「商況の不景氣回復の道あり」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「商況の不景氣回復の道あり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

商況の不景氣回復の道あり

商況沈睡して振はず職工手を空うして日雇丁は飢寒に泣

き通用資金は深く金穴に蔵めて其運轉の機を止め坐して日

に殖産の衰頽を待つは正に目下の有樣なり蓋し是れ商賣の

一盛一衰自然の數なれば自然に衰るものは復た自然に盛なるの

期もある可しとて之を度外に放却して顧みざるも亦自

から一説なりと雖とも元來理財は人事にして天事に非ず其盛

衰必ずしも寒暑の來往するが如し斷して人力を交ゆ可らざ

るものとも云ひ難し其盛なりしや人力に因するもの多し其

衰るも亦必ず之に由りたることなり左れば其衰へたるものを

回復せしむるにも幾分か人力を用て之を逓速するの効ある

可きは當然の數なり我輩の宿論に目下大に鐡道敷設の工業

を起し其當線の各處同時に着手せんとするが如きも其落成

の後に運輸交通の便を取るは無論なれとも唯其起業の一事の

みにても商況回復の機を促かすに足る可しと信するものな

り鐡道布設の爲には仮令ひ政府にて公債を募集するにも又

或は人民の會社にて株金を集るにも金満庫中に蟄伏せる死

財を流用するものにして其流通する所を尋れば工事當局の

役員學士なり職工日雇役丁なり木商なり鐡商なり大工なり

石屋なり先づ直接に此種の人の手に金を収領して其金必ず

しも其手に留らず、變して衣服となり飲食となり或は私家

營繕の資と爲るものあらん或は一身奢侈の費と爲るものもあ

らん幸なるは貯蓄銀行に入り不幸なるは一席の愉快に散し

尚不幸の下等なるは一夜の博奕に消へて痕なきものもあら

ん千種万樣傳へまた傳へて際限を知る可からず即ち間接に金

運動する處にして概して之を名けて世の中の繁昌と云ふ明

治十年西南の役に九州地方の繁昌して民間古來未曾有の盛

を極めたるも當時軍費と名る資金が其地方に運動したるが

爲なり西南の役は唯武器を以て人を殺すのみの事にして跡

に遺るものは古戰塲なりと雖とも鐡道の敷設に由て遺るもの

は古戰塲に非ず其利益は千百年に傳へて人を富まし人を濟

ふ可し人を殺すの事、尚且一時の繁盛を致して人を滿足せ

しめたり況や人を濟ふの鐡道を敷設して鴻益を千百年に遺

す其上に目下の繁盛は戰争に等しきものあるに於てをや我

輩の切に冀望する所のものなり

或は心を轉して一方より考れば鐡道の工業大なりと雖とも日

本社會全体の事に比すれば其一小部分たるに過きず斯る小

事業を以て商況の全面に新活氣を與へんとするは座上の論

の如くにも思はるれとも又決して然らざるの理由あり今の商

況不景氣は既に其徴候を現はしてより三年に近し此際に全

國民の有樣は何事も扣目(ヒカヘル)にして随分節儉は行届きたらんと

雖とも人間の日常物を用れば必す消滅せざるを得ず今日一物

を消し明日一品を滅し三年の久しき人民の家に需要品を入

れず商人の店に賣物を仕入れず唯滅するありて増すことなき

其堪忍の程度も事實の要に迫られて將さに破れんとするの

界に近つきたることなれば此時に當て何か商機を一轉するの

端を開くものあれば忽ち新活氣を呈す可きや甚た慥なる可

し既往を回想すれば商況不景氣の端は既に明治十四年の末

に發して尚未た著しからざりしものが十五年の夏横濱の生

糸聯合會社の事より引續いて生糸商人の失敗する者多く此

處に借用金の滞りあり彼處に品代價の不拂ある等にて商賣

社會に疑念を生するの端を開てより商人等は恰も眠の驚き

たるが如く酔の醒めたるが如く駸々歩中頓に後顧して彳留

したるものに異ならず左れば生糸商人の失敗は特に全國の

商況不景氣を醸成したる本源には非ざれとも當時既に全般の

内に催ふしたる不景氣の機を發表せしむるの器械たりしや

明なり一夜の秋風必ずしも落葉の本源には非ざれとも滿地の

黄葉を見れば夜來の風に吹かれたるものと云はざるを得ざ

るなり不景氣の發端果して我輩の臆測する如く生糸商の失

敗に在りとするときは今鐡道の工業を起して各地方に資本の

運動を生し各種の人をして直接間接に利益を得せしめ一時

其部分の繁盛を致すは亦是れ商況回復の發端たる可きや疑

を容れず殊に我輩の説に從へば其工事を一方の端より始る

に非ず些少の冗費を厭はずして通線の各處より起らんとす

るものなれば其區域甚た狭からず全國の内部既に景氣の回

復を醸し將さに發せんとして其機を得ざりしものが奥州、

信越、中山道、東海道より西は中國九州に至るまで其線路は

二三なるも工業の點をば幾ケ所にも分て着手したらば全國

恰も幾ケ所の小戰争を出現して今日の沈吟悲嘆は忽ち變し

て狂奔歓喜の聲と爲り全般の商況これに伴つて新活氣を發

する其趣は清明の桃李微雨に促されて蕾を破るが如きもの

あらん過般政府にては中山道鐡道敷設の爲に二千万圓の公

債証書を發して之に應する者甚た少なからず此機に乗して

尚其規模を大にし各地方同時に工を起すは永年鐡道の鴻益

と目下商況の回復と一擧兩全の得策なる可し若し或は商況

の回復するに從て公債証書の價も下落し却て之を望む者少

なからんとの掛念もあるが如くなれとも既に公債証書をば外

國人にも所有を許したる以上は証書の名義を改めて外國債

と爲し外國に行て外人の資金を借用して可なり鐡道の資本

は乏しからざるなり