「淡水亦陷りたり」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「淡水亦陷りたり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

淡水亦陷りたり

本月十五日上海發本社特派通信員本多君よりの電報(十一月十七日時事新報佛淸事件?内)

に佛軍淡水を占領せしは實説なりとあり左れば佛蘭西の水軍は既に鷄籠を攻め取りて尚淡

水に向ひ十月八日の攻?には副提督「レスペ」も不利なりし樣子なりしかとも是れは唯一

時の勝敗にして詰る處の勝利は佛に歸し難なく淡水港をも押領して其地方より支那の雜兵

を追拂ひ彼の劉銘傳とか云へる大將も何れへか逃走したることならん我輩は此報道を得て

更に驚くものに非ず今後とても同樣佛軍と支那軍と相接する毎に仮令ひ其時の事情次第に

て一時佛の不利もあらんなれとも結局の勝敗は豫定して動かざるものなれば何れの地方に

て幾度兵を交ふるも支那敗して佛蘭西勝つとは我輩が今月今日より明言する所にして其趣

は醫師が患者を診察して其治不治を斷するに異ならず或は醫師の診斷に於ては必死と定り

たる者にても時として不思議の全快なきに非ずと雖とも佛淸の關係には不思議ある可らず

我輩固より時勢を察するの庸醫なるも佛淸の勝敗に於ては一毫の疑を容れざるものなり

凡そ人と戰て敗北を好む者ある可らず我輩隣國の傍觀者にして其勝敗を前見すること斯の

如く明白なるに當局の支那人は何故に之を知らざるや不審に堪へず或は之を知て尚戰ふも

の歟、益不審に堪へざる所なれとも退て竊に考れば支那人は敗を知て戰ふ者に非ず敗を知

らずして戰ひ、敗れて然る後に始めて敗を知る歟、或は敗しても尚敗を知らざる者なりと

評せざるを得ず今其次第を述べんに凡そ世界古今の人に惑溺の種類甚た少なからず酒食に

溺るゝ者あり博奕に溺るゝ者あり或は射利に讀書に宗旨に聖經に其惑溺千差萬別何れも皆

文明の人事に害あるものにして而して此惑溺悔悟の難易を問へば酒食博奕等の如き世間一

般に惡事と認る所のものは他より其非を忠告するにも易く又或は自身に悔悟することもあ

る可しと雖とも讀書に溺れ宗旨聖經に溺るゝ者に至ては其救濟の法甚た易からず一方の惑

溺は之を非として更に疑もなく進退は唯これを改ると改めざるとの間に存すと雖とも一方

は本來これを非とせざるのみか之を是として疑はざるものなるが故に自から其非を悟るの

晩きは無論仮令他より忠告する者あるも全く無効に屬するを常とす博徒に向て惡業を禁す

可しと云へば陰に之に從ふの意なきも陽には慚愧の色を現はして他の忠告の厚意を謝す可

し之に反して讀書先生を訪ふて轉學を勸め宗旨聖經の熱心家を誘ふて其頑愚固陋を解かん

とするときは之を肯せざるのみか俗に所謂却て逆捻に逢ふもの多し殊に其宗旨聖敎なるも

のが數千百年の人心に浸染して風俗習慣の根據と爲り一世長老の部分が之に粘着して堅固

なるに於ては容易に動かす可き手段ある可らず本來文明の眼より見れば酒食博奕等に溺

るゝは一個人の内行にして其事鄙劣ながらも其禍は廣大ならず實際に於ては古俗舊慣の固

陋こそ大に恐る可きなれとも其惑溺を救濟するに法なきは國の不幸と云ふ可きなり

左れば支那全國の人は古來儒敎と唱る一種の主義を奉して其古風の經倫に益したることも

多かりしかとも奉信の深き遂に惑溺の姿と爲りて自大自尊の妄誕に陥り中華より大なるも

のなし中華より強きものなしと自からこれを信して愉快を覺ゆる其樣は薄行無賴の少年が

酒色博奕に惑溺するものよりも甚たしく殊に長老の輩は心事の運動最も難くして曾て變通

の道を知らさるが故に其國の利害に關して如何なる事實の證を示すも毫も其信心を左右す

るに足らず即ち今回佛蘭西との葛藤に當りて我輩傍觀者が其勝算なきを知るのみならず支

那人の中にも稀には之に心付きたる者もありしならんと雖とも醇親王以下左宗棠彭玉麟の

輩滿朝の群臣斷して戰議を執て動かず而して其之を决するや爲にする所ありて一時の權謀

以て蝶々するに非ず中國の強大を以てすれば實に佛賊を掃攘するに足る可しと信して疑は

ざるが故に其戰爭の際仮令多少の敗北を取るも以て其本心を懲らすに足らず初めより敗を

知らずして戰端を開き東京の地方に敗し福州を鏖にされ鷄籠を掠奪せられても尚未だ失敗

の感を爲さず今回淡水の一擧其人心に如何の影響を及ぼす可きや臺灣島の柱石とも恃みた

る劉銘傳が手もなく追ひ拂はれても尚何とか説を作て自大自尊の舊主義に傲然たる可きや

畢竟儒敎由來の古俗舊慣に惑溺するものにして其執念の深きは酒色に溺るゝ者が殺命を犯

して尚顧る所なきに等し喫驚に堪へざる次第なり案するに方今淸廷當路の老臣は大抵皆道

光年間に生れ多少の苦樂を經て殊に其身を起したるは咸豐年中より同治の初め長毛賊の事

件に在りて何れも有爲の人物と稱す可きものなれとも如何せん其事件は内に騒乱なるが故

に之に關して功を立たる者も唯内を知るのみにして外を知らず長毛平治の後外國の關係は

次第に繁多を致すと雖とも其繁多なるに従て諸老臣は次第に老し、次第に老するに從て其

心事は益一方に偏し文武共に今の外國の文明に應して活動するの策を得ず去りとて亦後進

の人を活?に導ひて之に後事を託するの意もなく故舊團欒時に廿年前の夢を回想し南京の

秋風洞庭の夜雨これを物語りて得々たるが如き有樣にして遂に國の大計を〓る者なり都を

此流の老臣輩も昔年外國の關係少なき日に於ては其動功赫々たる者にして其餘光に依りて

國も治り身亦安く富貴の殘年を終りて芳を萬世に流す可き筈なるに不幸にして近年外交の

繁多なるに逢ひ之に對するの新工風を得ずして尚舊時の筆法を用ゐ其惑溺の極端は敵國と

戰ひ敗して尚敗を知らず座して大事の去るを觀るが如きは其身の不幸又其國の不幸、我輩

隣國の傍觀者と雖とも悵惆に堪へざる次第なり