「自由言論の區域を論す」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「自由言論の區域を論す」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

山中 道正

腦髓に是非善惡を判斷するの自由あれは之を言論に發する亦自由ならさるへからす然れとも腦髓に是非善惡を判斷せし間は人の内部に包まれて他人に利害を及ほさずと雖とも既に之を言論に發するときは或は他人を利し又は之を害するの事なき能はず此塲合に於ては社會共存の理に基て〓も其言論の法律に觸れ又は一國の平安を傷ひ風俗を紊り又は他の一私人の榮譽權利を害するを許さす之を是れ自由言論の陋城なりとす故に自由言論の陋城は甚た鮮明にして滅ふところなきか如しと雖とも尚ほ茲に一言せさるへからさるものあり

夫れ人の言論は他に利害を及ささるもの殆んと稀れなり譬へは茲に酒の有害を説くものあり必すや多少酒造家の益ならざるべし又煙草の無用を論するものあり必すや多少煙草商に不利あらん其他醤油に酢に味噌に蒟蒻に豆腐に野菜に鳥獸に魚介に器物に藥品に藝術に工事に宗教に苟も其是非を論するあれば又隨て其業を營むものに多少利害の影響を及ぼすべきものなり然るを若し之を以て他を害するなり人を損するなりと云ふときは到底自由言論なるものは社會の事物を稱譽するに止て其非を擧ること能はさるへし何となれは則ち社會の事物一として人の職業に關係を有せざるものこれなければなり果して然るときは國家の進歩何に據て能く之を謀るを得べきや

抑も國家は事物の害を除くと利を起すとの二者相待て之を進歩せしむるものなり而して其害を除き利を起すの事多くは言論の媒介に依るものなりとす盖し人人の腦裏一たひ是非利害の感覺を起すや之を言論に發して世人に傳へ世人は又之を受け同しく言論の作用に依て某果して利たり害たるを研磨するを得べければなり故に其言論は必ずしも確實なるを要せず又必すしも其當時に實行せらるるを要せず唯之を論し之を説くの間自ら確實なるもの生し又當時若くは將來に實行せらるべきもの出つるなり故に言論なるものは其當時の人能く之を確實なりと見ると否とに關せず人世萬般事物改良の媒酌なりと云ふべし然るに之をして單に事物の稱譽のみを爲すに止らしめ毫も其非を擧るを得ざらしむるときは國家進歩の一原案たる害を除くのこと得て行ふべからざるなり果して然るときは國家の幸福何に據て之を得らるべきや又言論の自由は何處にありや

斯く論するときは苟も耳目あるの人は必ず言論の自由は單に人に害を及すべからすとの一言を以て之を限制する能はざるべきを想起するならん既に然らば言論の自由は何れの處に迄進入すへきや余は此疑問に答ふるに左の一言を以てせんと欲するなり曰く言論は他の一私人(一私人と見るへき社會等の如きも之に含入す)の私行私事に闖入するを許さず然れとも人を指名せざる事物は苟も法律に觸れざる限りは自由に之を論議するを得と

夫れ人人は皆な同等なる活物にして共に生を此國土に寄すものなるに付互に他の同等人を傷け又は之を制するの權あらざれば他人の私行私事を論議する能はざること論を俟たず然れとも一國の如きに〓ては人人の共有する一國物にして一國の利は以て巳れが利を爲し一國の害は以て巳れが害を爲すものなれば其共有せる一國の利害は人人素より之を計畫論議するの權あり又之を計畫論議するの義務あるなり而して彼の權と云ひ煙草と云ひ醤油に酢に味噌に蒟蒻に豆腐に野菜に鳥獸に魚介に器物に藥品に藝術に工事に宗教に之を細別するときは各各其業を營むの人これあるべしと雖とも一國より之を見るときは一國を利し或は之を害するの事物たるに過きず故に其一國を共有する人人が學術上若くは政事上に於て其事物の利害を論するは一國に於ける人人の權利を行ひ義務を盡すものにて此塲合に於ては一私人の利たり害たるを問はざるなり又之を問ふを要せざるなり何となれば則ち前にも云ふが如く一國の共有主たるものか共有上の利害を計議するは素より當然の權利なるのみならず他の一私人に於て縱令其論議か巳れの職業に不利なるも巳れ一個の不利を以て一國の利益を妨くるの權あらざれば其論議は果して一國の利となるべきや否やを謹て充分に論究せしめざるべからざるの義務あるものなればなり故に如何なる人の營業に係る事物たるを問はず一般の利害上より其營業人を指名せすして其事物を論議するは言論の最も自由なるところなれば若し其言論を制し又は之を改めしめんと欲せば巳れも亦其言論は一國に不利なりとの事を擧て之を論するの外なきなり果して如斯なるときは與論出てて其可否を判决すへし故に又言論の裁判官は與論の外に之を求むべからざるなり

然るに輓近我國には毀損と稱し回復と唱ふるの詞訴四方に起り或は學者が藥品の効否を論したるを捕へて商賣の手疵を回復せんことを求るあり或は演説士か味噌の利害を説きたるを執て其名譽を回復せんと求るあり何ぞ夫れ法衙の多忙なる又何ぞ其請求の霧暗なるや凡そ一國の人人は學術若くは政事の上に於て一國の事物を論議するの權義あるものにして一私人に利害ありとて之を制し之を改めしむるを得ざること前既に論するが如く理の賭易きものなり且つ又彼の藥品や味噌の効否利害を論したるが如き塲合に於ては藥屋味噌屋の總体が法律上の被害者となるを得べからざるなり

抑も法律上被害者となるべきは權利を有するものに限ることにて權利なきものは被害者となるを得べからす彼の禽獸蟲魚が法律上の被害者たるを得ざるも此理に基くなり而て其權利を有するものとは對人權若くは物上權等を行ひ得るものを指すことにて即ち生活せる人物若くは會社等の如き是れなり彼の藥屋味噌屋の如きに〓ては箇箇別立するの人互に此業を營むにて各人別別の權はあれとも團結以て無形の人となりて權利を行ふを得ざるものなれば元とより總體に付ての權利あらざるなり既に總體に權利を有せざるものならば何に據て其總體に被害の受くへきところあるや既に總體に対するの言論が總體に向て被害なけれは其内の一私人も亦被害者たるを得べからず何となれば其主たる總體に害なきもの其從たる一私人に於て獨り被害者たる所以なければなり若しも一人に對して害を加ふるものあれば始て法律上に於て被害者たるの權あるべし豈に藥若くば味噌の全般に對する言論を以て藥屋味噌屋が集合若くは別立して被害者たるの權を行ふを得べけんや

斯く論するときは人或は疑はん藥屋味噌屋の總体に權利なしとせば我我の集合せる一國にも亦權利なく被害なきやと是れ决して然らざるなり一國に至ては一國自衛等の權ありて其權や既に法律に顯はる故に苟も一國の治平を害し風俗を紊るものあれば之を制し之を改めしむるを得るは論を俟たず是既に人人の熟知するところなるべし是を以て人人が言論の上に於て制縛せらるるところは唯一私人に對する榮譽權利と國家の法律を害するの塲合のみにして其他は如何なることを論議するも自由言論の區域内に存するところなれば何人と雖も之を制し之を改めしむるの權あらざるなり