「大に鉄道を布設するも商業顛滅の来る気遣ひなし」

last updated: 2019-09-08

このページについて

時事新報に掲載された「大に鉄道を布設するも商業顛滅の来る気遣ひなし」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

大に鉄道を布設するも商業顛滅の来る気遣ひなし

鉄道は人間の福利を増進するの最大要具にして一國の文明富實を知らんとするには國内に現存する鉄道の里數を計へ以て其高卑多少を判定するの通法なり目下我日本に於ても疾く既に鉄道の効用を了知し全國所在其興業を企て又其工事に着手して漸く進歩の色あるは我輩が欣喜措く能はざる所にして國家の幸福之に過くるものなしと信ずる所なり此際唯僅かに我輩の意に満たざる者は斯る必要具にありながら日本人が之を求むるの応未だ十分に深切ならず一年にして竣功し得べき工事も其成を十年の後に期し今日に着手して可なる線路も來る幾年の後を待て始めて其工事に掛らんと欲し緩々慢々獨り自から樂みて老の將に至らんとするを知らず世界の風潮は駁々疾走して晝夜を舎てず日本人の懶惰不活溌に遠慮して故らに其歩を徐々する者ならずとの事を知らざるが如き有様あるの一事なり故に我輩は日本人の幸福を祈望するの一人たる權理を以て幾度か此紙上に鉄道論を記載して大方の〓覧に供したるも亦唯彼の懶惰者の眠を驚かして他日噬臍の悔なからしめんとするの微意のみ

我輩が日本の鉄道布設を急ぎ又其及ぶ所を廣大にせんとするの説を聞きこれを不可とするの論者ありて曰く目下日本の福利を増進せんとするには鉄道布設の右に出るものなしとは時事新報記者の論の通にして我等と雖とも飽くまでこれに同意賛成する所なり然りと雖とも記者の熟知する如く鉄道を布設するには莫大の資金を要す故に僅々三五年又は十數年の時を期して全國所在鉄道を布設し運輸の便に遺憾なからしめんとするには千億万を以て數ふるの金額を使用せざるべからず而して鉄道布設に使用するの資本を得んとするには〓ず先す他の事業に使用するの資本を滅し之に融通すべき道理なるが故に鉄道成るの日は即ち各業の資本非常に欠乏するの時にして全國の事業一も爲すに澁滞せざるものなく折角の鉄道も其運送すべき物資と旅客とを見出さざることあらん即ち全國大不景氣商業廃滅の時にして其惨害測り知るべからず千八百四十七年(弘化四年)英國にて商業顛滅(コンマルシアルクライシス)の騒動ありしは全く鉄道過設に原因し國内流通資本の大部分を取りて一時に鉄道事業に沈めたるがために忽ち金融の閉塞を來たし以て商業社會に破産の惨害を散布したるなり今我日本の〓遠からず前年の英國に在り鐵道布設は宜しく漸を以て進むべし決して急にす可らざるなりと我輩は此説に荅ふるの前に千八百四十七年の商業顛滅の次第を〓記し読者諸君が自ら英國史の記〓を喚ぶの勞を省くべし

世界に始めて鐵道の興りたるは千八百三十年(天保元年)英國「リヴァプール」と「マンチエスタル」との間を聯絡したるものを以て第一とす是より以前鐵道の工風裡々ありしと雖とも僅かに鑛山の用を爲すに過ぎざる位のものにして旅客貨物等を運送するの用に供するに至らざりし「リヴァプール」「マンチエスタル」の鐵道一旦〓就するに至りて全英國の人民皆其公益の大なるに驚き上下爭ひて新線路の布設に從事し漸く進むに從て益其利の大なるを悟り千八百四十六年の頃に至りては全國の人民鐵道に狂癲するの有様と爲りたり即ち千八百二十七年より同四十三年迄十七年の間に英國諸鉄道會社にて株金又は社債を募集するに政府の許可を得たる金額無慮三億九千五百万圓其翌同四十四年新に又募集の許可を得たるもの七千五百万圓合計四億七千万圓なりし是は募集許可の金額にて實際拂入れの金額は未詳)然るに同四十五年には全國諸鐵道會社の實際拂入れ金額總計四億四千二百万圓と爲り其翌同四十六年には増して六億三千一百万圓と爲り又其翌同四十七年には更に増して八億三千六百萬圓の巨額に達したり當時諸鐵道會社の株券の價の騰貴したる實に法外の事にして全く狂人の沙汰と評するより外なし其一二例を擧れば「リード」「ソルスク」間の鐵道株券は一株額面二百五十圓実際拂込〓十二圓五十銭なるもの千八百四十五年三月には十七圓五十錢にて賣買し同年九月には百十八圓七十五錢にて賣買したり、「ボルトン」「ウイガン」及び「リヴァプール」間の鐵道株券は一株額面二百圓拂込済二十圓なるもの同年一月には二十二圓五十錢にて賣買し九月には二百十三圓七十五錢にて賣買したり、又大西鐵道會社の株券は同年一月に一株七百八十圓にて取引せし者九月には千百四十圓にて取引し、中央鐵道會社の株券は同年一月に一株五百七十圓にて取引せしもの九月には九百四十圓にて取引したり、斯る狂乱なる市塲の有様の永く持續すべき筈なく追々諸株券跡金拂込の辨護となれとも其金を得るの道なく金融逼迫、信用閉塞、株券貸物頓に下落して遂に商業顛滅の實を成したるなり然れとも當時英國政府調査委員の報告に依れば千八百四十七年の商業顛滅の大原因は其前年の饑饉に在りこれに次ぐ他の原因は綿花の不作と鐵道の過設と商業社會信用の過度なりしとに在りと云へり

今我輩が論者の詰難に答ふるの前に先づ千八百四十七年英國の商業顛滅は其原因果して何れに在るかを論究すること議論の順序なれとも兎角我輩はこれに一歩を譲り其原因全く鐵道過設に在りて他に其咎を歸すべきものなしと仮定すべし然れとも論者が此英國の例を以て今日我日本の鐵道論に適用せんとするは雙方の國柄と時と塲合とを知らざるの空論たるを免かれずと答ふるの外なかるべし英國は世界の金穴なり金源なり古來金の英國より流出して他國を潤すの例はあれとも他國より英國に流れ入りて其不足を補ふの例なしこれを譬ふるに蜜柑の紀州に於ける酒の灘伊丹に於けるが如く酒蜜柑共に各其産地の需要を供給したるの剰餘は溢れて他方に出づべしと雖とも一旦の變に際し紀州又は灘伊丹にて例年の輸出を止むるの外尚ほ更に多額の酒蜜柑を要することありとするも日本國中其需用に應するの方法なかるべきなり故に英國に於て鐵道を過設し他の農商工業に使用すべき資本にまで溢食したりとせんか彼の紀州灘伊丹人が土地の産物を飲食し盡くし尚ほ飽き足らずして渇を訴ふるの類にて到底其救助を他の地方に求むべからず唯黙して其無謀の咎に任するの外工風なからんのみ況んや千八百四十七年は今を距る三十五年前の未開世界萬國の金融も今日の如く自由なるにあらず英國の理財は英國内に辨するの外に方案を得ざりし折柄なれば卒然商業の顛滅に遇ひて之を救治するの策に乏しかりしは一概に其理なしと云ふべからざるなり

今や幸に我日本は然らず興業資金の本源國ならずして他の剰餘の資金を借り來り以て大に内の富源を深くせんと欲する末流の寒國なり今日國内に存立する所の各業の資本金を剥奪して新に鐵道の資本を集めんとするにあらずして從來の資本は從來の儘に今日以後にも保存し鐵道布設の爲めには廉利の資本を外國より輸入し來り以て我不足を補はんとするなりこれを譬へば自國の橙樹に自家所用に供給すべき丈けの橙實ありて不自由を覚えざりしを卒然數名の來客ありたるが爲めこれに樹園の橙實を分配せば家人の供給を減少すべき筈なれとも左はせずして來客の爲めに要する丈けの新〓用は紀州の輸入品を以てこれに應じ家人をして前後供給の過不足を感覚せしめざるものに異ならず、斯の如くしても尚ほ家内に渇て訴ふるの人あるべし日本國内の金融逼迫して千八百四十七年英國の商業顛滅の二〓を爲すべしと云ふは我輩其理由の何邊に存するかを審かにせず一言これを空想空論の甚しきものなりと斷定する所以なり我輩は論者に忠告す今日我日本の鐵道を布設するに當り外國の資本を輸入して其〓用に應ずるに於ては全國の事業に資本欠乏の憂を見るべき理なし英國歴史の古は以て今の日本に適用するに足らず斷然汝の心身を蓋して鐵道布設の事に從ひ時に狐疑躊躇する所なくして可なりと