「佛人サルタレル氏の書簡」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「佛人サルタレル氏の書簡」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

佛人サルタレル氏の書簡

去月廿五日發兌の時事新報欄内に南米伯拉西(ブラジル)

在留の佛國人サルタレル氏より地學協會に寄せたる書簡を掲載す其主意の大畧は今回伯拉西政府に於て大に外國人民の移住を奨励し移住する者には相當の保護を與へて丁寧に取扱ふのみならず渡航の旅費をも給輿す可き筈に付日本よりも移民を送りては如何と云ふに在り此書簡は固より一個人の間の私牘なれば未た以て伯拉西政府の企圖を確知すること能はず又此書簡のみにては實地詳細の手續をも知るに由なしと雖も該政府が移民を勧誘するは今日に始まるに非ざるを以て此度の報道も頗る信憑す可きものあるが如し伯拉西は南亜米利加の一大帝国にして二百七十万英方里の疆城と一千万餘の人口とを有し其地味は極て肥沃にして萬種の天産物に富饒なるは世人の普く知る所なり唯其位置熱帯地方に在るを以て我日本の如き温帯平和の國土より移住せば氣候の激變の爲に一時疾疫死亡の禍に罹る者多かる可しとの説あれとも是迚も身体強壯なる者に取りては左まで恐る可き事にあらざる可し特にサルタレル氏の言に據れば移住者は同國の首府なるリオ、デ、ジャテロの近傍に居住せしむ可しと云へりリオ、デ、ジャネロは同國の南端南偉二十度以南に在りて同國に於ては最も炎暑に遠かりたるのみならず其位置は南米第一の海港たる海岸にして常に大西洋の海風を受くるを以て同一の緯度に位する自他の國々よりも頗る清冷の氣候に富めりと云へば氣候の一事は思の外に心配なきことならん、されば我國人をして苟も遠大の希望を抱き目前の艱苦を辭せざるの覺悟ある者は宜く早く志を決して彼國に行き日夜勉強して相應の富を成し他日功名と富貴とを掲載して本國に榮歸するの計を爲す可し即ち今の治世の男子に相當の事情ならん、我輩が屢々論するの如く我國今日の状況は内に興す可きの事業あり又之を興す可き努力ありと雖とも此努力を用ゐて事業を興す可き資本に乏しきが爲に百事不活発にして智ある者も力ある者も皆其智力を殖産の道に用ゐること能はずして全國の人物は官途の一点に爭賽し需要供給の不平均より人物の價値頓に下落し有爲の士空く窮途に彷徨して不遇の嘆を發するの有樣なれば此時に方り國内に於て徒に他人の足趾を踏み錙銖の利を爭はんよりは寧ろ海外に雄飛して一攫萬金の策を運らすこそ大丈夫の所行なれ殊邦絶域天涯萬里抔とは鎖国時代の妄想のみ蒸氣電信の今日に在ては五洲萬國何の地か比隣ならざらん文明世界には地理上の遠近なき者と知る可し

右は今日我國の志士の爲に謀りて伯拉西に移住するの利益を示したるものなれとも又一方より伯拉西政府の爲に考ふるも外國より移民を輸入すれは其國に取りて大に利益あるを見る可し元來一人の男子を生育するが爲に要する所の勤勞と費用とは決して僅小なる者に非す子生れて三年父母の懐を免るゝより其子が丁年に達して一人前の働きを爲すに至る迄衣食教育の入費より監視保護の勤勞を金額に積りたらば存外の巨額に上らんこと明なり單に此計算のみにても一國内に百人の丁年に達したる男子を得んが爲には幾十萬圓を費さゞるを得ざる譯なれとも實際の費用は決して此に止まらず其故は出生の男子は蓋く無難にて丁年まで生長する者に非ず其間には疾病災難等種々の原因より未た丁年に達せずして死亡する者は甚た多し特に死亡の割合は壯年の人に少くして幼少の者に多きは統計上に明証ある事實なれは實際百人の壯丁を得るまでには少くも其三分の一多くは其半數以上の死亡ありと見做さゞる可らず又丁年前に死亡を免かれたる者と雖とも不具癈疾等にて終身業に堪えざる者も少なからざる可し即ち此死児と無用の児とを養育するが爲に費したる勤勞と入費とは空しく報酬なくして消耗し去りたる者なり抑育子の爲に費す所の勤勞と入費とは人々の勝手にて費消する者なれば他人の爲には損害なきが如くなれとも一國の公費を減するの点より見れば全体の結果に至りては正しく各自の襄裡より若干の金銀を取去られると同一なる損害を被らざるを得ず仮りに此勤勞と財本とを育子のことに用ゐずして殖産興業の途に向けたりと想像せば直ちに一國の産物は非常の増加あるを想ひ見る可し育子の爲に一國の繁昌を妨害すること極て大なりと謂ふ可し

育子の爲に莫大の勞費を要し一國の繁昌を害すること前述の如しとすれば今外國より屈強の壯丁を輸入するは恰も種子を蒔かずして秋收を得るに均しく其國の利益たること論を俟たず人間の寿命を七十歳とするも充分一人並の働を爲すは廿歳より五十歳迄の間にして前後四十年間は概ね一人前の勤勞に堪えず半は他人の扶持を仰て生活するものなれば國内にて一人の有用なる男子を作り出さんと欲せば四十年間即ち其生涯の三分の二丈けは徒に無用の男子を扶持せざる可らざる議なるに外國より壯丁の男子を輸入するときは正しく其三分の一丈けは厄介扶持の損失を減省するものなり然のみならず外國より移住する人民は概して身体強壯、氣力活発にして本國に在りても中等以上の人種に属する輩なれば同一の人數にても國内に生れたる人民よりは優等の人物ならんこと疑なし此等の事をも勘定に入るゝときは彼此の利益は甚た廣大なることならんされば伯拉西政府が移民を招來するが爲に渡航の旅費を給し或は之に家屋を與ふる等にて一人に付若干の金を費すは決して其國を誤りたる處置と謂ふ可らず世人或は伯拉西政府が移民の爲に巨額の金を費すを視て窃に其不利を疑ふもの無きに非ざれとも前述の理由を了解せば直ちに懐に釋然たる所あらんのみ