「外交政治社會の日月」

last updated: 2019-09-08

このページについて

時事新報に掲載された「外交政治社會の日月」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

外交政治社會の日月

政治社會の三箇月は三箇年に直るとは現に目下の有〓ならん竹添公使が朝鮮に再渡したる

は去年十月下旬の事にして朝鮮事變の起りしは同年十二月四日なり即ち公使入韓の時は今

日を去ること凡そ三箇月にして此間に日支韓三國の政治上の變動を生したることは實に

少々ならず公使は去年中歸國の處再び任所に赴き十一月二日には久々にて彼の國王陛下に

拝謁し殊に今度は日本政府より朝鮮政府へ特別の友意を表するために彼の償金未濟の分四

十萬圓を返附する等にて韓廷の滿足一方ならず又彼の朝臣の内にても兼て日本國の文物を

欽慕し居る輩は此償金返附の擧を見て日本政府の厚意を一入感〓し交情日に親密にして餘

念あることなし又韓廷の内部に於て金玉均、朴泳孝、洪英植、徐光範、徐載弼の徒は平生

國王の信任厚くして時に國事改革の内命もありし由の處十二月四日郵征局の一擧に大臣閔

泳翊負傷して變乱の端を開き日本公使竹添氏は國王の請求に應し兵を率ひて王を慶祐宮に

護り同夜同宮内にて閔台鎬以下六大臣の戮せらるゝありて金朴の徒は大に用ゐられ漸く改

革の事にも着手せんとする其時に當りて支那の兵が大闕を攻め日本兵に向て彼れより砲發

してより竹添公使は仁川に引揚け金朴の徒も國王に告別して行方知れず此變報支那に達す

るや清廷にては南陽に數艘の軍艦を遣り呉大激なる者は陸兵を率ひて京城の地に上陸屯營

する最中に十二月十三日千歳丸の便にて日本へも電報到來同月下旬井上外務卿が全權大使

の命を帯ひて渡韓一月八日日韓の談判調ひ竹添公使は大使と共に歸國したり

右は竹添公使が去年十月下旬着韓の時より今日まで凡そ三箇月間の紀事略にして此間に日

支韓交際上の變を云へば日本政府より朝鮮政府に對して殊更に償金を返附する程の厚意な

りしもが今は更に端を改めて別に新に償金を促かすこととは爲れり〓に思も寄らざりし事

なり朝鮮國王は金玉均朴泳孝の流を用ゐて大に國事の改革に着手せられんとしたるものが

今は金朴の一類は逆賊と爲りて其行方さへ知れず韓廷の全權は歴然支那人の手に歸して朝

鮮爲中國之所属の一句は名のみに非ずして益其實相を現はすものゝ如し金玉均朴泳孝輩の

素志に背くのみならず曾て韓廷の内議も水泡に属したることならん事の變化速なりと云ふ

可し、在京城の支那兵も大院君の亂後次第に其數を?(減にすい)し既に去年五月の頃よ

り既に?(減にすい)したるものを又半數として十二月六日の變にも支兵の現數は六百内

外なりしものが今は增して二三千に達し日本兵も僅に一中隊なりしものが其中隊を其まゝ

にして別に一大隊を加へたるは日支相對するの情も此に端を改めたるものに似たり又日支

の交際は前年より台灣事件等にて少しく面倒なる聞もありしかとも一時の風雨晴れて痕な

く至極親睦なるのみならず是れまで曾て一度も兵を交へたることなきものが去年の十二月

六日には支那兵と日本兵との間に紛爭を生し終に彼より砲發に及び互に死傷ありたり(十

二月十五日官報)日支間未曾有の事變と云ふ可し

人間社會に政治交際の事は昨非今是實に日支韓三國の有樣が僅に三箇月の間に斯くも變化

せんとは我輩の想像外にして看客諸君と雖とも失敬ながら九十日先見の明はなかりしこと

ならん鬼神に非ざるより以下は明日を知る能はずと自から思ひ明らむる其折柄頃日朝鮮の

京城より一報を得たるに韓廷の議は獨逸人に依賴することに内决したり固より支那人の差

圖なれば果して之を實施することならん元來穆仁徳なる者は獨逸政府の筋に容れられず支

那の李鴻章に投して李氏の愛顧を蒙り其推擧に由て目下朝鮮政府に職を奉する者なれとも

今度は獨逸政府より此穆氏を利用して百事の周旋を爲さしめ韓廷に勸めて終に獨人に依る

の議を成し其着手の初は八道金山の採掘を獨人に許し又獨逸より軍人を聘して兵制を獨逸

風に組織するとのことなり(一月廿八日時事新報事變欄内)日支韓の葛藤纔に治まらんと

して尚未た其結局に至らず頻りに応配する其間に獨逸人は早く既に經書する所あるものゝ

如し此一報果して眞實にして獨逸人が朝鮮に入込み兵事に商業に漸く關係を深くするに至

らば今日既に斯くまでに變化したる日支韓の交際も亦或は一變するなきを期す可らず事相

の變幻無窮なりと云ふ可し十九世紀電氣蒸氣の世界は人事皆人の意表に出るもの多きが故

に未來を想像するは姑く扨置き現在に起りたる變に應するさへ尋常一樣の事業に非ず政治

家も亦心配多しと云ふ可し盖し古人は三年の事を三年に行ふたれとも今人は三年の事を三

箇月に成さゞる可らず亦多忙なりと云ふ可し我輩は竊に謂らく朝鮮の開國を促かしたる者

は我日本國にして其關係を喩へて云へば米國人が始めて日本を開きたるものに異ならず加

ふるに日本と朝鮮とは海上の路も近くして往來も便利なれば日本人の朝鮮に在る者は他の

諸外國人に對して恰も東道の主人と爲り自から以て我外交の一助にもと豫期したるに何ぞ

料らん今日は是れ交際の親疎に路の遠近と其交りの新舊とを問ふを許さず東道の主人却て

東道の客たるの奇觀もあらんかと思へば心甚だ愉快なるを得ざるなり然りと雖とも電氣蒸

氣は他人の專有に非ず他に任して他の便利を成す程に我れに取れば我が用を爲す可し其用

を爲すと爲さゞるとは電氣蒸氣の罪に非ずして之を用る人の氣力に在て存するのみ我輩は

今日尚我同胞有爲の氣力を信じて疑はざるものなり