「商况回復の機少しく見る可きが如し」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「商况回復の機少しく見る可きが如し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

商况回復の機少しく見る可きが如し

商况の不景氣は今日を以て極度とするや尚沈て一層の甚しきに陷る可きやとは今日の問題我輩固より之に答るの明なしと雖とも紙幣の價格今の位に止まりて上下することなくんば先づ今日を以て極度と云はざるを得ず或は政府より紙幣兌換の令を下しを銀貨紙幣同等の通用とならば物價は今一層下落して一時尚一層の不景氣を催ふす可しと雖とも其不景氣と同時に諸物價の標準を一定して回復の機に轉す可しと思はる盖し我輩が今日を以て不景氣の極度とするは世間に徃々品切れの訴を聞くが故なり目下諸色下直なりと雖とも事實の要用にして其品拂底なるものは價甚た廉ならず亦聞く所に據れば或る地方にて一時地價の下落したるものも近來小民等が不景氣の中にも少々の金を得れば地面の餘りに低價なるを見て狹き手頃の田畑ならば之を買はんと望む者出來て之が爲に地價は少しく上向きと爲りたる歟仮令ひ大に上らざるも最早今より下る可き勢はなしと云ふ夫れ是れの事情を照し合せて考ふるに爾後紙幣の價に變動なき限りは物價下落商况不景氣の沙汰も既に其底に達したるものと知る可し

商况の不景氣既に底に達して隨て回復の機を催ふす其有樣を形容して云へば漢人の所謂冬至に一陽來復するものの如し本月二日の時事新報に「商况不景氣回復の道あり」と題して全國の商機回復の爲には大に銕道の工業を起して資金運動の端を開きたらば商賣社會必ず活溌氣を生することならんとて頻りに其敷設の利を勸告したりしが爾來我輩の耳朶に達する各地の通信を以てすれば必ずしも我輩の勸告を要せず銕道の企は日一日よりも多きが如し日本銕道會社の工事は既に高崎までの竣功を告けて尚其先きに進まんとし、中山道敷設の資金も十分に集りて既に着手のことならん、信越銕道會社の事、關ケ原より名古屋又は四日市への工業も人氣非常に活溌なりと云ひ、栃木縣には熊谷より支別して宇都宮への企あり、越後新潟長岡の近傍にも會社將さに起らんとし、駿河國清水港より靜岡まで、東京四谷より八王子を經て甲州までの企等枚擧に遑あらず是等の事情を察すれば今日尚未た我輩の知らざる所に於て九州にも中國にも陸運の工業は發起者の多きことならん日本全國の各地に續々事を起して資本運轉の端を開くときは其地方の金穴に埋伏する通貨も漸く世に現はれて先つ甲の手に渡り次に乙、次に丙と次第に相傳へて其際に自から贏利を餘し以て各自の所得と爲る可ししかして其資金相傳の法は現金の貸借なれば幾月幾日を期し借者は利子と名づくる贏利を加へて貸者へ返却し、物品の賣買なれば其代金の授受に期限を約して賣者は賣上の利益を■(しょうへん+「又」)領す、斯くの如く資金の貸借にも物品の賣買にも其返濟拂方には必ず多少の期限を期し其期限中は貸方に於て唯所有の名と權とを持するのみにして實物は手に在るに非ず、手中に非らずして求れば手に入ること易し、即ち金融の活溌にして商况の繁昌する者なり今國中の資本家を尋るに誰れは幾万圓、某は幾十万と云ふと雖とも其家に現金を所有する高は甚た多からず結局現金の高は日本國中金銀貨紙幣銀行札を合して二億圓に足らざれとも國中貸金の証文面に從て其金額を合算したらば十億も百億もあることならん二億の現金を以て百億の貸借賣買を爲すは怪しむ可きが如くなれとも其間に期限あれば幾百億たるも差支なくして且其貸借賣買の局に當る者が心に正直にして業に巧なれば貸者も借者も賣方も買方も共に利する所あるものと知る可し

左れば商况の機は實に活溌にして一度び不景氣の状を呈すれば其不景氣は又不景氣の原因と爲り遂に際限ある可らず其飯は胃弱の病人が病症の爲に不消化物を好て益胃弱を來し、胃弱と不消化物と相互に原因たるに異ならず然るに爰に一旦の機に由て資本活動の端緒を開くときは全く反對の事相を現はし一局所の活動は波及して他の活動を促かし相互に活溌振作の原因と爲る其有樣は身體強壯の人が頻りに運動して強壯を増し強壯と運動と相互に助けて相互に原因と爲るものの如し今回各地方にて鐵道工業の談の如き幸に虚ならずして實に進歩することあらば商况回復の期も决して遠きに非ざる可し既に本月二十四日より東京株式取引所に於ては日本鐵道會社の株式賣買立會を擧行して人氣自然に引立ち鐵道の株式は價格次第に上向きなりと云ふ此樣子を以て見れば各地方にて新に又新線路の鐵道株主を募るにも甚た困難なきことと信するなり