「日本人布哇國移住」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「日本人布哇國移住」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

日本人布哇國移住

布哇國即ち「サンドウイチユ」嶋の使節「カペナ」氏は過日東京に來着し今尚ほ芝區三田小山の旅舘に在り其使命の趣は我輩詳細に知ることを得ずと雖ども道路の風説する所並に海外新聞紙の報ずる所に依れば同使節は「サンドウイチユ」諸嶋へ日本人を移住せしめ度き布哇國政府の希望を日本政府へ通じ大に協議する所あらんがために渡來したるなりと云へり「サンドウイチユ」諸嶋へ日本人民移住の事は從前より度々説のあることにして既に昨年布哇國王が我國に來られたる節も同國へ日本人民の移住を懇望せられたりとか傳聞する程の事なるゆえ今回同國使節が渡來に付ては特別なり序ながらなり此移住一條は必ず相談に上ることと信ずるなり

「サンドウイチユ」は日本より米國に至る大平洋の中央に在る一群嶋にて人の住居する嶋の數八あり土地の廣さは琉球諸嶋の四五倍もあれとも人口は琉球の半數位にて十万内外なりと云へり季候は熱帶に屬するを以て琉球に比すれば稍や暑く産物は砂糖、綿、珈琲等總て暖地に生育する品物なり十万内外の人口中國王始め過半は皆土人にて其他は歐洲人の移住したるものなり此「サンドウイチユ」諸嶋にて何故に他國人の移住を要するやと云ふに今を距る百年以前英國の船長「カピテン、クツク」が始めて此嶋を發見したる時は人口繁殖の樣なりしが此時よりして歐洲航海者の往來する塲所と爲り今より三十五年計り以前米國「カリホルニヤ」洲にて金坑を發見し大に世界の人を子來せしめたる頃より「サンドウイチユ」嶋は大平洋の中央に在て往來船舶の寄港に最も便なるを以て歐洲人の來住する者次第に增加し今は獨立の一王國として世に知らるるものと爲りたるが何故にや歐洲人と交通を始めたるより以來は土人の人口次第に減少し幾年の後には絶滅し盡して子遺なきに到るべき徵効あり其原因は何事なるべきや學者の久しく硏究する所なりと雖とも今日に到るまて未た明確なる説を得ることなし蓋し未開の野蠻人種が歐州文明の人種と交通雜居することあれば早晚斷滅に歸するは自然の約束にてもあるが如く各地同一樣ならざるはなし濠洲各地方の如き亦其一例なり英國人が此地方に殖民を始めしより以來は原住土人の人口次第に減少し其最も著しきは「ニウジーランド」「タスメニヤ」等の諸州にて現に「タスメニヤ」の如きは今日既に全嶋一人の土人を見ざるに至りたりと云へり世間普通の説に依れば野蠻人種が歐洲人と交通したるがために新に梅毒等の惡疾を輸入し火酒を飮用する惡習慣を得る等よりして大き其健康を害し之を防禦するの法を知らず遂に生者死者の數〓償はず以て其人種を漸減するに到るなりと此説果して正確なるや否固より斷言すること能はずと雖ども兎に角に歐洲人と交通雜居を始めたる野蠻人種は必ず其人口を減少し終には子遺なきに至ること事實上に於て明白なり即ち布哇國の人口が次第に減少するも亦此例を脱すること能はざるものなるべし故に同國政府は人口減少の事實を目擊して大に之を憂苦し人口補欠の法を求ること久し先年は支那人の移住を奬勵するの企もありたれとも何故にや之を實行するに至らざりしは或は米國人の顰に倣ひ無下に支那人を嫌忌するに由るものならんか然るに近年に至り頻りに日本人を移住せしむるの論を贊成する者多くそれがため既に昨年同國王が渡來の折幷に今回同國使節が滯京中にも專ら移住一條の談判あるを聞く所以なるべし

我輩今布哇國政府の爲めに謀るに其原住土人の減少するを憂ひ人口補欠の法を求るに當りて之を日本に依賴して移住民を募らんとするは策の得たるものにあらずと信するなり布哇國政府は日本人民の性質を知らるるや或は聊か日本人を買過ぎたる意味はなきや至極殘念なる申條ながら我日本人民は殖民に必要なる進みて險を冐すの勇氣と難に堪ゆる辛抱とに乏しきことは十目の視十手の指す所にして蔽ふべからざる事實なり日本人民勇氣なきにあらず又辛抱なきにあらず其鄕に在り其國に在るの行爲を見れは大勇者もあり大辛抱家もありて世界万國の人に愧ぢざるが如しと雖ども其人の眼界狹隘にして一鄕一國の閾を越ること能はず勇氣も一國限りの勇氣なり辛抱も一鄕限りの辛抱なり其勇氣辛抱を擴めて一鄕一國外の事業に及ぼすことに至りては幾世の祖先以来曾て夢寐にだも想像したることなきなり下世話に所謂火燵瓣慶とは日本人民の如きを稱するなるべし如何に布哇國政府なればとて火燵辨慶には用なかるべきなり

布哇國政府或は云はん日本人民は決して無勇無辛抱の人にあらず險を冐して海外万里に航し十數年以前より今日に至るまで現に「サンドウイチユ」諸島に在て砂糖綿類の耕作に從事し或は馬丁役夫と爲りて勤勉し相當の衣食を爲し居る者既に百名に近し日本人民は最も移住に適當の人民なりと然れとも我輩の説は之に異なるなり當時布哇に在る日本人民は無産識の下等人民にして外國人の言ふが儘に誘ひ出され「遠き異國の島」に連れ行かれたる者共なれば正確の資格を具へたる眞成の移住人にあらず或は賣奴として連れ去りたるかの説もありして以て明治二三年の頃と覺ぼし我政府は上野景範三輪甫一の兩氏を布哇國に使ひせしめ彼等移住民をして賣奴たらしめざるの手當を盡したるにあらずや我輩は斯の如き人民を目して眞成の移住人と為す〓〓〓〓〓〓〓