「兵商不岐」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「兵商不岐」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

兵商不岐

日本の外國交際は既に三十年の星霜を迎へたり其間に國を開て專ら貿易を事とし且つは西

洋日新の事物を入れて我彼の交通次第に隆盛となり文明事業の進歩亦甚だ幼稚なりとは評

し難し然し此の三十年來の進歩にて日本は今の世界に十分獨立を保つことを得べきや如何

んと考ふるに前途倍々多事にして力を致すべきの處山の如くなれば今後も更に勉勵して人

も我も共々此文明の事業に勞力すべきは正に我國民の義務として見るも可ならん偖然る上

にて前途倍々多事なりと申す次第は道二つ兵と商と、國を建るには商を盛んにすべきこと

勿論なるが兵を備ふるも亦與に必要にして此兵商不岐の攻略を執行するに付ては文には學

問を勸め人智を開き農工商事を盛んにし一個人に取りては洋文洋語に通して只管西洋の事

情を知るの必要もあり又武にして軍艦を作り大砲を鑄り兵師を訓練するの傍らに其費用の

源をも饒かにする等官民公私の多忙限りなきことなるべし然れとも茲に兵と商と相對して

假に其兩極の働きを想像するときはその物反對の性質あるに似て兵と申せば只管軍備を張

り國の体面を護らんが爲めには支那は言ふに及ばず西洋諸國までも敵に引受けて鋒を交ふ

るの覺悟にして甚だ殺伐の風を帶び又商と申せば唯内外の商民同等に契約を取結び有無を

交易して我も人も其利益を受け人々殖産興業にのみ從事して他に事あるを知らねば平和一

途の業なるが如く思はれ兵を盛んにするときは國民より其費用を収むるが故に國民は貧と

なるの恐れあれとも商を盛んにすれば唯寶の入ありて出なきがゆえ富有となる勘定なりと

して考ふるときは兵商の兩者の併行とは思ひも寄らぬ無理事なりと雖とも其實果して兵商

の併行は六けしき者なりや我輩に於ては全く然かは思考せざるなり若しも國に於て兵商の

併行が出來難きものなりとせば人に於ても巨萬の財産を有する者は堅固なる倉庫を建つる

能はずと言ふと一般、天下世界に斯る不條理の事はある可らざるなり盖し兵を擴張するに

付ては多く費用を要することゆえ其額面より聞けば三千萬圓と云ひ五千萬圓と云ふの聲に

驚き甚だ大金にして此金額を國民の?(嚢正字)底に置くと置かざるとにては大に國民に

休戚を與ふべき筈なるに似たれとも茲に十九世紀世界の進運と申して富と云ふものゝ高莫

大に增加したるは皆人の知る所なるが租税とは即ち此富の幾部分を國民より収むる者にし

て此富さへ多ければ税額は多くなるも何も差支えなきなり喩へば猶ほ泉源の溢れ漲る河の

下流を汲むが如し一石の水を汲むと二石の水を汲むとにて其額にこそ大小はあれ泉源の增

したる以上は其水を涸すの恐れ無きが故多々益々汲み取るとも其泉源に對しては何の妨け

もある可らず今の世界の有樣もこれと同樣、近代政治機關の次第に手弘ろとなるに隨て租

税の高も著しく增加したるには相違無しと雖とも之と同時に富の增殖を見たらば其進歩の

度は果して租税の度に及はざるべきや如何ん我輩は寧ろ過ぐるあるとも及はざる無きを知

るなり左れば我日本國に於ても此十餘年間に年々少しつゝ租税の增加ありて其額面より考

ふるときは人民の負擔重くなりたる割合なれとも之と同時に十餘年間、日本國の富の增加

を計算したらば縱ひ一時の不景氣等にて變則の小波瀾はある可し或は此小波瀾を等閑に附

したらば大波瀾に及て挽回す可からざるに至ることもあらんと雖も是れは別段臨時の問題

として社會財政の大勢より十餘年來を平均するときは富の進歩は租税の增加に相伴ひて無

論不平均は無かりしならんと思はる故に統計表を作て此富の增加と租税の增加とを比較す

ることを得は我輩の所見に於て思ひ半に過ぐる所もあらん尤も斯く言ふと雖とも我輩は漫

に增税を願ふに非ずして其實、錢が入らずに國の立往く銘策もがなと思ひ居る處なれど今

の世界に對峙する我日本國として見るときは是非共に兵無かる可らす、兵を張るには第一

に費用なるが偖其費用とは即ち我輩人民が各自の資力に相應して國の爲めに受持つ割〓な

り唯增税と云ふのみにて其額を聞けば甚だ重きに似たれとも年々に增加する此富との比例

より見たらば兵の費用の如き多少の增加素より以て憂ふるに足らざるや明なり百にして一

を取ると萬にして百を取ると數に於ては變りあるも其實は相同しき者と云ふべし故に兵は

民力を害すなど云ふは昔し封建割據戰乱の世の談にして國民一致外國に對峙する今日には

要なき憂へにして兵無ければ商振はず商振はざれは國立たず牛豚魚肉の滋養を食はずして

漫然筋骨を逞くせんとするは痴なり苟も身体の健全を欲すれば其費用の如き聊か顧みるに

足る者ならず其證據には

今の英國の如き、又前日の荷蘭の如き又其以前地中海沿岸の諸小共和國の如きは規模の大

小一ならざれとも兵強くして商盛んとなり商盛なるときは其富增加するが故に兵備の費用

與に共に增加すれども別段に人民の生力を殺ぐことも無く唯兵の力の強きほどに商も之に

連れて彌よ盛大に立至りたるは古今の史を讀みたる人々の知る所にして今更我輩の喋々を

用ひず然れとも人の感覺に訴へて兵と云ふときは奪畧遠征のみを事とする如くに聞え又歐

洲の強國も古來より兵を以て此奪略遠征を事とし今回の佛清事件も實は佛國が臺灣島の奪

略なりと雖とも兵の用は獨り此に止まらずして即ち此奪掠に抗抵する正當防禦の利器たる

が故に我國に於て兵商の併行を要すると云ふ所以は唯兵を以て商を保護し商を擴張するに

在るのみ左るを或る者は言ふ兵を強くするとは何國と戰ふの積りなるか其敵は支那にあり

や英にありや佛にありやとて諮問する者さへあれとも我輩の所見にては敵と云へば世界上

皆な商敵ならざるは無く友と云へば世界上亦皆な商友ならざるは無し唯其未だ敵と友との

區別判然たらざる間は腰邊の一刀决して脱し難き者と知る可きのみ今日世界上に商を以て

國を建てながら獨り兵なきは亞米利加合衆國の一あるのみなれとも其米國も脱刀にて立て

通す能はざるの〓遇に指迫る所以は我輩が曾て既に論述したる所にして若し其言の實際に

違ふ無くんば米國も亦兵を備ふるに至らん殊に米國人民の如きは怯にして兵を備へざりし

に非ず唯勇にして備へざりしのみ開國僅に百餘年にして獨立、南北の兩役には多年の苦戰

財を棄て人を殺して其國力尚ほ餘りあるのみならず駸々富饒の境に進まんとせり故に兵備

の必要彌よ指迫ることもあらばその商國にして兼て兵國となる亦旦夕無造作の次第なるの

み我日本國に於ても十分の商國たらんと欲すれば務て十分の兵國となるべし兵商の併行に

非ざれば日本國の獨立に良途なきは讀者諸君と與に我輩の深く信して疑はざる所なり