「法の嫌疑を妨くべし」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「法の嫌疑を妨くべし」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

法の嫌疑を妨くべし

法律の眼下には公私官民の區別なし唯一樣同等の見を以て廣く人を支配するのみ法を立つる者の精神固より此の如し法の支配を蒙むるべき人も亦謹んで此意を体用して其法を守るべきは言はずして明白なる道理なれど■(にんべん+「且」)し人、神に非ず故に實際上のことは徃々にして預想の外に出で眞實の精神ならざる者が表面に現はれて其精神なりと誤認せられ思はざる所に徃違ひを生するは人事の常にして具眼者より見るときは其精神も判然分明ならんと雖とも今の世は凡俗人が七八分を占むる社會なれは凡俗の凡情以て法の精神を誤らしめ些細のことの爲めに立法者の本意に違背したる嫌疑を起し轉た凡俗をして迷はしむるのみならず狡猾者か法の特澤を利用して益々世の嫌疑を重ぬることあるも知る可らず左れば法を行ふに方りて常に精神の在る所を失はずして之れを守るべきは勿論大切なりと雖とも其際に世の嫌疑を避けて精神を誤らしめざるを勉むるも亦一樣大切のことなるへし是れ言はば凡俗の爲に枉て面倒を見て遣ると申す者にして智愚混同の社會の事を處するに一樣同等なる法律の体面を全うして廣く公平の精神を示さんとするは頗る煩はしきものと云ふ可し

盖し〓するに改正徴兵令の精神は國民の戰役を一樣同等に〓弘めて護國の道を固うせんとする者、其眼中に公私官民の文學を挾みて彼に薄く此に厚ふする如き考へあるに非ざることは我輩に於て承知する所なれとも其項中に偶ま年少學生か其在學する學校の官たり私たるに依て〓役〓〓の同を生することあるが故に法の精神に拘はらず學問に志す者の私より考れば此猶豫の特典を願はざる者なし、少小志を起して既に就學する以上は一事一物にても心障りのか條を除き安心して業を卒らんと欲するは千百人同一の至情なれば其學生たる者が兵役を恐るるが如き怯懦の心なきも就學中の安心を得んとて煩悶するは尤なることとして之を許さざる可らす然るに今徴兵令に據るときは偶然にして官學校に在れば兵役を免かれ又偶然にして私立校に在れば兵役に就かざる可らず私學生の身を以て官學生に對すれば甚だ羨むべきものありて官學生より私學生を見れば又大に誇るべきが如し天下の年少學生相率ひて官學校に赴かんとするも謂れなきに非ざるなり盖し學校に官と云ひ私と云ふとも其根底本質に於て一は高尚、一は卑下、一は特典を與ふ可き者、一は與ふ可らざる者と判然たる區別ある筈も無ければ法を立つるに方りて獨り私立校を特典外に故さらに逐除けたるに非ず唯政府の筋の學校は中學以上以下と界を定めたれとも私學校には仮令ひ實際に高等のものあるも何れを高しとし何れを卑しとするの分別易からずとて官立府縣立中學以上の學校生徒は云々と大法を立たるものとの事は我輩の臆測する所なれとも法の精神は扨置き今日の實際に於て官私學生の利害は著しきものにして年少學生の心の赴く所も明白なれば世間或は此機を窺ふて學校の私なるものを變して官とするの利益を算し私立にて充分に維持し得べき學校をも故さらに事情を陳して官の庇蔭を仰ぎ其下に法の特典を利用せんと計る者無しとは斷じ難し尤も斯る未練の心を以て眞實上を誑かさんとするが如き純然たる奸策に非ざるも或は他に巳み難き事情ありて是非私立を改めて官立と爲さざるを得ざるの傍らに序ながら法の特典を利用せんと思ふ學校もあるべし然るに政府に於て其情實の巳むを得ざるを聞届けて願意を達せしめんとすれば之と同時に就役猶豫の特典をも許可せざる能はず縱令ひ官の意にては官立校に私するなきを欲すと雖とも既に法律の明文上に徴兵猶豫の特典ある上は成法違背し難し、勢ひ之に官立校一般の恩澤を與へざるを得ざるべきなり然るに凡俗の眼にて之を見たらば巳み難き事情ありとは察せずして唯徴兵免役の爲めに官の庇蔭を仰ぎたりと誤解して徴兵令の精神に嫌疑の心を懷く如きありては世俗の凡慮笑ふべしとは云ひながら法の爲めに忌はしきことなれば政府に於ても能く其實情を詳察して世の嫌疑を避くべきは勿論の次第と云ふべし尤も私學校を改めて官の保護を仰かんとする情實十が十巳み難き譯合にして絶て免役僥倖の私心を挾まざる者もある可ければ政府に於て之を許可するは亦當然なりと雖とも目下官私學校の間に僥倖安心の異同ある折柄にて人々その僥倖を求めんと欲する色もあれば請願を許可するに臨ては能く詳かにその實情を聞糺し實情果して官の保護を仰くべき者ならば兎も角、夫も大抵は凡俗の嫌疑を避けん為めに容易に許可せずして法律の公明正大なる所以を表示し以て愚夫婦の迷ひて解くは亦忽がせにし難き務めなり何となるに其實情は如何なる者にても既に官學校となる以上は徴兵猶豫の特典偶然に伴ひ來りて世人は遂に官立學校は則ち徴兵免役所なりと誤解するの恐れあるべきが故に一時の實情を枉げても法の嫌疑を避くること最も大切ならんかと思はるるなり官私の學校生徒をして一樣同等に不安心にして與に兵役に就かしめば大に可なりと雖とも既に法律にて定まりたることは動す可らず豫想外の出來事として論するを要せざれともせめて是れまでの私立學校のみにても一樣同等に不安心にして法の嫌疑を防き其精神を全からしむべきは我輩の最も希望に堪えざる所なり