「文明の道は近より進む可し」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「文明の道は近より進む可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

文明の道は近より進む可し

殖産は學問の母なり衣食足りて文事起こるとは我輩の特論にして之を古今世界の事實に〓して違うものなきが如し西洋諸國に文事甚だ盛なり其盛なる中にも自ら甲乙あるものを見るにまさに殖産の盛否に關し殖産に一歩を進むものは文事も亦一歩の先を占め會て其割合に齟齬するものなし英佛曰耳曼荷闌白耳〓等に學者の多くして文物教育の盛大なるは普く世の知る所にして一方より其國民殖産の景況如何を察すれば正しく其原因として見る可きものあり之に反して葡萄牙〓班牙の如き近来に至っては著名なる學者を見ず學問の事項を以て文明世界に轟きたるものあるを聞かざれば亦其殖産上にも進歩盛大を以て人の耳目を驚かしたるものなし

又我日本にて古來學問に志して其社會より徃々有爲の人物を出し近くば方今文明の魁を爲したるものは士族より外ならず其然る所以は何ぞや士族の社會素より殖産を勉めたるに非ずと雖も其家に属する世〓に依頼して衣食に乏しからざればなり、自ずから勞して自ずから食う主義にこそ違えども衣食たる一点に就いて見れば其種族中に文事隆盛の結果は決して偶然に非ず即ち士族の世〓は其學問の母なりしものと云うも可ならん我輩爰に奇言を吐いて此事情を評すれば人生・教育に於いて學問は腦より入らずして胃より入るものなりと云はざるを得ず盖し殖産興りて學問盛なりと云うと雖も學問の道に由るに非ざれば真正の殖産は興る可からず此の點より論ずれば或は學問は殖産の母なりと云う可きに似たれども學問より殖産に入る法は社會の稍や上進したるものに適す可きのみ故に今の我日本に於いて資金にも人物にも乏しからざる機會の如きは特別のものとして各地方に於いては尚未だ學問様の殖産を企てる〓ある可からざれば人事最第一の要として勉強す可きや工商殖産の一遍に在る可し衣食漸く足り〓〓漸く説なりに從て次第に學問の門に入り其學問の結果は又道を殖産に現われ双方相互に助け相互に推進を以て社會の全面を改良す之を文明の進歩とは云うなり

左れば事柄こそ小なれ本日の雑報欄内「故老却って少年に教えらる」の條に備後國三上郡庄原村の二少年が故郷に歸省して父老に面會、一席の説話よりして地方興業の端と爲り又随て學校設立の美學に迄及びたるは強ち二子が其發起にも非ず地方晴々裏に志の〓伏したる處へ偶然にも一席の閑話を以て之を摘發したることならん其は兎も角も少年が陳述したる趣意と云い又父老が實際に着手したる事の順序手續と云い正に日本國の地方に適當するものと云わざるを得ず三上郡庄原村の如き山間の一市邑、其殖産の方法を謀るも俄に何等の器械を用いて何等の大事業を起こす可きにも非ず毎戸小民の農〓稼に養〓を事とし集めて之を糸に盛する如きは地方一廉の物産にして漸く進むに從て米麥の収入と相對等するにも至る可し殖産と共に道路も開け運河も通し地方に〓るを出して足らざるを入れ人民の衣食漸く足るに從て學問の教育も亦これを伴い漸く人の耳目を開て文明の佳境に近づくに於いては何事を企てゝ成らざるあらんや何物を求めて得ざるものあらんや僻道の田舎は變して大都會と爲り武骨なる田舎漢も居ながら都人士たる可し桑滄の變必ずしも百年を待たざるなり我輩の持論に衣食足りて文事起こるとは必ずしも漠然たる想像論に非ず又洪大無邊なる方策論にも非ず近く其一例を擧げれば即ち三上郡の父老の如くせんと云うより外ならず語を寄す全國各地方の有志活事を爲す決して難しからず其事奇ならず又〓ならず〓應さに土地相應の事業を勉めて其事の條項を増加し米麥の耕作を兼ねるに養〓を以てし養〓に加えるに製茶を以てし在來の道路を平にして又新に路を開き先ず衣食を足して後に文字を教え生産の寒より温に進み學問の卑より高に登り其人々の才力次第にて高に際限なく又卑も妨なし唯一般に衣食を豊かにして知見開達の方法を自由にし胃を養う後に腦の修業を怠らざること緊要なるのみ