「文明の道草」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「文明の道草」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

袖浦外史

凡そ人旅行をなすに或は疾歩し或は休息せんよりは寧ろ同一の速力を以て唯成るべく足を止めざる樣に注意せば却て捗取のよきものなり常には一生懸命に急ぎながら或は茶店に憩ふて數時間も空談をなし或は横道に入て道草をなすが如きことあれば折角の旅程も爲に大に捗取らざることあるべし去れば郵便飛脚の如きは道を歩むに决して強ち足を速めず唯間斷なく足を運ぶに注意すと云ふ航海の如きも亦同樣にして譬へば横濱を發錨して上海に向ふに航海中は充分の速力を以て疾走しながら神戸長崎等の諸港に碇泊して空しく時日を經るときは第一經濟上に於て石炭食料等の損失あるのみならず航海の全途に於て大に到着の日限を遲延せしむることあるべし所謂航海の道草なるものにして業を水上に營むものの注意すべきことなり今夫れ一國の文明に向ふは猶ほ旅行をなし航海をなすが如し一時駟馬尚ほ及ばざるの速力を以て專ら改進の風に向ひながら忽ち轉じて横道に入り道草をなすが如きことあれば縱ひ駸駸たる文化の大勢に敵すべからざるも幾分か其進度を遲緩せしむることあるべし國家の爲に不利と云はざるを得んや而して我輩は頃日我國に於て大に此邊に類するの氣色あるを見て甚だ殘念に堪へざるものなり

我國の外交以來今日まで成り行きたる其道筋を物語れば事甚だ長しと雖とも姑く之を他日に讓り茲に一言せざる可らざるは我國現今の地位是なり盖今日の日本は日本國中の日本に非ずして世界萬國中の日本なり封建時代攘夷鎭港の實を行て孤立獨歩の有樣を固守するの昔日に在ては我日本は今だ世間の附合ひもなく甚だ氣樂にして唯國内さへ靜謐なれば天下太平なりと唱へ萬民鼓腹して相祝したることなれとも今日は最早萬國互通の折柄世界中の諸國に對して國の体面を維持するの必要たる時に際したれば我國も悠悠閑閑枕を高して安眠すべきにあらず文明の利器たるべき者は悉皆之を利用して殘す所なく法律も文學も工業も農商業も漸く西洋諸國に傚て之を改良し文明の競塲一歩も後れを他國に取らざらんことを期せざるべからず否な苟も他文明國の文明に近寄らんことを勉めざるべからず就ては我國民一般先づ洋學を研究すること最も肝要にして實は今日こそ隨分世の表面に立て事を執るの人物にして徃徃倒さまに洋書を繙き其書物を持扱ふことさへ知らずして事濟むべしと雖とも今後日一日より外交上の事務雜駁を極め海外に係る事件の頻繁なるに及では實に洋學を知らざれは人にして一人前の人にあらず所謂日本國内にのみ通用すべくして万國互通の世界に無用視せらるるに至るや必せり何には扨置き洋學を脩むること我國上下一般の急務と云はざるを得ざるなり此油斷す可らざる時勢に際し近頃我輩の耳朶に觸て一驚を喫せしめたるは他にあらず彼の一旦廢して無用視したる支那古學の道を再び今日の日本に挽回して專ら子弟教育の材料に充てんとの一事にして或は某縣にては僅に僻村に其餘生を繼ぎ居たる村夫子を聘して更に學校校長となしたりと云ひ或は某地方にては老儒某を教頭に招て已に大學中庸の講義を始めたりと云ふが如きは各地新聞紙の報道する所なり世上の論者此噂を聞き殊の外其意に介して大に之を論破せんことを熱心するが如くなれとも我輩の考にては左まで辛苦して辨論を費やす迄の事にも非さる可しと信す盖今日の世界に於て古學を挽回し之を以て經世の大本となすが如きは其愚恰かも砲銃の戰爭に於て弓矢を弄せんとするに異ならず其時勢に適せざるや實に申す迄もなきことにして論者の憤も至極尤もなれとも我輩は之を意に介するを以て却て愚なりと思ふものなり何となれば前にも言ふが如く今日は是れ實に外交の世の中にして何事も万國の交際に影響を及ぼすの折柄なれば縱ひ一時偶然の出來心より古學を挽回するこそ今日の急務にして世の障碍物を除く此道に如くはなしと思ひ誤まることあるも天下の大勢决して長く此陋見を許すべきにあらず偶然に發するものは又偶然に消ゆるは事物の定理なれば古學挽回の噂も久しからずして其跡を収むるに至る可きや又疑を容れず若又達て今日古學の世界と變せしめんとなれば先つ差當り外國の交際も斷り銕道電信も皆之を破壞し軍艦兵備も之を擴張するに及ばざるべし此等の諸件も悉皆古に復して再ひ我日本を嘉永以前の日本となさざるべからず斯くありてこそ支那古學の挽回も至極相應なれとも夫子自から洋服を着し洋帽を戴き卷烟草を吹き一切万事西洋風を眞似ながら獨り教育の一點のみ古風に引戻さんとするは自家撞着の甚しきものにして目下の時勢に不似合なりと云はざるを得ず左れば論者敢て故らに之に向て攻撃を試みざるも日ならずして自分自身に自滅することあるべし是我輩が此事に就ては敢て意に介するに足らす唯心窃かに憐笑に堪へずと云ふ所以なり然れとも茲に聊か殘念なるは之が爲め文明の道草をなし幾分か我國の進歩を遲鈍ならしむるの一事なり盖外交以來我國文化の發達向ふ所敵なく充分の速力を以て進歩したることなれば如何に古學の挽回に從事するものあるも决して爲に妨害せらるるの恐なしと雖とも之が爲め幾分か世人の注意を惹くときは彼旅行の道草、航海の碇泊に均しく開進の全途に於て其速力を遲緩ならしめ國家の不利之より大なるものなければなり開進の猛火正に盛なるの今日に於て古學一滴の水は以て之を消滅する能はずと雖とも幾分か其火勢を■(にすい+「咸」)殺するの功ありとせば我輩爲に大に憂慮に堪へざるものあり嗚呼我國前途尚甚だ遼遠なり此時に際して此擧を見る悲憤の情、默止するに忍ひざるものあり依て本論を草す世人果して如何の感想を起すや