の用に供するとは其工風巧なるに似たれども軍馬と小荷駄馬と、軍銃と獵銃と、具足と小袖と、刀劒と出刃庖丁と自から其用を異にすれば其作も亦異ならざるを得ず固より小荷駄馬なり又獵銃なり事急なるときは尚無きに勝るとは云ひながら軍馬軍銃一と通りの用意整ひし上にて豫備の又豫備には兎も角もなれども今日は尚未だ其豫備を云ふの暇なき筈なり我輩にてもよく之を知れり況や當局者に於てをや固より其窮策たるを知るならんと雖ども之を知て尚之を行ふは何ぞや費額に乏しきが故のみ我輩の考にては僅に百三十萬の金を斯く巧に用るよりも寧ろ斷然海軍費に充て少なくも二三艘の軍艦を作る方に贊成せざるを得ざるなり

抑も目今海軍費の不足なるは明白にして誰れも知る所なれども唯俄に其費額のみを増すも海軍全體の組織に注意するに非ざれば資金を得て却て當惑するの情なきを期す可らず我輩の最も不案内なることなれども海軍人の言を聞くに目下軍艦十二艘を一艦隊と爲し四艦隊合して六十四艘あるも之に適する將校士官水夫に差支あることなし且この六十四艦は實際の戰用に當る可き完全のものなれば一時に製作す可きにも非ず毎年六艘を作るも十年の日月を費し其中には士官校の生徒に卒業する者も少なからず水夫の數も次第に増加す可き方便あれば十年の後には此六十四艘を増して百艘に爲すこと甚だ容易にして迅速なる可しと云ふ又右の如く毎年六艘以上の軍艦を作るには現在の横須賀一所にては迚も叶ふ可きことに非ざれば何れにも内海に地理を見立てゝ造船局を設立すること緊要ならん又船を作るに新伐の材木は用に適せざるが故に今より山林を調査して伐木を要することならん又造船に鐵の入用なるは材木と同樣なれば採鐵の法も今より一層注意して大に起業を要することならん何れも皆十年二十年の計なれば今日一日を猶豫すれば後年に至て其事業の齟齬は啻に一日ならず一年ならず悔ひて及ばざることあらんを恐るゝなり

兵備を改進擴張せんとするに最第一の要は資金にして資金の由て出る所は其國の人民なること固より言はずして明なり故に兵備の厚薄は人民の資力に關係することなれば今我日本に兵備の改進を謀るには先づ人民の資力如何を問ひ今日我政府の歳入は果して國民の力を竭して此以上には一歩も進む可らざるもの歟或は然らずして民間に餘力あれば目下何れの邊にまで進む可きもの歟、又差向きの處は某の點にまで進むも殖産の次第に増進して國力の富實を致すに從ひ尚何れにまで達するものと豫算す可きや之を論ずること甚だ緊要ならんと信ず

我輩の所見に於ては今の歳入は國民の力を竭したるものに非ずして民間に餘力ありと云はざるを得ず歐洲諸國收税の多寡を以て日本に對照すれば近年の處にて人口一人に付大凡そ左の割合なり

佛蘭西 十六圓二十四錢

英國 十三圓十四錢

露國 四圓八十九錢

伊太里 十圓六十四錢

荷蘭 十三圓四十八錢

日本 一圓六十八錢

國税の多寡は其國殖産の盛否と國民の貧富とに關するものなれば今遽に歐洲諸國の例を以て日本に對照するも必ず讀者に異議ある可きを以て爰に外國の例を離れて唯日本國の前後に就て之を説かん封建の時代に當て三百の諸侯が領民を取扱ふに正税雜税を綿密に賦課し尚其外にも種々の課役を命じ御用金を取上げたるが如きは非常の事なりしが維新廢藩の時に既に人民は恰も塗炭の中に救れて往時の疾苦を忘れ次で明治九年地租改正の一擧以來税法の寛なる千古未曾有の有樣と云ふ可し時事小言第三編に曰く

(前畧)殊に財政の事に至ては寛大の甚しきものと云はざるを得ず紙幣の論は下編に讓て爰に畧し先づ地租の始末を述べん明治九年改正の事を行ひ當時の豫算にても政府は幾分の減租を人民に許したる其上に改正未だ半に至らずして百分の三を減じて二分五厘となし又之に加るに改正の後五年間の米價を平均して更に改正す可き約束を定め爾後米價頻りに騰貴したるが故に約束の如く再び改正するときは租額は必ず大に増加す可き筈なれども故らに其期を延ばしたるは之を寛大なりと云はざるを得ず恰も政府自から約束を履行せずして寛大を行ふたる者と云ふ可し假に此有樣を飜して最初改正の後米價頻りに下落し平均一石四圓五十錢なりしものをして二圓二十五錢と爲らしめなば人民は米を賣て地租の金を拂ふに苦しみ必ず苦情を訴へて速に改正を歎願することならん、即ち今の政府は改正の後通貨の價頻りに下落し此通貨を賣て歳費を拂ふに苦しみ正しく人民に向て苦情を訴ふ可きの局に當て却て自から改正を延期したる者なり我輩今人民の一方に眼を注て其個々の私利を謀れば此改正の始末も甚だ賀す可きに似たれども聊か眼界を廣くして此一國を一家と視做し其維持保護を以て最大の目的と爲す時は此財政の始末を以て能く其目的を達するに足る可きやと問はれて否と答へざるを得ず苟も眞成に國を憂て兼て又計算の考あらん者は必ず我輩と見を同ふすることならん況や當局の政府に於てをや國財の豐ならざるに就ては飽くまでも之を苦慮することならん、之を苦慮して抂げて其豐ならざるに處するは何ぞや民情を視察して果斷の處置を施すに忍ばざる者なり、政權の働を逞ふする能はずして強ひて自から抑制する者なり、内を顧るに忙はしくして外を憂るに遑あらざる者なり、一國を一家の如く視做すの場合に至らざる者なり云々地租改正報告書に全國の耕宅地八十四萬八千五百六十七町餘、雜種地七百四十七萬五千三百九十八町餘にして此税額明治十五年歳入出豫算表に據れば四千二百九十四萬五千八百五十三圓とあり

天保七年の調査に幕府諸藩收納の石高三千四十三萬五千二百石餘にして之を四つ物成とすれば現米千二百十七萬四千石餘と爲る又明治四年廢藩立縣の際地租の金額は米千二百五十四萬九千三百石餘とあり舊幕府時代に諸藩の報告は必ず實際より減少して書出すの慣行なれば天保調査の石數は固より實を證するに足らず且天保七年より明治四年までは正に四十年にして耕地も大に開け隨て諸藩の收納も増加したることなれども明治の調査に石數の大に増さゞるは廢藩の際諸藩にて幾分か舊税額を減じて新縣に引渡したるの情實もありて然るものならん今この千二百五十四萬九千三百石を一石に付き銀貨五圓とすれば代價六千二百七十四萬六千五百圓、これを紙幣にして一圓銀貨相場一圓五十錢とすれば九千四百十二萬圓と爲る之を明治十五年の歳入六千六百八十一萬四千圓の高に比すれば二千七百三十萬圓の差あり即ち此高は廢藩後の減税なり殊に地租のみに就て見れば半額以上を減じたるものと知る可し

明治四年と十五年とを比較して正租は二千七百萬圓の減少なれども内務省出版の地方税豫算收出表に十四年度地方税の收入は國庫下渡金等を除き實際各地方より出したるもの一千六百餘萬圓の高あり是亦人民より國用に供したる金なれば昔年の年貢に異ならずと雖ども封建の時代には村役郡役あり宿驛助郷の勤あり其他池普請、川普請、道普請等の力役を今の金に積りたらば今の地方税恊議費に對して超過するも少なきことはなかる可し是等は人民支出の米錢力役にて目に見る可きものなれども直接の實物を擱き封建政府の筋にて民間の事業を妨げたる間接の害を計れば枚擧に遑あらず河海の目付は河海の民業を保護するよりも却て之を妨げ山林の官吏は山林を妨げ物産の役所は物産を妨げ十中の七八皆人民の難澁たらざるものなし加之將軍又は領主地頭が狩をするが爲に山を封して猪鹿を跋扈せしめ鶴を保護して田畑を荒らし或は江戸の近傍にて鷹匠又は鳥見など稱する吏人は將軍の鷹野に役する者にして平日田舍の地方を徘徊し田地山林を踏荒らし農民を叱咤して傍に錢を貪り或は農家にて少しく富豪の者が自家の宅地田園に二階屋など普請すれば鳥見の吏人は直に行て之を咎む如何となれば遠方より御鷹野の鳥を見るに妨げあればなりとて其これを咎るの内實は錢を求る者なり此他諸藩の士族が其藩地に徘徊して或は猪狩川狩と稱して自由に農民を役し農家に止宿して必ず至當の價を拂はず又幕吏が國中を往來するときの威光の如きは今時の少年に於て其想像を作るも難きことならん幕吏が公用にて各地方の旅館に止宿するとき之に山海の珍膳を供するは通常の事なれども所謂公儀の御法も亦嚴重にして旅中婦人を近くるの一事は固く之を禁じて法を破るを得ず然るに或る吏人が九州地方通行のとき謀藩地に止宿して例の如く厚き饗應の其席に年の頃十六七歳とも思ぼしき半髮の美少年兩三名給事として客の左右に周旋し食事終て寢に就けば豈計らんや此半髮の少年は女子の男裝したる者にして主客默々の間の饗應なりしとの奇事あり盖し此女子は娼妓か藝妓か又は常民の子か之を知らずと雖ども苟も女子普通の髮の裝を變じて之を使役するには尋常の金を以て叶ふ可き事柄に非ず幕吏一夜の待遇に其地方の爲には百千の大金を費したることならん而して其大金の出處を尋れば直接に非ざれば間接にして其地方の人民より出でざるを得ず啻に其金のみならず斯くまでに厚くする吏人の通行なれば宿驛多事も容易ならず五里の山に出迎ひ十里の津に見送り實に一地方の混雜を極る其有樣は幕吏の一行颶風の通過に等しと云ふも可なり畢竟二百七十年間に養成したる弊風にして必ずしも當局の本人のみを罪す可らずと雖ども封建時代民間の疾苦は今日より想起するも人をして慘然たらしむるものなり

右の次第にして現今我日本國の租税は舊幕府の時代より減じたるのみならず既に減じたる明治四年の租額よりも更に一層を減じ假令ひ正税の外に地方税協議費あるも封建時代村役郡役宿驛川場等の費と人民の力役とに比すれば今を苛なりと云ふ可らず況や士族吏人が民間に關して施し及ぼしたる有形無形の民害を枚擧すれば際限もなきことにして何れの點より見るも今の日本人民は古來未曾有の富樂と云はざるを得ず固より目今にても國民の多數は貧苦にして小民の貧なる者は誠に貧なり此貧苦の樣を見て安樂と稱するは當らざるに似たれども元來苦樂貧富は相對の語にして今人の貧苦を以て今人の富樂に比して貧苦を見るのみ之を昔年に照らすときは幾分か其貧苦の度を減却したりと云はざるを得ず貧苦の度を減ずるは即ち富樂の度を増したるものにして我輩は之を稱して富樂と云ふものなり試に近年の地方を見よ小學の生徒甚だ多し假令ひ政府より説諭し又脅迫するも事實の衣食に餘裕あるに非ざれば學問に就くを得ざる筈なり、近年地方の人民は衣食住に奢りて冠婚葬祭も目立つ程に外見を飾り伊勢參宮本願寺參りと稱する輩までも昔日は莚を着たる者が今日は舶來の毛織物を身に覆ふ又田舍の小民が漸次に食物の品を上進して近來は米を食ふ者多く之が爲に自から米價の下落を支るの情ありとは米商の常に語る所にして信ず可きものゝ如し衣食の美に走るは人の天性にして之を留めんとするも駐む可らず其昔年に粗惡にして今日に美なるは人民の性質の變じたるに非ず其生計の面目を改めたるの實證なり何等の説を作るも今日の人民を評して塗炭に苦しむ者とは云ふ可らざるなり

右の次第なれば今の日本國庫の歳入は民力を竭したるものに非ず民間尚餘力ありと云はざるを得ず既に餘力あらば其幾分を出して兵備の用に供し焦眉の急を救ふは國民たる者の義務に非ずや我輩は之を信じて疑はざる者なり抑も一國の殖産は人民の餘力より發生するものにして次第に増殖し次第に加倍する其有樣は恰も動植物生殖の理に異ならず苟も民間に餘力の在るあれば今年の一は倍して來年の二と爲り二は四と爲り四は八と爲る可きが故に其餘力を未だ加倍せざるに奪去るは動物の雛を殺し植物の苗を切るに等し加之國民に餘力ありとて其資を集めて軍備に用ひ國中の男丁屈強なる者を撰で之を養ふは其男丁の體力を殖産の域より奪去るのみならず又隨て之に衣食を給することなれば之を譬へば國中幾萬の男子を取り故さらに病に罹らしめて之に醫藥するものに異ならず唯病のみにても既に其人の働力を失ふ、其上に又隨て醫藥の資を費す不經濟の甚しきものと云ふ可し其甚しきの極に至ては醫藥の價の爲に産を傾けて家を亡ぼすものなきを期す可からず兵備の殖産に害あること斯の如し我輩之を知らざるに非ず又恐れざるに非ずと雖ども都て事を論じ業を謀るには極端に走るを禁ず極端の弊を擧げて全面の利益を抹殺するも妨なきものとするときは我輩の持論も敢て他人の駁論を煩はすを須たず自から開陳して自から駁撃すること容易なれども方今我國人の知見は漸く進歩して漸く其眼界を廣くし内治の利害に兼て又外交の得失を議する者も少なからず學者の識量も漸く高尚を致して漸く論理の體裁を備るの時節なれば我輩は此國人一般の知見と學者の識量とに依頼し恰も之を抵當にして鄙見を述るものなり一國の公財は民力に由て生ずること固より論を俟たず民の資力は工業商賣殖産の方便に由て生ずること亦論を俟たずと雖ども方今我國殖産の全面を通覽し又後來盛衰の如何を推考して我工業商賣は漸く退歩の勢に傾く歟或は正に進歩するもの歟と尋れば我輩は斷じて進歩の中に在りと答へざるを得ず明治十一年慶應義塾出版の通俗國權論第六章に云く

(前畧)未來を明言するは固より能す可らずと雖ども事物を勉強して上達するの理は古今世界の實驗に於て明なる所ならん譬へば開港二十年以來日本の人民が學問に勉強して此間に學者の數の増加して其學力の上達したるは世人の許す所ならん然らば即ち商賣工業の事も二十年來人の勉強する所なれば特り此事のみ上達せざるの理ある可らず殊に士族の如きは昔日は職業を以て恥辱と爲し偶ま之を勉むるものを内職と稱し藩法に於ても公然これを許さゞる程の風なりしが廢藩の今日に至ては如何なる舊大臣も良士族も業に就かざる者なし假令ひ未だ之に就かざるも之に就かんことを思はざる者なし士族業を求れば他も亦これに競ひ天下一般今日は無職無業を以て恥辱とするに至れり固より此輩の職業に失敗するものも多しと雖ども之を前年に比して進歩と云はざるを得ず其趣は學校の生徒に中絶廢學する者多くして數年の勉強も徒勞に屬するが如くなれども全國に平均すれば一般に學者の數を増して學力の進歩を爲したるものに異ならず既に全國に平均して職業の進歩するあれば政府が獨り之を專らにせんとするも勢に於て能す可きに非ず政府の專制は僅に人民の無力に依頼して行はるゝのみ深く恐るゝに足らず又深く咎るに足らず況や外國と權を爭ふの一段に至ては區々たる内國政府の處置の如きは唯是れ社會中の一局事にして全面の大利害に比較すれば論ず可らざるもの多きに於てをや今の人民は唯餘念なく業を勉め内に勢を得て以て外に權を爭ふ可きなり

論者或は謂らく職業の目を以て見れば昔日の士族は固より遊民なれども今日は又兵隊巡査あり是亦一種の遊民にして其人員も少なからず其費用も甚だ多くして正に職業に就く可き人民の中より其幾分を引除く者なりとの説あれども論者は唯今日の外面を見て昔日の内情を詳にせざる者なり兵の用は國を護るより外ならず昔日の士族は即ち此護國兵にして其數四十萬、今の兵士より多きこと凡十倍なり又今の東京の巡査七千名甚だ多きに似たれども昔を思へば毫も驚くに足らず徳川の時代に江戸町々の夜番火の番は姑く之を除き大名旗本屋敷の門番辻番所の番人にても今の巡査の數よりも多からん三百の大名に平均三箇所の屋敷あれば其數凡九百これに上等旗本の屋敷を加へて大數千に下らず此千屋敷に毎日開閉する門番所の數凡千五百ならん一所の門に交代する番人を平均四名とすれば既に六千の數あり又この屋敷外にある辻番所の數も慥に知り難しと雖ども寄合辻番を差引して假に一千とすれば其番人四千より少からず合して一萬の數あり今の巡査より多きこと三千なり此外幕府本城諸見付の番士番人、下座見なり小者なり仲間なり其數殆ど數へ難し何れも皆警衞の爲にして其職分は巡査に異ならず尚これよりも無益に人を費すこと多くして天下に普通なりしものは貴族縉紳の從者供勢を以て最とす大名の行列は特別のものとして姑く擱き幕府の旗本御家人諸藩士の公務に勤仕する人にて少しく身分ある者なれば出入に從者を召連るゝは無論親族朋友の往來にも獨歩することなし而して其從者の職分を尋れば必ずしも重大の物を負擔するに非ず所謂若黨草履取なる者にして唯主人の行く處に從ひ其處を去るを待て復た從て家に歸るのみ之を供待と云ふ必竟人の働を用るに非ずして人の形を飾に用るものと云ふも可なり啻に幕臣藩士のみに非ず富商豪農僧侶神官何れも從者あるの風俗なれば凡當時日本國中に於て主人に隨行し又供待する者の數を計へなば日に幾十萬の人員にして之を兵隊に編成したらば幾百大隊を得べし今の陸軍巡査の如きは論ずるに足らざるなり

廢藩の一擧以て大名の行列を廢し武家屋敷の門番辻番人は巡査と交代し日本國中無用の從者を飾に用るものなし然ば即ち今日の兵隊巡査は之を一處に集めて其外面を見れば衆多なるが如くなれども全國の職業に關して遊民たるの憂は畢竟憂るに足らざるの憂のみ國民既に職業を勉るの心を生じて其人員も亦非常に増加したり富國の目的明なりと云ふ可し凡そ人として私の利を思はざる者なし今後我人民の事に慣るゝに從て次第に其利を永年に平均するを知り次第に私利の大なるものを求むるに至らば特に富國の論を喋々せずして富國の實は言はざるの際に成る可きなり

以上開陳する如く今の日本の兵備は國の割合にして十分ならざるや明なり、十分ならざるが故に之を足すの要用なることも亦明なり、之を足すには國財を要して其國財の出處は即ち國民なることも亦明なり、國民の資力尚弱しと云ふも之を封建の前年に比すれば豐なりとのことも亦明なり、資力の源は殖産にして方今我國の工業商賣は正に進歩の中に在るの事情も亦明なり然ば則ち此焦眉の急たる兵備改正の爲に國財を集るの工風ある可きは智者を俟たずして明なる可し況や政府の當局者に於てをや固より之を知らざるに非ず然るに今日に至るまで知て之を施行せざるは何ぞや我輩の最も解する能はざる所のものなり

政府は兵備改正の爲に特に國財を徴收せざるのみならず現在戰爭の爲に財を費して其財の出處なきものにても尚且默々に附して之を人民に徴すことを爲さず其一例を擧げんに時事小言第五編に曰く

(前略)尚此理由を明にせんが爲に一例を示さん爰に一村あり村社臨時の祭禮に神樂を奏し花火を揚ることを企てん、之が爲に數十圓又數百圓の金を要するは當然のことにして村内毎戸其貧富に應じて數十錢又數圓の出金を課するも當然のことなり盖し此祭禮は本年の流行病驅除の爲に臨時の祭禮なれば本年に限りて臨時に金を出すとの事も亦明に知る可し何れも皆事の賭易きものにして一村内に之を疑ふ者はなかる可し若し或は村内各戸の出金なくして祭禮を執行したることもあらば其時こそ却て疑惑を抱て物論の生ずることもある可けれ、然るに此村を大にして日本全國に於ては此事情に反するものあり戊辰以來國事の多端なりしは姑く擱き近く明治十年我日本の西南より鹿兒島の騷亂なるもの起りて其勢は啻に流行病のみに非ず政府は此騷亂を驅除せんが爲に幾萬の兵を出して日に幾十萬の彈藥を放發し全國の人民東走西馳の混雜は村の祭禮に人氣の動搖するよりも甚しきもの凡そ九箇月にして始て鎭定したり取も直さず明治十年は日本の人民が全國臨時の大祭禮を催ふして九箇月の間毎日大花火を打揚げたるものと云ふ可し然るに此大祭禮の最中にも又其鎭定の後にも曾て國内に其費用の出金を促す者なきは不可思議に非ずや、一村の小祭には金を要して全國の臨時大祭には之を要せざる歟、數理に於てある可らざることなり、聞く所に依れば其費用四千餘萬圓なりしと云ふ、左れば日本人民は此年一戸に付六圓餘の臨時割前を出して相當なるに、促がす者あらざれば出す者もなく、恬として今日に至りしことなれども一度び費したるものは去て復た返らず此四千餘萬圓も間接に人民の負債たること明なり云々又今回朝鮮の事件に就ても政府は必ず二三百萬圓の金を費したることならん二三百萬の金は固より國庫の大計に差響く程の高にも非ざれども其多少に論なく臨時の軍費と云はざるを得ず臨時の軍費とあれば計算上の混雜を生せざるの限りは臨時に之を徴收す可きこと無論なりと思へども今日に至るまで朝野共に此邊の議論あるを聞かず加之政府は維新以來次第に租税を減じて人民の之を悦ぶは無論、政府も亦自から得意の風を爲し減税は恰も政府最上の美徳たるが如き有樣にして上下共に之を信じて疑はざるの最中なれば偶ま新に税を課する歟又は税を増すことあるも民心を斟酌するの情は自から外面に溢れ例へば官吏が地方人民に説諭するにも口頭とは云ひながら政府も云々の次第なれば當分の中この税を斯の如くすと云ふ其當分の語は課税は暫時の間臨機の法にして遂には復た減少す可しとの意味を含むものゝ如し故に人民は次第に之に慣れ政府の改革とあれば租税は必ず減少することならんと不言の際に之を信じて豫期するも亦謂れなきに非ざるなり盖し政府が國民に對して斯くまでも遠慮して徴收を憚るは所謂る斯民を休養するの旨歟我輩は人民の爲に謀て休養を願はざるに非ず租税は益寛ならんを欲し私有は益豐ならんを祈ると雖ども今の文明世界に立て一國の體面を維持し假令ひ進で取らざるも能く退て守らんとするに今の日本政府の財政を以て今の日本國の兵用に給し果して枕を高ふして安心す可きや如何に時勢に暗き愚夫にても之に答へて然りと云ふ者はなかる可し租税愈寛なれば人民愈休息して安からん其休養の旨は謝す可きに似たれども畢竟一身一家内の安樂のみ

眼を轉じて廣く戸外を見れば一國の形勢安樂ならざるを如何せん之を譬へば門墻の守を薄くして鎖鑰の費を省き以て家人の飮食を饒にするものゝ如し一時の口腹愉快ならざるに非ずと雖ども一家の守警嚴ならざるが爲に不時の賊難を如何せん我輩とても口腹の慾あるは猶他人の如しと雖ども事の大少輕重を思へば其飮食を甘んずると得ざるなり時事小言第二編に云く

(前畧)尚甚しきの極は國會開設の遊説者が民間に開設の便利を説諭する其便利の一箇條に國會果して開くときは或は現今の租税も尚一層の寛大を致す可しとて人間の私情に依頼して民心を動かす者あるに至る其遊説者は遊説を以て事とする者なるが故に一時の方便に此説諭の策を用る者なりとして之を許すも苟も憂國の士君子を以て自から居る學者論客が其民心の動搖を見て某地方には幾萬の有志者あり其志は云々其團結は云々とて暗に之れを奬勵して自から欣喜の顏色を開くが如きは誠に憐れむに堪へたり論者をして果して其志を遂るを得せしめて之に國事を議するの地位を授けたらば何とするや曩に減租の夢を妄想せしめたる其人民の名代と爲りて改めて増租の事を議する歟甚しき詐欺なり假令ひ或は之を増さゞるも前約の如く減ずるを得ざるときは如何せん、前言は之に戲るゝのみとて遁れん歟民事は戲に非ず、孔子曰教へざる民を以て戰ふ是れ之を棄つと云ふと今の論者は民を教へざるのみならず又隨て之を欺くものなり何の面目か以て復た人民を見んとする乎維新の以前世の有志者なるものは頻りに尊王攘夷の説を主張し一時に天下の民心を籠絡して遂に幕府を倒し天下太平の東天將に明けんとする其時に於て攘夷の説は早く既に跡を收めて消滅したり此時に於ても世の物論喧しからざるに非ず渾身攘夷を以て成立したる血氣の壯年は恰も他人に賣られたるの思を爲して大に不平を抱き遂に之を兵器に訴へて明治の初年に長州の亂、次て肥後の神風連の擧の如きは其精神の發表したる者なり左れども維新の事は兵馬の大擧にして強大なる舊幕政府を倒すが爲に國人の血を流したることなれば其大變動の際に或は前説を改るも大變中の一細事として人を瞞着するの機もある可しと雖ども此度の國會開設は王政維新に異なり固より少年血氣の事に非ず固より兵馬の力を藉るものに非ず其由て來る所は學者の議論にして其事に當るものは政治家の働なり徹頭徹尾道理に基て腕力に依らざるものなれば其道理論中に苟も人を欺き人を賣るの元素を含有したらば實際に於て進退惟谷るの窮に陷ることある可し眞に愍然ならずや云々

軍費償却租税徴收の事に付き是れまで政府が曾て斷然たる處置を施さゞるは當局者に於て其人の心の罪に非ず其一心には斯民を休養するの情を抱く即ち惻隱の良心なり又一心には内治外交の有樣を通覽して國權の維持擴張に眼を轉ずるときは焦眉の急にして他を顧るに遑なきものあり我輩傍觀者にして尚且之を洞察す當局者の心緒多端なる實に氣の毒に堪へざるなり去迚は際限もなきことにして到底財政の改革は目下猶豫す可らざる場合なれども年一年、日一日以て今日に至りて尚其議を聞かざるは何ぞや我輩これを氣運の然らしむるものと云はざるを得ず蓋し其氣運とは如何なるものぞと尋れば天下人心の傾嚮にして官民不調和の一點即ち是なり抑も官民の間柄は法律を以て云へば誠に明白簡單なるものにして官の命ずる所、民これに背くを許さず臨時の軍費を償却せんと欲する歟これを命じて可なり尋常の租税を増課せんと欲する歟、これを令して可なり政府の命令する所にして然かも國の公用の爲にし結局全國人民の利益幸福を保護し又増進する爲の主意なれば誰れか敢て之に背く者あらんや若しも此主意を解する能はざるものは不智固陋の頑民として之を一時に壓制して永遠の結果を示すの外方便ある可らずと云へば云ふ可きに似たれども去迚は智惠もなく思慮もなく極めて拙き政策のみならず人事十中の七八情を以て組織する今の此社會に於て淡冷なる法は濃熱なる情を制すること能はずして如何なる禍災を引起す可きやも測る可らず左れば何れの時代何れの政體にても苟も天下公共の財を集めて天下公共の事を成さんとするには天下公衆の心を收攬して其情を制し人心世情に温暖を催ふして其和氣春の如くなるに非ざれば行はれ難きことゝ知る可し君主獨裁の政に於ては此有樣を名けて能く百姓の心を得たるものと稱し立憲國會の政に於ては民心の多數を得たるものと云ふ其評目異なりと雖ども其義は一なり然るに今我日本國に於ては政治の事に付て人民の思想を異にするや甚し其大體の區別を云へば官權黨と民權黨と相對して其主義論説水火相容れざるものゝ如く日に相論し相駁して益其論鋒を鋭くし其鋭利の極は或は罵詈讒謗の失體に陷る者なしとせず人民の和氣春の如きものと云ふ可らざるなり抑も官權黨とは誰れの命ずる所にして何に由て斯る名を得たる歟、これを知る可らずと雖ども民權論者の主義に反する者たるや明なり或は官權論者の眼を以て民權黨を見たらば亡國論の如く思はるゝことならん其趣は民權論者が官權黨を見て人非人視するに異ならず議論の極度自然の勢にして必ずしも其人を咎るにも足らずと雖ども世間の通稱に官の字あるが爲に或は今の政府の旨を奉じて暗々裏に之に應援する者たりとの嫌疑なきを得ず斯の如きは則ち政府の爲に謀て最も不利にして最も其英斷の政略に妨害たる可きものと云はざるを得ず如何となれば今の在野の官權黨は果して政府の友なる歟、友を得るは祝す可きに似たれども一友を得るが爲に二敵を生ずるの弊なきを期す可らざればなり唯尋常一樣政談の學者論客が各黨派を作て相競爭するものなれば其競爭は唯民間に止まる可けれども苟も其一方の黨派が官に黨するとありては政府は一方に政治の黨與を得ると同時に他の一方に政敵を得るの姿なれば之を利益なりと云ふ可らず即ち官民軋轢の由て生ずる原因なり我輩の考る所にては今の政府は政黨の政府と云ふ可らず政黨の政府に非ざるの限りは民間に如何なる政談あるも如何なる政黨あるも國法を犯さゞる間は之に干渉す可らず若し或は其政黨なるものが相互に軋轢して平穩ならざるの萠もあらば陰に陽に力を盡して其調和を謀り無偏無黨公明正大なる中央政府の旨を以て雙方を説諭し其過度の軋轢を鎭撫調和するこそ當局者の老手段なる可けれ

我輩が政府に望む所は唯この一事のみ民間にても少しく經世の志を抱て老練の考へあるものは常に此邊に憂慮せざるはなし況や政治の實際を經歴して千練百磨と稱する政府の人に於てをや必ず其心事の一方には之を思慮するならんと雖ども又一方には種々樣々の事情に妨げられ又事情を聞込み之が爲に自家の心事も自から心の如くならざることにや今に至るまで民間政黨の軋轢を鎭撫調和するの沙汰を聞かず加之彼の官權黨なるものは官の字を奇貨として之を利用し恰も今の政府の御味方を申すと云はぬばかりの顏色を爲して其反對黨なる民權論者を攻撃し其榮譽を害し其實利を妨げんとして些細の處にまで切込むが故に民權黨の不平は日に益甚しからざるを得ず而して此不平なるもの單に政黨と政黨との間に止まりて雙方共に毫も政府に關係を有せず政府は高く局外の上流に位するの有樣なれば尚可なりと雖ども如何せん一方は官權の名を冒して或は官より特別の保護を蒙る者なりと稱し或は今の政府は己れと同主義なりと掲言するが故に滔々たる天下の廣き此官權黨の擧動を見て正しく政府の趣意ならんと認る者も多かる可し我輩の見る所にては政府は斯る民間の政黨などに依頼して政を爲す者とは思はざれども此官黨の名あるが爲に政府の不利たるは實に容易ならざるものと信ず如何となれば世間この官黨に敵する者甚だ多し之に敵するものは政府に對して間接に反對を表する者なればなり無偏無黨の大政府にしてあれば民間に幾多の政黨あるも之れを不問に附して可なり或は之を調和して可なり然るに爰に不幸にも官權黨の現出して官の御味方を申すに至ては政府の爲に謀て俗に所謂難有くして迷惑なるものと云はざるを得ず抑も此官權黨なるものは近來の出生にして其起原は官の筋より促して之を助成し今も尚これを助るもの歟或は民間有志者の發意にて毫も政府に由縁なきもの歟我輩これを云ふ能はずと雖ども兎に角に此黨の出生したるが爲に間接に政府の主義に反對する者を増したるは疑を容れざる所なり

下民を收歛して自から奉ずるとは徃古獨裁政府の國に行はれたることにして人民は少しも上の情を知らず其膏血を集めたる國財が何物に變じて何人の快樂に用を爲す歟、一切これを聞くに由なし上下隔絶して國民は恰も國君の爲に家畜視せらるゝの時代には收歛自奉の評も當る可しと雖ども今我日本の事情は之に異なり國會こそ未だ聞けざれども上に收歛自奉の君なきのみならず帝室の御分量は薄きに過るとて我輩も常に之を切論し世の論者も中心に我輩と同説ならん、其下にして政府の官吏が如何なる私を營む可きや何程のこともある可らず其俸給とて素より豐なるに非ず賄賂も大に行はれず私托も甚だ益なし固より政府も人類の集る處なれば官吏に慾心深くして鄙劣なる者もあらんと雖ども多人數の中には珍らしからぬことにして如何ともす可らざる者なり唯數年の間、多數の官吏に平均し之を他年他政府に比較して正きものは之を名けて正き政府と云ふのみ斯の如くして考へたらば今の政府も決して不正なる政府とは云ふ可らざる者ならん我輩政府の内情に就ては甚だ不案内なれども是れまで貴顯の位に居り又相應の職を奉じたる者を世間より見て何某こそ必ず富有ならんと評したるに其人が官を罷たる後の實際を聞けば富有なる者は甚だ稀にして多くは清貧の君子に非ざれば赤貪の窮鬼のみ日本政府の官途は利の爲に香ばしき地位にあらざること以て知る可し左れば今兵備擴張の爲に國財を集めんとするは唯國民の私財を一處に集めて其處より更に復た散ずるのみのことなれば政府は取りも直さず國財出納の取次する者に異ならず往古の時代に行はれたる下民を收歛して自から奉ずるものに比すれば大に趣を異にする所を見る可し

然りと雖ども財の出納に就ては動もすれば雙方に疑念も深く又間違も生じ易きものなるが故に西洋諸國にて國會の設あるも專ら此疑念を解き此間違を防ぐが爲なりと云ふ國會の有無に拘はらず何れにも最第一の要は唯人民をして安心せしめ政府を疑ふの念を却掃して財を出すに吝なること無らしむるに在るのみ即ち前節に云へる何れの時代何れの政體にても天下公共の財を集めて公共の事を成さんとするに天下公衆の心を收攬して其情を制すること緊要なりとは是の謂なり此言果して是ならば目下我國に於ても廣く在野の人物を政府に容れて官民合體同一の針路に向ひ民情をして安からしむるは焦眉の急要に非ずや今の民權黨と云ひ又官權黨と云ひ本來人種の殊なるに非ず民權黨或は大に不忠なるが如くに見ゆることもあらんと雖ども昔年は大忠臣者たりし者多し官權黨も目下大に忠なるが如くに思はるゝこともあらんと雖ども數年前は大不忠たりし者も少なからず人心の同じからざる其面の如し人心の變化も亦面の如し心怒れば面色も亦怒る、心和すれば面色も亦和す人の面色生涯同一樣なる可らず、心も亦同一樣ならず、今日忠と評し不忠と目するも其忠不忠を標するに足るものあらざれば遽に他の面色の喜怒を見て其畢生の心事を斷定するに異ならず

謂れなきの甚しきものなり世論常に云ふ明治政府大小の官吏は奉職中の忠臣にして官を去れば則ち不忠に變ずと、今姑く論者の言に任じて果して然りとせん、然りと雖ども明治年間は日本の開闢以來特別の時限にして此時限に官吏たる者は特別の精神を具する者歟、我輩これを信ずるを得ず等しく日本國中の父母に生れたる日本人にして一種奇異の心術ある者に非ず、奇異の人物に非ずして乍ち忠乍ち不忠なるが如き奇異なる事相を呈するは何ぞや其人物の奇なるに非ず事情の然らしむるものと云はざるを得ず人心の定則に於て斯る事情に逢へば斯る變を生ずること果して違ふことなきものとすれば忠不忠の變化は特に是れまで官を去りたる人のみに限らず斯る事情のあらん限りは斯る變化の止むことある可らずと斷言するも可ならん、我輩の所見にては此忠不忠の變化も一時面色の變化に等しきものなれば意に介するに足らずと思へども是亦姑く論者に讓りて眞實中心より斯る變化ありとせんも尚妨あるを見ず、忠より不忠に變ずること容易なれば不忠より忠に變ずることも亦容易ならざるを得ず政府たる者は其官吏奉職中の智徳を利用するのみ、職に在るの間誠に忠實にして終始一の如くならば既往の不忠を問ふを須ひず之を忠臣視して可なり尚近く一例を想像して之を示さん今爰に忠實活溌無二と稱する官權論者ありとせん

政府は大に之を嘉みして事を談じ財を與へ或は其事業たる新聞社等に救助保護するが故に論者は益熱して深切を盡し是れこそ永日依頼し又依頼せらる可き交際なりとて雙方相信ずること益厚くして相互に疑ふ所なしとせん、然るに又重ねて爰に想像して政府が此人物に就て少しく疑ふ可き點を發見して漸く之を疎外し事に托して其保護を薄くし其救助を減じ交情復た從前の如くならずして漸く互に苦情を抱き遂には此苦情を裏に包藏する能はずして其人の非を擧げ罪を鳴らし救助保護をも一切之を取上げて斷然謝絶するの場合に至るとせん、然る時に此官權論者の擧動は如何に變化す可きや昨日の忠實無二は今日の不忠不實たる可き萬々疑を容る可らず其變化は遠く之を他國異年の歴史に徴するに及ばず現に其官權論者の身の履歴を案して明白に知る可し或は官權たり或は民權たり唯時の宜しきに從て移り易はるは通常の人情にして今世に在て通常以上の人を求むるは甚だ難し即ち其人の罪に非ず事情の然らしむるものなり士は知己の爲に力を盡すと云ふと雖ども今の士は昔の士に異にして其盡すや畢生の心事に非ず唯己を知るの年月の間これに盡すのみ昨日の知己今日の不知己と爲れば昨日の盡力は今日の不盡力たる可きのみ封建世祿の臣が其君に近接して忠義を盡し不幸にして其身は疎外せられ其榮譽名利は褫奪せられ甚しきは君に殺さるゝも尚怨望せざるが如き精神は決して今日に見る可らざるなり

右の想像果して違ふことなくんば今日の官權論者を變じて民權論者と爲し政府の反對黨たらしむること甚だ易し盖し前節に云へる如く士は知己の爲に盡すと云ふも今世の士は唯己を知るの間のみ盡す者なればなり此滔々たる天下の風潮に當り獨り屹立して己を知る者あるも喜ばず、知る者なきも亦悲しまず天下百年の成敗を以て一身に負擔して終始一の如くなる者を求めんとするは甚だ難きことにして假令ひ其人あるも全國中に指を屈するに足らざる者なれば實際の當局者たる者は斯る得難き求を爲すよりも寧ろ之を度外視して唯今日に行はる可き路を求ること緊要ならん即ち今の官權黨を變じて政府の反對民權黨に變化せしむるの手段順序を想像して斯くしたらば誰れも反對す可し是れも不平を鳴らす可し數月を出でずして滿天下をして政府の反對民權論の社會たらしむる甚だ易しとの事實を瞑目して考案し果して心に得たらば今回は又心事を一轉して其反對を想像し天下現在の民權論者をして官權論者に變化せしむるの圖畫を作るも亦甚だ容易なる筈なり抑も今の民權論者なるものは日本國中異種の人には非ざれども其言論に喋々するは政治論に他と意見を異にして不平を抱くものならん其不平の近因は種々樣々なりと雖ども遠因の根本は現在の政治社會に入るを得ず又民間に私の事業も少なく才を有して事なきに苦しみ無事の餘りに頻りに社會の變動を好む者より外ならず身に才學の資を抱て執る可き事業を得ざるは膂力ある人が逸居して運動せざるものに異ならず逸居安樂は人の好む所なりと雖ども膂力勃々之を禁じて禁ず可らず幸にして執る可き力役あれば可なりと雖ども若しも其力役を禁じて筋骨の働を鬱積せしむるときは或は時として奮發して家を破り物を毀つなきを期す可らず然らざれば病を發して死する者あり屈強の壯者を幽閉して頓に衰弱を致し往々憤死するの例を見て之を知る可し左れば今の世の民權論者も流行雷同の群衆は姑く之を除き苟も其中等以上の人物は日夜無事に窘めらるゝこと彼の力士が一室に幽閉せられて自己の膂力に窘めらるゝ者に異ならず其情實甚だ睹易きのみ世人若し此に疑あらば試に民權論者の履歴に就て之を視察せよ其論者が維新十五年來如何なる時に得々して如何なる時に不平を鳴らしたる歟其得々たりしは正に事を執て心身忙はしき時にして不平なるは閑散無事の時ならん然ば則ち此閑散をして繁忙ならしむれば不平も亦同時に消散して痕なきに至る可きや疑を容る可らざるなり

閑散の人をして繁忙ならしめんとするも執る可きの事なければ之を如何ともす可らずとの説もあらんと雖ども方今我國の朝野に爲す可き事甚だ多し前節にも記したる如く兵制の一方に就ても士官の數は現に不足するに非ずや正則の士官生徒は次第に卒業す可しとするも目下の後備軍國民軍は如何す可きや生徒の卒業を待つ可きに非ず又政府中に於ても内治外交共に事務は日に繁多ならざるを得ず僅に大藏省中の租税課の一局を改正するも其事は容易ならざる可し現今の實況を聞くに本省より收税員として全國の各地方に派出する者は小吏のみにして奏任以上なるは大阪名古屋靜岡仙臺等三四名に過ぎず收税は政府の大事なり小吏の人物は兎も角も其官小なれば責任も亦重からずして實際に於て往々不都合あるは我輩の常に聞く所なり畢竟大藏省にて一年僅に十四五萬圓の收税費を以て事を辨ぜんとするが故に人を用るを得ざるのみ租税課の如き唯一局部の事なれども概して政府中を通覽すれば高尚の人を要するの地位甚だ少なからず尚上て參事院元老院あり目今の議政部とも云ふ可き場所なれば特に大に其門を開て人を容るゝに妨なきことならん又民間の事業の如きは政府より勉て之を奬勵して其自由に任して可なり近來の世説には商人の事業に至るまでも強ひて黨派の名を附し何社何會は何黨に由縁あるが故に云々せざる可らずなどゝ兒戲に等しき小計略を運らすが如きは經世の大計上に於て沙汰の限りに非ずや斯る氣風の世に流行して或は業を失ふ者もあらん或は體面を傷けらるゝ者もあらん亦又不平の種子にして歸する所は間接に政府の利益に非ず是等に就ても政府は注意して小計略の流行を防ぐのみならず勉めて公平大膽の政畧を以て之を助けざる可らず一事一業にても民間に功を奏する者あれば全國不平の一部分を減少したることゝ知る可し政治の針路相異なりとて人を疑ひ人を拒て之を異類視すれば異類の者は日に増加して殘餘の同類も遂には頼む可らざるに至らんのみ今の日本の政府が果して政黨の政府ならば異類同類の沙汰も至極尤なることなれども政府は唯中央の一政府にして公平一樣の政を施す者なれば天下に異類の者ある可らず或は之あるに似たる者は有志者が無事に窘められて私に政黨などの名を作り強ひて自から無聊を慰るものに過ぎざれば其私を變じて公と爲し若しも之に黨名を附せんと欲せば天下唯一官權黨と稱して可ならん廣き世界を見れば日本は唯是れ東洋の一小島國のみ島民三千萬、同心協力一人の如くなるも尚且安心なりと云ふ可らず然るを何の因果なる歟何の理由なる歟將た何人の心術に出でたることか此小島國の人心を分て二と爲し三と爲し一方に解す可らざる不理窟を述る者あれば又一方も解す可らざる小計略を以て之に對し言論計略の間は尚可なりと雖ども一國保護の爲に警備を要し警備の爲に國財を要する實際の場合に至て意の如くならざるの不幸を致すとは長大息に堪へざるなり蠻觸角上何ぞ夫れ多事なるや眼を轉じて宇内近時の實況を見たらば或は發明することもあらんのみ

議論稍や多岐に亙りたるが如くなれども本編に於て我輩の執て主義とする所は今日宇内の形勢を察すれば我日本の兵備は一層の改正を加へざる可らず、之を改正せんとするには國財を要するが故に之を國民より徴收せざる可らず、之を徴收せんとするには民心を反對せしめては迚も行はる可き事に非ざるが故に先づ其心を收攬して其情を繋がざる可らず、人民の心情を得んとするには天下の有力者を政治社會に入れて其處を得せしめざる可らず、廣く有力者を入れんとするには其主義針路の小異同を問ふ可らず假令ひ一目したる所にて異同あるが如くなるも唯一時其面色の怒るが如く又和するが如く見ゆるものにして畢生の心事を一時の面色に由て斷ず可らず、官權必ずしも畢生の味方ならず民權必ずしも永劫の敵ならず官たり民たり是れぞ自由の世の中なれば民權論者固より容る可し官權論者必ずしも放逐するにも及ばず之を一處に混同すれば自から亦混和同體のものを生ず可し云々の旨を述たるものにして即ち我輩が常に希望する所の大膽政略とは此邊の大計を謂ふなり尚重ねて之を云へば國財を集るとて收歛自から奉ずるの舊套に非ず、政府は唯國民の財を集めて復た散するに其取次の事を行ふまでにして結局民と相和して國の急務を處するものなれば固より斯民を敵視す可らず、官民の和氣春の如くにして國財の徴收も始て意の如くなる可し、故に苟も國民中に不和とあれば其不和なるものが假令ひ直接に政府に反對せざるにもせよ百方周旋して其中間に入り之を調和するこそ政府たる者の道徳上に於て其責任と云ふ可きものなれ、何等の事情あるも今日の政體に於て政府が國民の一方に黨し一主義に偏するの理由ある可らず、一方とは即ち國の一半なり全國の一半を友視するが爲に他の一半が精神上に政府に反對するの結果を呈するときは政府は不知不識の際に民心收攬の領分を半減するに異ならず啻に政府の不利なるのみならず政事の擧らざるあれば一國百歳の不幸なり云々の旨を述たるものなり讀者よく通編の主意を玩味して之を誤ることなくば幸甚のみ

或人の言に今の政府に人を容れんとするも政の實權を掌握する唯一名の實力者の在るありて一切政事の方向を左右するに非ざれば政壇に人物多きも其人の用を爲さず多々益軋轢を生じて却て其弊害のみを見る可し以前にも其例なきに非ず一時は試に之を容れたることもありしかども隨て容るれば隨て内の不調和を生じ遂に無益たりしは人の知る所なり畢竟我政府にも獨逸國の宰相「ビスマルク」の如き一個の實力者を得るに非ざれば百事意の如くなる可らずとの説あり此説甚だ是なり我輩は必ずしも獨相の才徳に感心するには非ざれども其政府に在るの地位と名望とに由て百官を己が意の如くに御するの有樣は甚だ羨しきことなり然りと雖ども是れは人物の才不才に由るに非ず獨逸政府全體の組織習慣に從て然るものなれば之を我國に望む可らず、之を望て得べからざるを知らば徒に愚癡を述るよりも寧ろ決然斷念するに若かず之を斷念して他に實力獨行の法を求るに如何して可ならん

當路數名の人が眞實に私心を去て同心合體恰も一個人の如く成りて一針路に向ふことを得ば則ち此目的を達す可し即ち數頭を合して一頭と爲すの法にして此法をして實際に行はれしむれば其成跡甚だ美ならんと雖ども之を譬ば數名の畫工をして一幅の山水を畫かしむるが如くにして假令ひ各妙手にても其筆勢全面に達するを得ず半山は嶮岨にして半山は頓に平易に變し一線の流水乍ち緩にして又乍ち急なるの奇觀を呈し衆工皆其技倆を逞ふするを得ずして遺憾を感ず可きのみ左れば衆當路者の其人に私なくして誠意誠心なるも其誠を政治の全面に達せしむるは甚だ難きことなり然ば則ち如何して可ならん止むことなくんば多數に決するの一法あるのみ多數の議決も隨分遲鈍なるものにして甚だ願はしきことには非ざれども窮策中の良策にして他に好手段あらざれば之に從はざるを得ず例へば今の參事院元老院の議事の如し議員中一名の意を以て事を決しては何か不都合なるが故に多數の議に從ふことならん勝つを好て負るを惡むは人情にして一人と一人と相對すれば之に負けて甚だ不偸快なれども多數の爲に敗北したりとあらば人々自から其癡心を慰るに足る可し故に目下の急要として政府は大に人を容るゝの門を開き官民の偏主義を問はずして天下の方向を一ならしめんこと我輩の希望する所にして又實際に施す可き手段なりと信ず人を容るゝには大より小に及ぼすこと固より自然の順序にして先づ大人を容れたらば其大人が自から黨與の人を率ひ來りて政府全體の組織を動搖せしむるの恐れもあらん又其大人等が各自の持論を主張して更に軋轢を生ずるとの掛念もあらんと雖ども大事は多數を以て決すると覺悟を定めたらば各自の持論も其力を逞ふするを得ず人々自由ならずして却て不自由の間に自由を覺ることならん斯る不自由の中に居て各力限りの技倆を呈せんとすることなれば隨分苦々しき情實もあらん其極度に至ては權謀術數鄙劣なりと云ふ可き程の擧動もあらんと雖ども是れは初より豫期して政治壇上の常態と心得、多數議決に免かる可らざる者とすれば必ずしも驚くに足らず況や其權謀術數も亦不自由にして力を逞ふすること能はざるに於てをや結局政府の權力は公才公望兼備して事實の才徳を有し其地位名分共に廣く世に現はれたる部類の人に歸す可くして天皇陛下も亦必ず其人に任じ給ふことならんと信じ奉るなり抑も國會の開設は數年の後に在り其凖備として憲法の取調等も大切ならんと雖ども大抵は紙上の論に止まるもの多し我輩の見て以て凖備とするものは今日より政府の基礎を固くして其組織を洪大にし租税の改革より兵備の擴張に及ぼし一切萬事大日本國の政府と稱して耻るなき程の規模を豫定して他年この國の政權が誰の手に落るも此根本の規模を變ずることなからしむるの一事に在るのみ而して其大規模を定るに今の所謂官民を調和せしむるに非ざれば固より行はる可きに非ず一度び調和したる上は(行はる可きものならば)道徳上に同心合體するも可なり或は多數決の法に從ふも可なり其時宜に由る可しと雖ども此調和の策たるや一日を怠慢すれば一段の難澁を増し遂には雙方共に事實の利害を第二着に置き間違より妄想を生じて妄想より執拗を生じ相近づくの機を失ふて如何ともす可らざるに至るは必然の勢なれば特に迅速の英斷を希望するものなり

我輩の想像果して事實に行はれて政府は大に人を容るゝの門を開き國中に徳望ある人物は悉皆政府の内に集り今の現在の當路者と同心協力して前途の大規模を計畫するの場合に至るとせん即ち我輩の所謂國會開設の凖備にして國會未だ開かざるも天下の民心既に調和すれば數年の後に至り實際開設の時に臨で之に處すること甚だ容易なるべし、外より迫りて開く國會にては迚も平穩を期す可らず他國の歴史を見て明白なれば苟も國の安寧を重んずるの心あらん者は主義の小異同を問はずして先づ全國の人心を一政府に籠絡して他年、内より之を開くの凖備緊要なるのみ又この間に政府の基礎を固くして其組織を洪大にするとは今の日本國と今の日本政府とは其大小の權衡を得たるものに非ざるが故に政府百般の規模を大にすることなり若し今日の實際に行はれ難きものもあらば動かす可らざるの大計を豫算して數年の後の成功を期して可なり人は百年の身に非ざるも國は千萬年の國なり況や官吏が一時奉職中の日月に於てをや僅に五年十年の此日月に何等の成跡を見る可き唯大人は能く其眼を遠きに及ぼして後世子孫に謀を遺し其從て踏む可きの路を開くのみ今爰に讀者の了解を便ならしめんが爲に一例を示さん我政府にて皇居を造營し又隨て太政官を建築す可きは我輩の持論なり此建築に就き今の諸官省を一處に集めて百年の後に至るまでも政務に適す可き洪大堅牢のものを作らんとすることなれば其費用も必ず巨額ならん假に之を一千萬圓とせん一千萬金を一時に支出すること今日の實際に行はれ難きことならば二十年を期して毎年五十萬圓を費すの計を豫算し今より建築學士に命じて其地を測量し其圖面を製し次で土功を起して地形に取掛り漸くして石を積むの順序に至り年々歳々怠慢することなくして二十年の後には壯麗無比の日本國太政官の功成り以て之を百千年の後に傳ふ可し即ち太政官の建築に付き大計の豫算なるものなり政府の百事この趣意に基き本論の主義たる兵備擴張の事に付ても目今焦眉の急にして捨置き難く無理にも之を増補せんとして其道あるものは之を増補し其極度に至て如何にも今日の國力に及ばざる部分は詳に其大計を豫算し幾年の後は陸軍は斯の如く海軍は斯の如くなる可し其費用の支出も本年より租税の法を斯の如くして幾年の間に幾分を増加し地租は云々酒税は云々又其他資産歳入税の如きも大凡そ斯の如くなる可しと唯廟堂の胸算に存するのみならず其大凡の方向を國民に明示し結局今の政府の組織にては日本國の外交を維持するに足らず之を維持するが爲に私財を出すは人民の義務にして之を國庫に收めて國の爲に支出するは政府の職分なれば十年の計は斯の如くし二十年の計は云々して今後假令ひ政府に何等の變遷改革あるも此大計の方向は易變す可らざるものなりと政府より大令を發する歟又は至極事を鄭重にすれば敕諭を下だし給ふも過當の事には非ざるべしと信ず抑も政府の當局者に於て其壽命を短きものと思ひ其在職の間に施行して在職の間に見る可き成跡を目的とすることなれば唯目下の障碍物を除去して目下の同志者を集合し以て目下の功名を成すこと亦難きに非ず例へば爰に官途に更迭あれば新令尹が舊令尹の失を枚擧し之を改革し之を變易し之を廢し之を興す其間には權勢の歸する所、同志者も亦蝟集して其新政畧を賞譽贊成せざるはなし一時の外見甚だ美にして或は一時の俗眼に映ずれば功名の如くなれども其美や百年の美に非ず前節の比喩を以て云へば太政官の建築には非ずして唯一官省の普請を半年に成就し新築美なりとて屬官輩の祝詞を聞くものに過ぎず固より今の當局者の心に於て屑しとせざる所ならん誠に心を靜にして己が一身を假に死後の地に置き地下に在て既徃の歴史を讀む者とせよ若しも今日斯る細功名に安んずるの心術にして果して細事に汲々したらば其歴史に何と記しある可きや明治何年の頃何々新令尹は何々舊令尹に代り其舊政略を變易して一時の小風波を起し朝野に得意なる者もあれば失意なる者もありしかども結局政治上の常態にして數年の後に其成跡を視察すれば新舊共に尋常一樣にして敢て歴史上の一節として見る可きものなし唯當時は不思議なる間違よりして官權民權の議論一時に喧しく全國の民心二に分れ三に離れて人民頻りに熱心すれば政府も亦これが爲に甚しく苦慮したるものゝ如し我々は今日より當時の事情を推究するに由なし何故に人民が斯の如く熱して政府が斯の如く苦慮したる歟これを知る可らずと雖ども要するに此時代は目下の小事情に忙はしくして永遠の大事を顧る者少なく人々皆小計略に頴敏にして大規模を語るに遑あらざりしものならん云々の文を見ることならん之を想像しても今の當局者の本心に非ざるを知る可し左れば今目下の細功名は政府の人の求る所に非ず盖し之を求めざれば別に大に求る所のものあるが爲ならん王政維新の大功名は當路者の身に屬したる功名なり天下誰れか之を爭ふものあらんや細功名を取らんとすれば人亦之を取らんとし、小計略を運らさんとすれば人亦之を運らす、細小に汲々して重大を失ふ我輩傍觀者に在ても尚且其不利を知る況や當局の人に於てをや決して爲ざる所ならん維新の大功を維持して其終を善くし更に天下の人物を容れて更に奮發し大膽の政略以て百年の大計を定め後世子孫の爲に由て進む可きの路を開くは我輩が今の政府に希望して必ず其然るを信ずる所のものなり

兵論終