「日本の資本を朝鮮に移用するも危險ある事なし」

last updated: 2021-12-25

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時事新報に掲載された「日本の資本を朝鮮に移用するも危險ある事なし」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

我輩が昨日の社説に於て、目下朝鮮政略に於ては我日本の資本を彼國に移用して文明の工業を起さしむるの便

利を論じ、其事は正に彼我の事情に適するものなりと述べたり。抑も今の朝鮮國に外國の資本を要する由緣は、

數百年間該國の政治は同一の軌道を外れたることなく、其治風は君主專橫、貴族以下素餐の慣行にして、其文は

則ち儒敎一方に偏し、政府に重んずる所のものは禮儀名分より外ならず。故に斯民を休養するの外面を裝ふて、

其實は貴族官吏をして収斂を逞うせしめ、人民既に餘力なきにも拘はらず、朝廷の儀式、先王の祭祀等には、非

常の冗費を厭はずして、民力のあらん限りは唯虛禮文飾に奉じ、護國の武備尚且名を存するのみにして其實を見

ず。況や其他の工業、内地改良等の事に於てをや。固より之を顧るに遑ある可らず。之を概するに朝鮮の政府は

支那古流の虛文に國力を用ひ盡して餘す所のものなしと云て可なり。國庫既に餘有なし、新に一事を企て一物を

作らんとするも、其能くす可らざるは數に於て明なり。左れば今この事情に當て、苟も彼國の有志者輩が、事業

を内國に起して衆庶の耳目を一新せんとするには、外國の資本を用るの外に手段ある可らず。故に朝鮮の爲に謀

るに外資を用るは其事情に適するのみならず、事の急に迫られて之を用ひざるを得ざるものなり。

人或は云く、外國の資本を用る、朝鮮國の爲には便ならんと雖ども、其彼れに便なるは我れに不便なるものに

して、今の彼國政府の貧なる、既に其歳出入も相償はざる其困難に際して、尚これに外債を負ふたらば、萬、償

却の路ある可らず、卽ち我日本の國財を隣國の溝瀆に投棄するものなりとの説もあらんと雖ども、此説は畢竟朝

鮮の政府を見て其國の全面を視察せざるの考なり。八道人口の數、其貧富の程度、固より詳に知る可らずと雖ど

も、彼國の事情に梢や明なりと稱する日本士人の言を聞き、又朝鮮人の記に據りて、夫れ是れを參考するに、目

下該政府の歳入は日本の金にして凡そ二百五十萬圓より三百萬圓なり。然るに實際國民の手を離れて政府の筋に

入るものは、米一品にても百五、六十萬石の高はある可き割合にして、此石代を五圓とするも、七、八百萬圓に下

らず。之に布帛、麻、其他現品税を加ふれば、是亦相應の高ある可き筈なるに、實際政府に入るものゝ少なきは

財政の不取締にして、其不取締のまゝに數百年を經過し、遂に改む可らざるの慣行を成して然るものならんなれ

ども、兎に角に其國の資力は無下に小弱なるものに非ざるや明なり。又人口の一方より算を立て、其全數を我人

口の三分の一とし、( 實際は日本の半よりも多がる可しとの説あれども、今假に最少數三分の一と記す。)其人

の働を算するに、朝鮮人三名の活潑力を以て日本人一名に當るとするときは、( 人口の數は三分一より多かる可

しと雖ども、活潑力は三分一よりも劣るならんと云ふ説多し。)朝鮮國全體の働は日本國全體の働に比し、數に於

て三分の一なる其一を、力に於て又三分一に計りて、終に九分一と爲る可し。故に朝鮮國は正に我日本國の九分

一とするも、其九分一の資力に依賴して國税を収るときは、我國税の九分一卽ち七、八百萬圓の金額を徴収するに

は容易なる可し。歳入既に七、八百萬圓あり、然ば則ち其國債も亦我國債の九分一には堪るものとして、三、四千

萬圓を負ふも至重なる負擔とするに足らざるなり。

右の計算、果して大に違ふことなくんば、今日我日本より我資本を彼國に移用するの策を決するも、會計の數

に於ては毫も危險を恐るゝに足らず。或は目下我國内に金策の不自由なるあらば、之を他國に借りて轉用するも

可なり。唯不安心なるは朝鮮國の方に於て、其政府積年の慣行と貴族士族官吏輩が逸居素餐の惡弊と人民全般の

無氣無力とに由て、新に事を企て大改革を實施するの風潮に及ばざるの一事なれども、既に我國の政府若しくは

人民より、彼政府に資本を貸し又は彼内地に事業を起さんとするの實際に當るときは、抵當をも取り約條をも結

び、其約條に從て自から彼内部の改革を促すの機會を生ず可きや疑を容れず。彼の爲を謀れば恰も外債を利用し

て内の改革を施行するものなれば、一擧兩全の得策なりと云はざるを得ず。但し強大國人が弱小國に資本を移用

し、其金力の勢に乗じて様々の辭柄を作り、或は之を政策に利用し或は時として軍略に轉用し、自家一方の利を

是れ謀りて他の痛痒に心を關せず、遂には其政府を侮辱し其國民を奴隷硯するの實例なきに非ざれども、此一點

に至ては我輩は深く我政府と我國人の德義を信じて一毫の疑を抱かざるものなり。啻に德義のみに依賴して疑は

ざるに非ず、我政府に識見あり、我國人亦愚ならず、獨り自から利するの利は隣と共にするの利の大なるに若か

ざるを知る者なり、自利は利他と合併して始めて大利なりとの要訣を知る者なり。我輩は德義の域を去て唯利是

れ視るも、敢て我大日本國を疑はざる者なり。                      〔六月二日〕