「局外中立は極めて中正不偏なるを要す」

last updated: 2019-09-08

このページについて

時事新報に掲載された「局外中立は極めて中正不偏なるを要す」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

局外中立は極めて中正不偏なるを要す

人間世界の不祥は同胞相殺戮するより甚しきはなし故に天下無謀淺慮の徒ありて恣に干戈を弄し相殺戮して以て樂まんとするの塲合に當りては其局外に在る者の義務とし又權理として此戰闘を制止し禍を社會に遺すことなからしむべきは申すまでもなき事なり然れども我力及ばずして世上既に戰闘者の現出し來りたる以上は最早是非に及ばず我は唯我守るべきを固く守りて此戰闘の分擔者たらざることを勉むるのみ

佛清兩國開戰に付ては我日本國人の執るべき唯一の道は局外に中立して一切此戰争に關係せざるに在り而して局外中立を爲すにも自から寛嚴疾舒の差別ありて一概に同一樣ならす或は嚴正中立と云ひ或は不偏中立と云ふもの即ち是なり既に中立と覺悟したるからには兩交戰者に向て一切の關係を絶ち軍器を假さす彈藥を送らざるは勿論薪水衣食をも交換賣買せずして全く社會の範圍外に押退け交戰者をして自から窮して自から兵を収むるの止むを得ざるに出てしめんこと至極願はしき處置なりと雖ども今の文明世界の人事の繁多なる各國交際の親密なる貿易徃來の廣大頻繁なる迚も兩交戰國をして全く社會の外に退かしめ中立の國々に對して一切の關係を絶たしめ得べき工風あるべからず、好し強ひてこれを爲さんと欲せば必ずしも其工風なきにも限らざるべしと雖ども果して斯の如く爲すときは他人の戰闘の爲めに中立國自身に損害を蒙ること勝けて言うべからざるものあらん、抑も両交戰國に對して共に其戰闘に助勢せず又其一に害を加へざるは中立國の義務なりと雖ども此不祥の戰闘の爲めに成るべき丈け自家の利益を損害せられざらんとするは亦明かに中立國の權理なるべし、故に權理義務の両立する限りは飽くまでも嚴正の處置を以て中立國の義務を尽すは勿論の事なりと雖ども唯義務あるを知て權理あるを知らず只管交戰國と關係を絶つに汲々として遂に自家の權理利益を忘却するが如きは中立國たる者の最も戒むべき無謀の處置と云はざるを得ず即ち今回の局外中立に關して我日本國人の最も注意すべき緊要の點なり

明治十六年日本の外國貿易六千四百萬圓此内一千二百萬圓は佛蘭西との貿易に係り一千一百萬圓は支那との貿易に係る即ち我貿易の三分の一は今回の交戰國たる佛清兩國の爲めに成立つものと知るべきなり然るに今此両國の間に戰を〓き〓て我國が局外中立の地位に立たんとするに付ては中立者の義務として從前の儘の貿易事務に從事すること能はず或は横濱、神戸、長崎等の造船所に於て佛清人の爲めに軍用の船艦を製造し又艤装すること能はず或は大砲を鋳造して其船艦に新載せしむること能はずして爲めに我國人が蒙る所の損失實に容易ならざるべしと雖ども此等は中立國の義務なれば是非もなしとし此義務を實行する爲めには政府は嚴重なる規則を設け自から法に違ふ者を罰すること勿論なるべく又國民にして政府の訓議ありしにも拘はらす猥りに軍器彈藥其他戰時の禁制品を舶載して交戰國の軍用に供せんことを企るの際洋中に於て他の交戰國の爲めに捕奪せらるゝことありとも是亦萬國公法の許す所にして自國政府が保護し能ふの限りにあらずと觀念し十分に中立國の義務を盡すべきこと勿論と雖ども是より以上尋常の貿易事務幷に尋常の慈善事業に至るまでもこれを停止し現在我親友なる佛國人我親友なる清國人に對して一切の交を絶つは盖し我日本國人の執るべき義務にあらざるべし好し或はこれを中立國の義務と云ふ人あらんも我輩はこれを我日本國の義務なりと認むること能はす何となれは我輩は自家一切の利益を沒却し道徳上の善行をも停止すべき程の義務あるを知らざれはなり例へは佛國又は清國の軍艦を神戸港にて艤装し戰塲に向て出發せしむるが如きは固より爲すべからざる事なりと雖ども風浪の爲めに船体破損し今にも沈沒せんとするの一命を存へて辛く長崎港に辿り付きたる佛國又は清國の軍艦あらんとせんに我軍艦は其港口に立塞がり中立港内には入るべからす船底の〓隙は塞くべからす石炭は與ふべからす雞豚米麥は賣るべからすとて看す々々一艦の人を水に葬るが如きは決して中立國の爲すべき事にあらざるべし其他の事總て比例に外ならざるなり唯此際我國人の注意すべきは佛國軍艦に限り其入港を許して清國軍艦にはこれを許さず或は又清國軍艦に限り其難破を救助して佛國軍艦にはこれを顧みずと云ふが如き偏頗不正の所業あるべからざるの一事のみ

今や佛清兩國は開戰したり戰地に密接の我日本國に於ては早晩是非とも局外中立を宣布して佛を助けず清を助けず又両國の一に向て故らに損害を加へざることを告知するの必要あらん此時に當り我國人殊に政府の當局者は飽くまで時勢國情に注意し中立國の義務を實行するに於て決して嚴酷に過くることなく他人を妨けず己を損せず中正不偏極めて適正の地位に立つの工風を盡さんこと我輩の切に希望して止まざる所なり