「日本生糸の下落」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「日本生糸の下落」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

日本生糸の下落

生糸は日本第一の産物なり日本の外國貿易輸出の價額一年三千万圓なるに生糸の價は其二分の一を占むこれに屑糸、眞綿、絹織物類の價を合すれば全輸出貿易の十分の七八を占むべし日本の富は生糸より成立つものなりと云ふも過言にあらざるなり生糸事業繁昌すれば日本全國榮え失敗すれば日本全國衰ふ苟くも日本人たる者にして生糸事業の盛衰如何に注目し喜憂の情を起さゞる者はなかるべし

近來日本生糸の下落すること實に甚し一昨年并に昨年共に生糸の下落大にして爲めに生糸商人の失敗したる者少なからざりしは世上に明白の事實なり今年は一昨年以來の失敗に懲り商人の注意用心する所極めて精密を旨とし商略上一分一厘の抜け目なきを期するか如き覺悟あるを見て世人皆當局の商人と感を同しくし今年こそは必ず生糸の當り年ならんと豫想したりき然るに何ぞ圖らん今年の生糸下落は昨年一昨年の下落に一層の甚しきを加ふるものにして前の豫想の消散すると共に更に前年未曾有の辛酸を嘗るの不幸に遇はんとは今我輩は左に今年生糸下落に属するの事跡を記して讀者の記臆を新たにすることを勉むべし

生糸の賣買は毎年七八月の頃に至りて隨分盛りの勢を現はすことなれとも其實は時期尚ほ開市の當座に属するを以て未た相塲の据りを見るの塲合に至らず九月に入れば先つ相塲も居合ひたりとするを得べし今年九月上旬上野下仁田生糸の相塲は一圓に二十八匁内外なりしが爾後次第に下落して十一月初旬には三十六匁内外に下落したり此糸橫濱にて賣買の相塲は九月上旬迄百斤に付五百廿弗位なりしもの十一月初旬には四百七十弗内外となりたり即ち百斤に付大畧五十弗の下落なり五百廿弗既に好き相塲にあらす然るを更にこれを減して四百七十弗としたり眞實甚しき下落なりと云ふの外はなかるべし當時橫濱にて生糸賣買の實况を聞くに日本内地の商業不景氣が貿易輸出入不平均の原因となり貿易は總て日本品の輸出のみにして外國品の輸入なく外國商人にて日本の生糸を買入れんとする者は實際正金を本國より取寄せて代價を支拂うの不便を生するに至り外國よりの爲換の相塲殊の外に騰貴したり依て外國商人等は爲換上に失ふ所を以て生糸買入上に償ふ所あらんと欲し鋭意相塲下落の策略に從事したるを以て其影響頗る見るべきものあり生糸荷主等は相塲の下落を見て驚くと同時に日々刻々銀貨相塲の下落して當初の豫算より一弗に付十錢以外二十錢餘をも減するの勢あるを以て日に益驚〓し一日賣後るれば一日の損毛なりと信し只管賣渡しを急きて價の高下を問ふに遑あらず且つ荷主の心中に思へらく日本内地去年の不景氣は今年の如く甚しからさりし然るに尚ほ生糸の輸出〓んど四万捆の巨額に達したり今年の不景氣は其甚しきこと去年の比にあらず桐生、足利、西陣を始め全國至る處の機塲は悉く休業同樣にして絶て機杼の聲を聞くことなし斯る内地の景况にては今年の貿易は平年内地需用の生糸までをも輸出し其總額六万捆の上に出ることもあらん果して斯の如くならんには生糸の大下落目前の事なるが故に唯須らく賣付けを急ぎ必ず隣人に後るゝこと勿れと内に此心ありて外に賣渡しを急區生糸の下落決して恠しむに足らざるなり又歐米市塲の實况を聞くに橫濱港に於て生糸下落の報道續々本國に到達し人々買入に躊躇の折柄日本商人が直輸出する所の生糸は平年に〓倍する巨額を以て市塲に押出し來り何樣の價にてもこれを求めて沽らんことを欲するの有樣は尋常一樣の商機に從て運行するものとは思はれず人々益疑心を深くし日本生糸の下落は遂に何れの点に至て止むべきやを知るべからずとし特に日本生糸の買入を見合はするの情あるを以て歐米市塲生糸一般の相塲の動搖なきにも拘はらず獨り日本生糸のみ格外の低價に下りたりと云へり

以上は目下日本生糸の商况なり生糸の相塲一割の下落あらんか日本の貿易には二三百万圓の損失あるへし二割の下落あらんか五六百万圓の損失あるへし我輩は生糸商人にあらず隨て直接に損益痛痒の關係なきが故に日本生糸の下落二割に達したりと聞くも一夜大風の爲我物置小屋の屋根を吹剥されたりと聞く程にも驚かず盖し直接に自家の頭上に關係せざるものは人の感情を喚び起すに足らざるが爲めならん然りと雖とも仮に爰に東京神田區の一部分に火を失し數百戸の人家を灰燼に附することありとせんか全東京の人民は勿論遠き橫濱地方の人々に至るまでも火事と聞て現塲に驅付けこれを拯はんとして自家頭髪の焦爛を顧みず甚たしきは平日隨分人事に冷心にして且つ聊か吝嗇家の名ある人々にても赤の他人の罹災者に數十百の金穀を施與して其不幸を吊慰するなど其騒動一方ならざるべし是將た何の理由ありて然るか財の消滅と人の不幸を憫むが爲なるより外なかるべし然れとも試に此火事に失ふ所の財と人の不幸の分量とを計算すへし燒失したる一戸の價少なきは數百圓、多きは數千圓ならん仮りにこれを一戸千圓の平均とするも五百戸を燒失して總計五十万圓の財を失ひ直接の被害者は二千五百人内外に過きこれを生糸の下落一割二三百万圓二割五六百万圓の損失にして被害者の幾十万人たるに比すれは其大小軽重固より同日の論にあらざるべし我輩をして若し神田の火事を聞て狼狽せしめば生糸の下落を聞ては憂苦寝食をも忘れしむるに足るべきものあるべき筈なりと信するなり

今や此危急の時期に臨みこれを救ふの策唯一あり即ち日本の有力者をして此生糸を買占めしめ决してこれを投け賣りせしめざるに在り支那の豪商胡雪嚴が去年以來二万捆計りの支那生糸を買占め之を倫敦と廣東とに貯藏して敢て容易に賣拂はざりしより大に歐米市塲に支那生糸の價格を維持し得たりしことは世人の熟知する所なり今若し橫濱正金銀行又は日本銀行等をして日本の胡雪嚴たらしめんか日本生糸の價格を維持して一二割の損毛を蒙らしめさること甚だ易々たるのみ然るに唯此等の銀行に於ては此用に供すべき金〓なしと云うの故障あらん果して然らは此故障を除去するには我輩は更に日本政府の助力を請求することを勧告すべし政府にして若し生糸の下落は神田の火事の比類に非ずと承知せられんには三五万捆の生糸代價を融通するに於て决して其工夫に差支ることなかるべし兎角日本生糸の價を維持して格外の下落に至らしめさるは目下全國の經濟に關し理財家の考案を煩はすへき重要事なるべし