「 事の難易を問ふに遑あらず 」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「 事の難易を問ふに遑あらず 」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

 事の難易を問ふに遑あらず 

治外法權を實行する事と獨立國を維持する事とは同時同處に両立すべからず日本國を立てんと欲するか現行の治外法權は一日も速かに撤去せざるべからず治外法權を持續せんと欲するか今日以後我日本國は唯退くことありて進むことなかるべし盖し社會の組織尚ほ粗漫なるの間は治外法權の害毒も未た十分に其力を顯はすこと能はずと雖ども組織漸く整頓するに從て害毒漸く其効を呈し益整頓して益劇烈となり遂に一國の存亡に關するの大事件たる性質を成すに至るなり譬へば水車と袂時計との如し溪流に沿ひて粗大の木造車を仕掛け水の流れ落る力を假りて此車を回轉し此回轉力を送り傳へて塲内の諸仕掛けに施し或は杵を上げて米を搗き或は臼を廻はして粉を挽く是即ち日本在來の水車にして其仕掛けは相應に入組みたるものなり然れども兎に角に粗漫なる仕掛けなるが故に水の分量に多少の相違あり叉回轉力の強弱遲速に多少の相違あるも水車全体の働きの上に格別の故障あるを見ざるは勿論甚だしきは車輪の間に小石を投入し樞軸の軋る所に豆粒を挾むも爲めに諸仕掛けの運動に變化の痕跡を見ずして水車は依然たる水車なるべし然るに我々が日夜使用する所の袂時計は然らず等しく器械學上の一器物なれども其仕掛け頗る緻密精巧にして米搗き水車の粗大なるに似ず一輪を損し一螺旋を毀るは勿論一髮の塵芥を其一局部分に置くも忽ち全仕掛けの運行を止め時計の用を爲すこと能はず彼れには小石豆粒を投するも故障の痕なきに此れには一纖髮を挾みて忽ち全体の仕組を中止するは何ぞや盖し器械の精粗一樣ならざればなり社會の組織も亦斯の如し嘉永屬國以來明治維新の後に至るまで彼の治外法權の我國に存在したるは今日と相異なる所なし而して此際我國人が治外法權の弊害を感すること薄く或はこれを感するも未た國の存亡に關する程の大事件なりと發明するに至らざりしは當時社會の組織尚ほ甚た粗漫幼穉にして水車一般の仕掛けなりしが故なり然るに近年に至り社會の組織日に其緒に就き百般の事物漸く整頓する所あるに及びて我國人は始めて明======の何物たるを知覺し其害毒の深且大なるを=識し斯の如き事柄は到底國の存立と同時同處に並び立つべきものならずと十分に其肧に銘して忘るべからざるものとなりたるは其仕掛け時計の精巧に達したれはなり盖し日本政府の租税が地租と外一二の雜税より成立ち日本國人の欲望が尚ほ文明の諸物に及ぶの暇なき昔日の天地に在ては國内數箇處の居留地數千の外國人ありてこれをして思ふ儘に治外法權の自由を恣にせしむるも决して憂ふるに足らずとしたりしもの近來の如く文明政府に必要の費用漸くに增加し隨てこれを人民に賦課するがため或は酒税烟草税或は證券印紙税訴訟印紙税等百般の税則制定改定の度毎に忽ち治外法權の面前に横るありて其運行を許さず税則の性質愈緊要なれば法權の及ぶ處愈深く苟くも斯る法權の存在する限りは國事の進行を停止するの外工風なしと覺悟するに至りたることにして前後の變化其次第する所實に明白なりと申すべし

果して前條の次第に相違なくば治外法權は社會文明の進歩と共に漸く其害毒を披露するものにして近來我日本國に治外法權の害毒漸く著明なるは社會の組織漸く精密を加へ其文明も亦既に尋常普通の程度に達したるの明證にして我々日本國人の意を強くするに足るものと云ふべきなり試に日本の社會をして三十年前の古に復らしめよ今日我々の苦惱する治外法權は忽ち其魔力を失ふべし治外法權暴惡ならざるにあらずと雖ども斯る組織の社會に向ひては空家で棒を振ると一般何の影響をも生すること能はざるなり若し我日本社會をして今より次第に古に復らしめんとするものなれば治外法權决して恐るゝに足らず我々は安心至極なりと雖ども如何せん我々は古を厭ひて今に遷りたる者なり今より更に進みて後の行路を急ぎ後の今を見ること猶ほ今の古を見るが如くならしめんと欲する者なり然るに我々の行路の艱難なる前途尚ほ望洋の歎ある今日に當りて早く既に治外法權に面牆し更に一歩も我足を伸ばすこと能はず退かんか國の獨立を如何せん進まんか此十丈の牆を如何せん實に進退維谷るの地位に立つものと云ふべきなり或人曰く治外法權は一朝にして撤去すること甚た難し故に先つ向ふ五年なり八年なりを期して徐々にこれを撤去し了るの工風を决めざるべからずと然れども我輩は此議論に服すること能はず思ふに或人と雖ども我社會の進行は今日既に治外法權に衝突しあるを知ることならん治外法權にして存在する限りは此上一歩も進むべからざることを知ることならん然るに五年或は八年の後を期して此法權を撤去せんと云はゞ此年間社會の進行は如何すべきや一切の國事を停止し今の儘の地位に留在して空しく法權の退去を待たんか世界文明の風潮は矢よりも趨かなり今の日本社會の進行すら尚ほ且つ其速度の不十分なるを慅るの折柄况して此進行をも暫時停止し牆に面して悠々假寢せんとするをや斯る次第にては日本の運命は永劫彼岸に達するの期なかるべし國事は一日も停止すべからず社會の進行は片時も猶豫躊躇すべからず然らば則ち五年八年の後を俟たずして今日直ちに治外法權を撤去し事の難易を問ふことを須ひざるべし