「漢學に熱心して汝の生涯を誤る勿れ」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「漢學に熱心して汝の生涯を誤る勿れ」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

漢學に熱心して汝の生涯を誤る勿れ

社會の風潮は活動變化窮りなく迅雷風烈も啻ならざるなりと雖とも近日の風潮の如きは殊に我輩の思案に能はざるものあり文明の却步せんとするが如き風潮ある是なり神代は邈乎として知る所にあらず上古より近世に至るまで我日本の文學技藝は朝鮮及び支那より輸入し來りたるもの甚だ多く一槪に論すれば我前代の文明は十中の七八朝鮮及び支那の賜なりと云ふも不可なかるべし然るに近世に至り西洋人と交際して漸く西洋の事情を關知し東西文明の異同を察して大に發悟する所あらんとする折柄西洋人が蒸氣船の發明を以て忽ち東西徃復の旅程を縮小にし年に月に益々西洋の事情を明かにして益々仰望の情に堪えず嘉永六年米國の使節「ペルリ」提督數隻の軍艦を引卒して江戸灣に進入し一旦力を以て鎖國の禁を解くに及びて俄然社會の面目を一變し前代の文明此時を以て終を告げ當代の文明之に代りて新たに起り〓然日本新古文明の經界を明かにしたり

日本の文明は嘉永六年を以て紀元を改め爾來三十年其進步の迅速なる世界古今其比類を見ず文明の進行は洪水の如し沛然として至るに之を能く防くものなし社會百般の人事士農工商公私を論せず一も其舊樣を改めざるものなく遂に明治今日の日本を現出するに至りたり今よりして又三十年の後までには更に何樣の進步變化を成すべきや知る可らず必ずや當時より顧みて明治の今日を見ること猶ほ今日より嘉永年間を見るに等しきの感想あるなるべし文明の大勢既に斯の如し然るに近日社會の風潮を察するに嘉永紀元以前に遡り前代文明の再興を謀る者あるが如く朝野の問に古學主義云々の談を聞くこと屢ばなり古學主義とは果して何等の主義を稱するものにや我輩未だ其詳細を聞かずと雖とも此等の議論の由て生じたる原因を察するに嘉永六年日本文明の紀元を新たにしたる以來は社會の風潮舊を棄て新を喜ぶこと甚だしく此間又多少の弊害なきこと能はず人事の一部分たる道德の如きも新舊兩文明の鏡面に照らせば彼此の標準其名稱に小差異なきを得ず隨て後進の誤解を招き社會の秩序に影響する所なきにしもあらじとの掛念に依て聊か前記文明の遺物たる古學論を再起せしめて修身上他の極点に突飛の憂なからしめんとする敎育熱心家の老婆心なるべし果して斯る婆心に出てたらんには其意甚だ嘉みすべしと雖とも顧みて世に影響する所の實跡を見るに大に婆心の期する所に異なるものあり看るべし全國到る處古學再興なりと唱へ村夫子先生が開塾の披露を爲して數年束閣の經史を塵垢の中に搜めて素讀を始め治國平天下の道を講せんとする者あるは家業に敏なる者として之を寬恕すべきも有志者或は地方公共の創設維持に係はる中學等に於て俄かに古籍の講讀を始め從來の洋學敎師は無用なればとて之を謝絶し新たに漢儒先生を聘用して敎頭の任に當らしむる等東西南北到る處として皆然らざるはなし實に不思議千万なる風潮と云ふべきなり

人は忠恕ならざる可らず長上を敬せざる可らずとは孔孟の敎に於ても西洋脩身學の理論に於ても共に明言する所にして毫も彼此の異同なし今人間と生れて忠恕にして長上を敬する者あらば其人の信ずる所は孔孟の敎なるも西洋の脩身學なるも其邊は更に我輩の關する所にあらず唯忠恕孫弟なりと云て足るべきのみ故に孔孟の敎を以て一身の私を脩め人間處世の義務を誤ることなくば儒書を讀て道を學ぶも隨分大切なることなるべしと雖とも此主義を以て治國平天下万國交際の大用に供せんとするは我輩其愚蒙を憫まざるを得ず儒學果して此大用に適すとせば何そ嘉永以來の新文明を用ひん數千百年來の舊文學を維持して國富み兵强く天下安泰なるべきに今や則ち然らざるは何ぞや儒學用るに足らざればなり然るに此明白なる事實にも拘はらず世の有志先覺者或は子弟の父兄等が自家銘々に前期文明の遺物たる緣故を以て妄りに時勢の復舊を希ひ自家同樣に儒學を以て子弟を敎育するの利を信じて其生涯を賊ふことを知らざる者あるは實に歎息に堪えたることと云ふべし我輩は今此半舊半新の父兄に對して論ずることを止め直ちに子弟其人に向て存意の如何を叩くべし子弟諸君は慶應年間或は其前後を以て此世に生れ今正に身を脩學の一事に委ぬるの時期に際したる人々なるべし諸君は此脩學を終りたる後何等の事を爲して世に立たんとするか自家の才藝に依賴し獨力以て身を起さんとする者にあらざれば必ず父祖の遺業を繼て出藍の榮を得んと望む者なるべし人生の事業は士農工商千樣万種にして各其專門の學習を要するなれば諸君が中學三五年の脩業に於て後來の目的を助くべき事何程をも學び得ざるは勿論なりと雖とも此數年間の脩業亦頗る緊要なるものにして一步千里を錯るの時期と云を可なり決して油斷す可らざるなり諸君は農たらんと欲するか開墾樹藝牧畜養蠶其收穫を市塲に販賣するに至るまて專門の學科を脩め兼て世界の事情に通ぜざる可らず否らざれば水呑百姓のみ漢學儒道何の益する所あるや諸君は又商たらんと欲するか今の日本は嘉永以前の日本にあらず金銀米穀を始め市塲一切物價の昻低は日本限りの相塲にあらずして世界の相塲なり銀行なり諸會社なり皆其法を西洋に取り西洋諸國と徃來取引すること日に益々密接なり是亦專門の學科を脩め廣く世界を知るの要用なること農に異ならず否らざれば捧手振り商人のみ漢學儒道何の益する所あるや諸君は又工たらんと欲するか造船造家鉄道鑛山を始め工藝一切西洋の學にあらずんば知ること能はず否らざれば又穴掘り大工と〓ふことなし漢學儒道何の益する所あるや諸君は又海陸軍の武官たらんとするか内治外交の文官たらんとするか法律家たらんとするか醫者たらんとするか若しくは我輩の如き新聞記者たらんとするか是亦西洋學の要用なる〓〓〓〓農工商に勝る所あるも劣る所なし彼の漢學儒道何の益する所あるや殊に諸君に一言すべきは我國の銕道〓く延長し北海道より九州に至るまで縱橫に蛛絹〓〓〓二十四時間を費して全國中到り得ざるの土地なき時節あるは今より一二十年の内なるべし此時に至れば西洋〓國〓も内地に雜居し日本人も外國に轉住し彼我徃來の頻繁密接なる今日の幾十百倍なるべきや知る可らず〓て西洋學の大切有用なること亦今日の幾十百倍なるべし子弟諸君は〓〓〓邊の道理を勘瓣せられ漢字は讀むも漢學はなさず嘉永以後第二世の日本人民たる義務を忘却すること勿れ是我輩の老婆心なり