「讀士族就産論」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「讀士族就産論」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

讀士族就産論

松野小蔭 投寄

時事新報第産百五十一號に士族授産宜しく其精神を養ふ可しと題し士族の就産は力役自活

の業に服するも其身自ら賤業に堕落したるの思を爲さしめざるの要を論し肉体の苦を與ふ

る中に精神の快樂を享けしむ可き旨を説かれたり我輩之を三復して感歎に堪えず記者先生

も机に對して稿を起すに涙落て紙を濕すを知らずと云はれたるが我輩も之を讀んて涕涙の

睫に溢るゝを覺えざりし嗚呼士族の芯事を察する太た親切なるにあらざれば安ぞ能く此の

如く懇到なるを得可けんや從來士族就産の法を談する者甚だ多しと雖ども皆此要訣を知ら

ず徒らに舊弊を破碎して士族の精神を苦めたるもの甚だ少なからざるが如し例へば廢藩の

時に方を一朝士族の等級を廢し家老足輕相混同し農工商及び新平民とも交際禮遇を平等に

する等勉て舊慣を破りたるは畢竟士族の氣象を挫折するの趣意に非ず唯其門閥の流弊を矯

めんとしたるものならんと雖ども一弊除去して第二弊を生し其家に固有の門閥を棄るに兼

て又其身に固有の行状をも併せて之を棄るに及びたり然りと雖ども不行状は以て生計を求

るの方便とするに足らざるのみならず却て益困窮に陷り家計窮して身分賤し其氣常に餒へ

て力食自活の勉強心も奮起せざりし有樣なりし右は一時已むを得ざるの必要に出たるもの

なりと雖ども今日より之を見れば寧ろ徒勞に属したりと謂はざる可らざるなり偖今日に及

ては世態全く一變し士族も最早舊習を墨守して漫に威權を弄せんとする者の如きは絶て有

らざる可ければ仮令ひ固有の風を存することを勉むるも毫も弊害を見ざるべし然れば則ち

記者の説く所啻に授産の要を得るのみならず又其發言の時を得たるものと謂ふ可きなり

記者又云く士族に生計の道を授けんとするには之に苦役を與るは可なりと雖ども其苦役を

裝ふに社會上流の体面を以てするは極めて緊要の事なりと信ず其法他にあらず服役中にも

士族固有の風を存して言語應對の趣を改めざることなり、舊藩時代の禮儀廉恥を壞らざる

ことなり、家に在ては夫婦親子相互の稱呼を舊の如く守つことなり、祖先の忌日祭るに錢

なきも其日を忘れざることなり、子弟の敎育意の如くならざるも學ぶ可きの道理を説くこ

となり云々と以上の數項皆多少士族の精神を樂ましむるに足りて生産勉強の助とも爲る可

き疑を容れずと雖ども我輩は實際に今一歩を進めて或は士族に帶刀を許すこと昔の郷士の

如くしては如何とまでに思考したれども今日の時勢に於ては其所置頗る穩かならず又其餘

弊も少からざる可ければ別に之に代るべき事物を考へざる可らず依て我輩は刀劍に代るに

銃砲を以てするの便宜を發見したり即ち多く士族を兵士に募ること是れなり今や全國兵の

制度にして士農工商均しく兵役を帶るは勿論四民共に毫も寛假することなく之を徴募すべ

しと雖ども士官學校の如きは可成的士族より徴募することに注意したらば目下海陸軍擴張

の時に方り兵員を增加するに從て士官の數も亦多きを要するが故に之を私にしては無産の

士族をして職業に就くの便を得せしめ之を公にしては護國の機關をして鞏固活溌ならしむ

べきなり但今日の如く士官學校をして東京の一箇所に限るときは舊藩士中徃々入學の志あ

るも幼年の子弟を東京に放置するの不便利もあれば向來舊大藩の地又は六鎭臺の下に於て

各一校を設置し士族人校の便を計るときは其士族より多く出るは自然の數なる可し然れど

も士官の數は大抵限りありて士族の數は頗る多きことなれば此一事を以て士族の所を得せ

しむるに足らざるものあらん依て更に海軍兵を士族より募ることなすときは其區域も亦た

甚た廣く多數の需に應するを得可し葢海軍募兵の法は徴兵令と殊なるにより必らず華士族

平民均一の法に依らざるも差支なきことなれば士族より徴募するこそ便宜ならんのみ是れ

獨り我輩の私言に非ず外國人も亦甞て此説あるを聞く

海軍省兵學校御雇敎師英國人某氏甞て説をなして云く日本には勇氣才學に富たる士族の有

るあるに何ぞ海軍の士官生徒又は水兵を募るに華士族平民を論せざること爲すや余を以て

之を見れば徴募は宜しく士族に圖る可しとを頻りに其説を主張したりと云ふ今私に案する

に華士族平民を論せざる云々のことは其主意公平にして而かも舊時の等級を排斥し弊習を

一洗せんが爲めに故らに此文官を掲けたるの意味もあらんと雖ども外國人の眼中素より一

の等級を見す悉皆平等なれば就中有爲有用の種類を撰ぶの考案は適當のことにして所謂る

傍觀八着とも云ふ可きが凡そ士族平民を論せず兵事に要用なる學科を授くるに三年乃至五

年に於て其學に通し其技に熟するは大抵同樣なりとするも實地戰爭に必用なる勇武の氣象

に至ては今日の士族なれば〓に平民の上に在ることならん葢し士族の子弟は父母の膝下に

在て武家の敎育を受け物に觸れ事に臨んて心膽を錬磨し未た兵學校に入らざる前早く既に

小兵士の姿をなしたる者なればなり依て謂ふの向來海陸軍の士官生徒及ひ水兵を多く士族

より募ることに注意すれは授産の一法にして精神を樂ましむるに足るのみならす又護國の

機關をして一層鞏固活溌ならしむ可しと記者先生以て如何となす