「廣東の一揆」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「廣東の一揆」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

本日の電報欄内に掲げし如く支那人の一揆は其原因判然せざれども廣東の外國人居留地を攻撃して「シヤメイン」島の一半を侵掠し且つ之を焼拂ひたるとの事なれば其勢頗る煽なるものと見へたり尤外國人等は其河岸に碇泊したる船舶に逃け移り一名の死傷なかりし由なるも「シヤメイン」島は廣東市街の前面に在りて外人の居宅は勿論各國の領事館もあり廣東市街とは大橋に由りて相通じ多くは上等士人の居留する處となれり支那人の一揆既に此島の一半を焼拂ひたりとあれば或は領事館抔に延焼したるやも知るべからず尤も此邊には常に一二の〓船を碇泊し香港、廣東、マコー會社等の船舶更る更るに投錨するが故に居留外人も無難に逃け移ることを得たるならんと雖ども一人の死傷もなしとは何外〓し〓〓ことなれば右の電報を發する前に未だ其評〓〓〓〓に之を〓〓〓〓〓たるものならん

右は昨日〓〓メー〓〓〓〓〓〓〓〓〓大〓〓〓〓一〓〓時事新報の外国電〓欄内には

九月六日龍動發 一万五千の支那兵東京の疆界を踰へたりとの報あり○佛國政府は強大の援兵を東京へ送遣するに決定したり○清佛間の破裂切迫の勢あるを以て英國にては到る處皆其事を論し頗る憂慮の氣色あり○龍動新聞は、英國は清佛の間を調停せざる可らずと論したり

とあり左れば此一揆とは昨今偶然に廣東地方に起りたるもの歟或は彼の東京の疆界を踰へたりと云ふ一万五千兵の黨類尚廣東地方に徘徊して土地の人を教唆し又自から手を出したるもの歟も知る可らず兎に角に我輩の臆測する所にては清國今日の有樣は我舊幕府末路の如く廟堂中少しく開進論を唱て近時の器械など用ひんとすれば忽ち反對黨を生して其議論の〓端直に攘夷の粗暴に及びしものに彷彿たるものゝ如し又廣東の地たる外國人の最も久しく出入する所にして其人民も自から西洋の風に浸染し大清國中最も洋臭の太たきし處にして支那にて所謂報國盡忠の志士は廣東人を呼て南蠻と稱し之を賤しめ之を惡むこと甚しとの事なれば右の一揆も必ず在廣東外國居留地近傍の者には非ずして遠近共に報國盡忠家の一類ならん而して目下清廷の論勢は何れの邊に在る可きや路に當る者は活〓開進西洋の文明を友とする者の黨歟或は守舊頑陋、口に着實を名として退歩する者の黨歟これを知ること甚た難しと雖ども廣東の一揆は純然たる攘夷論の結果なりとすれば清廷は此事に付如何の處分に出づ可きや唯我輩〓後報を待つのみ