「紙幣交換の機止に熟せり」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「紙幣交換の機止に熟せり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

紙幣交換の機止に熟せり

不換紙幣の害毒は一國の商賣を殄滅するに足るものなり物品の交換は總て貨幣を標凖とす此標凖にして一日幾回の伸縮を爲しては迚も正當の商賣を營むべき樣なし世人皆これを知らざるにあらず世の政府も亦皆これを知らざるにあらずと雖とも一旦事の急に臨みて不換紙幣を發行し次にこれを交換して其害毒の蔓延を防かんとするの時に至り必ず又此事を成すに必要の金員に差支ゆる等の事情よりしを日一日遷延躊躇し遂に思はぬ罪を作りて竊かに悔る者滔々なる天下皆然らざるはなし我日本の不換紙幣は明治十年西南の戰後より漸く其働を逞くし爾後六七年間全國物價の動搖、産業の盛衰は滄海桑田の變も啻ならざるものありて農工商社會の迷惑一方ならず今日も尚ほ其呻吟の聲を絶たずして悲哀の餘音遠く四境に反響せり一たび此聲を聞く者は仮令經濟の理を解せざるの人にても必ずや其膓を九回せしむるならん我政府にても疾く不換紙幣の弊害を察しこれを救正するの路を講して怠ることなく先づ其手始として年々漸次に紙幣の流通額を減し又交換準備の正金を貯蓄する等用意の在る所明に知るべし我輩は嘗て外國債を起して紙幣を交換することの甚た便益なる所以を論したることあれとも言輙すく行はれず今日仍ほ依然として不換紙幣の混濁海中に彷徨しつゝあるは實に慨歎の至に堪えざるなり然るに我輩は又今日を以て紙幣交換の最好時節なりと信する所あるを以て更に又我政府に勸告し來年を待たず今月今日より斷然意を决して紙幣交換の業に着手せんことを欲するなり

目下紙幣交換を催促するの事情其大なるもの四あり曰く正貨と紙幣との價を比較して其差異甚だ少なきなり曰く紙幣の流通金額甚だ少なきなり曰く外國貿易は輸出の金額輸入の金額に超過しつゝあるなり曰く交換準備の金額既に十分の高に達したるなり我輩は以上四ケ條の紙幣交換に便利なる所以を左に略説すべし

不換紙幣を過剰に發行し價格大に下落したる其害毒の深くして大なるは固より論を俟たずと雖とも正貨と紙幣との價格に非常の差違ある時に當りて突然紙幣を交換することあれば其激動方々峻烈なるがため一時全國の商賣を停止する程の影響なきを期すべからず斯の如きは則ち一害を除きて一害を遺すの恐あるが故に熟考の上にも熟考を重ね十分明白に利害の在る所を認めたる上ならでは敢て俄かに手を下すべからざる理由もあらん然るに目下の如く正貨と紙幣との差違一圓に付僅かに四五錢の間を上下し動もすれば正紙平價に立たんとするの勢ある時節に在ては突然今日より正紙同價の世の中と爲りたりとて商賣社會に向て一小波動をも起すに足らず依然として天下泰平なるべし殊に正紙の價格間に差違の少なきは世間の正貨を所要することの少なき兆候にして紙幣交換の布告と共に紙幣を所持する者交換所に蝟集し忽ちにして折角の準備金を奪去り尽すの恐なきを指示するものなり

外國貿易輸出入金額の差違は大に紙幣交換の事に關係あり若し輸出金額少なくして輸入金額多く年々若干の正金を輸出して其差を補ふが如き時節ならんには商賣社會に正金の入用多く紙幣を正金に交換して外國に輸出するの要ありと雖とも目下我貿易の實况は輸出多くして輸入少なく明治十五年は輸出の輸入に超過すること八百萬圓明治十六年は同七百七十萬圓なりしに本年も亦必ず同樣の結果を見るべき傾向あり而して我日本が貿易用の外に一ケ年間海外にて支拂を要する金額は外國債元利償還のために百十萬圓公使領事館費に六十萬圓此外に軍艦購入費、官吏出張費、學生留學費等を十分に見積るも迚も七八百萬の巨額に達すべき樣なく到底幾分の殘額を正金にて日本に輸入し來るべき勘定なるべし金銀貨濫入の潮先きに向て紙幣交換の業を始む事甚た容易なりと云はざるを得ず

目下紙幣の流通額は一億圓に足らず而して此中に就き政府の庫中に埋伏して流通の用を爲さゞるものも甚た多かるべければ實際民間の流通額を調査せば案外に小額ならん流通額多からざれば交換準備の正金もこれに準して多額を要せざるが故に其事を成す甚た容易なりと云ふべし

最後の問題たる我政府の所有する交換準備の正金は目下果して何千萬圓に達しあるや固より我輩の知る所にあらずと雖とも風説に依れば金銀貨にて三千萬圓くらいの貯藏はあらんと云ひ又一説には過般來我大藏省は其所有する公債證書を漸次に賣拂ひ其金額は既に三千萬圓にも達したるならんと商人などの監定なりと云へり此金額が紙幣のまゝにて大藏省に在らば民間の紙幣流通額は三十萬圓丈け更に減少し居るなるべく若し此金員にて正金を買入れたるならんには此金額丈け更に交換準備金の高を增加したることならん故に其紙幣たると正金たるとを問はず其用を爲すの點に於ては兩者共に大抵相同しかるべし但し此等の事共固より其虚實如何を知るに由なしと雖とも仮に此等の風説をして幾分か信を措くべきものとすれば紙幣交換の準備金は既に十分の額に達したるものと云ふを得べきか

以上列記する如く目下我理財上の事情を考察するに悉く皆紙幣交換の事を始むるに便ならざるものなし依て我輩は切に我政府に勸告す紙幣交換は來年を待て始むるを要せず明治十七年の今月今日一片の布告發行と共に直ちにこれに着手し决して猶豫遅疑すること勿れと我日本國の紙幣交換は實に今の時を以て然りとするなり