「東洋の政略果して如何せん」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「東洋の政略果して如何せん」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

東洋の政略に付き我日本は果して退守消極の策に一決するときは、吾人は誠に安心にして焦眉の急を覺へず。

支那と朝鮮には唯一介の公使を派遣して、其交際上に、苟も日本の國旗を辱しむるに非ざれば、一切彼等の爲す

所に任して之を傍觀す可し。道理に於て當然の計なりと雖ども、凡そ世界古今の事跡を見るに、理に由て成るは

稀にして情に制しられて動くは多し。卽是れ人類の天賦とも云ふ可きものにして、吾人心亦是れ兩間に生々する

人類なれば、徹頭徹尾情に制しらるゝなきを保證す可きや、我輩に於ては萬其保證人たるを得ざるなり。三國の

交際に於て、朝鮮國を一個の少婦人に比喩して、日本と支那と二男子が共に其歡心を得んことを力めて、日本は

早く既に情を通したれども、今更往時を囘顧すれば唯一旦の熱に乘じたる擧動にして、結局我が得策に非ず、彼

れも一時の夢なり、此れも一時の夢なり、醒めて徐々に身の覺悟こそ大切なれとて、全く斷念悟道して滿腔洗ふ

が如くならんとせん。是に於て一方の支那男子は毫も自省の念なく、得々其慾を逞ふして飽くを知らず、臨機應

變只管其新に得たる歡情を固くせんが爲に、時として故さらに日本人を侮辱することも多からん。斯る事態に接

しても、我れは一旦斷念悟道したる者なり、本來無一物、唯日本國あるのみとて、情を動かすなきを得る歎。加

之支那と朝鮮と其交際親密なりと云ふと雖ども、二者對等にして親しきに非ず。一方より所屬と傲言すれば、一

方は臣と稱して事へんとするの情あり。加之其親密も永久の親密に非ずして、支那の政略、口蜜腹劍、一旦の機

に乘ずれば八道を擧げて本國の版圖に入れ、十八省に一を加へて新に高麗省を置くなきを期す可らず。高麗王室

の如き、既に其父を執へたり、何ぞ其子に憚る所あらんや。卽ち朝鮮の癈國置省なり。斯る大變動に當て東洋の

形勢如何を臆測すれば、大清の西北露國との關係は、其葛藤を引て東邊の高麗省に及ぼし、露廷の政略、西北の

所損を東に價はんとて、露艦忽然として元山津に出現するなきを期す可らず。露入將さに韓鼎に指を染めんとす、

歐洲他の諸強國にして默止傍觀する者あらんや。斯の如きは則ち朝鮮の不幸は無論、支那人も亦辛苦却て禍を買

ふたるものにして、東洋全面亂れて麻の如しと云ふ可し。此大變動に際しても獨り我日本人は泰然動かず、默々

死するが如くして尚沈思せん歟、我輩これを世界既往の史に徴するも、今の日本人の氣象を察するも、萬々能く

す可らざることと信ず。數年前は我れより促がして支那の條約を結び、又招かざるに朝鮮國に往て其睡眠を驚か

したる者が、今は却て夫子自から眠を貪らんとするが如き、普通の人情に能くす可らざる所にして、我輩が斷じ

て其保證人たるを得ざる由緣なり。然ば則ち今日の方向は前に掲げたる第二法に出で、進て取て素志を達するの

外なきに非ずや。東洋の政略進取に決するは今日の至要と云ふ可し。蓋し其素志とは何ぞや。我日本國が東洋に

在て文明の魁を爲し、隣國の固陋なる者は之を誘引するに道を以てし、狐疑する者は之に交るに直を以てし、文

を先にして之に次ぐに武を以てし、結局我が政略と我が武力とに由て、東洋の波濤を其未だ起らざるに鎭靜する

の一法あるのみ。抑も外交の政略に就ては、我國人の知見も漸く發達して次第に變通に慣れ、廟堂に當局者あり、

民間に人物乏しからず、決して十年前の日本に非ずと雖ども、結局、文に屬する政略にして獨り其働を逞ふする

こと甚だ易からず、必ずや武力の之に伴ふ者あるに非れば政略の目的を達するに足らずとのことは、朝野一般の

明知する所ならん。然るに我兵備は十年來大に其面目を改めたるを見ず。元來兵備の改進も人の智識に由り兵學

術の進歩と共に上達するものとは雖ども、學術進歩するも、之を實施するの方便を得ざれば机上の空談たるに過

ぎず。兵學士、卒業するも、兵卒糧仗を得ざれば其技倆を施すに由なし。航海の學、上進するも、軍艦を得ざれ

ば實用を爲さず。我海陸軍も其組織は次第に整頓して、文明各國の軍制に對して恥る所なしと雖ども、其組織の

規模小にして、大に之を用ゆ可らず。之を要するに、今の海陸軍には軍學の人に乏しからず、又次第に其人を鑄

冶すること難からずと雖ども、其人に授けて使用せしむ可き實物に乏しきものと云ふ可し。卽ち陸軍に兵卒糧仗

少なく、海軍に軍艦少なきものなり。十數年前我輩の心配に、兵器軍艦の如きは錢を投じて之を得べし、軍器あ

るも軍人なければ其用を爲さずとて、頻りに兵學士の得難きを憂たるものが、今は却て之に反し、軍人乏しから

ずして軍器に乏し。時勢の變遷、改進の迅速なる、獨り自から驚くのみ。然りと雖ども、兵器軍艦、錢を投じて

之を得べしとは、正に今日に在て通用す可き言にして、我輩は今より錢を投じて武備を擴張せんと欲するものな

り。況や錢を以て買ふ可らざる軍人は既に之を得て、今後又これを鑄冶するの路を開たるに於てをや。唯この上

は有形の錢を投じて有形の軍器を作るの一事のみ。其事容易ならずと云ふも、人を作ると器を作ると、難易同日

に語る可らず。我日本の武備に於ては既に其難きを成したるものなれば、兼て又其易きを勤めざる可らざるなり。

〔十二月八日〕