「國權擴張は政府の基礎たり」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「國權擴張は政府の基礎たり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

國權擴張は政府の基礎たり

政府を立てゝ一國を治めんとするに人心を収攬して其歸する所を一ならしむるの必要なるは今更ら云ふにも及ばざることなり而して其人心の一に歸する由縁を尋るに此政府なれば天下太平にして國民各業に安んず可しとて喜ぶものあり、此政府の法律なれば私産生命〓〓を保証するに足る可しとて依頼するものあり、此政府の軍〓なれば亂賊の起るあるも忽ち之を平治して兵禍に苦しむこと無〓可しとて安堵するものあり、何れも〓〓現在の政府を信ずる所以の元素にして政府は此人心を収攬して始めて其基礎安全なるものと云ふ可し然りと雖ども凡そ人〓の性質として必ずしも一身一家の幸福のみを以て足れりとするものに非ず慾の種類も甚だ多端にして一を得れば又隨て他の二を求め隨て得れば隨て求めて殆ど際限ある可らず故に今天下太平にして業に安んじ、法律正明にして保護厚く、内乱の憂なくして兵禍を免かるゝと云ふも是れは國内の事にして然かも其幸福は一身肉体上の幸福に止まりて尚未だ人の慾の畫きたるものに非ず然り而して其慾の最も大なるは何ものなるやと尋るに負るを惡んで勝つを好むの心即是れなり人民が一國内に生々して何々國人と名乗り其何々國の名は貧富貴賤智愚の別なく銘々の姓名の肩書と爲り生れて死するまで免かる可らずして子孫に至るまでも亦然り例へば吾々の生國は日本にして生れて以來日本國人と名乗り死に至るまで替はることなく子も孫も吾々と同樣に日本國人と名乗りて此名ばかりは如何なる事情あるも身に附き添ひて離す可らざるものゝ如し左れば斯くまでに身に附きたる此生國が他國と相互に交際するに當りて仮令ひ之を友として徃來するにも又敵として戰爭するにも他に負るを惡んで勝つを好むは誠に當然のことにして之を國人の天賦至情と云ふも可なり故に一國の政府が國中の人心を収攬して施政の基礎を固くせんとするには内治を巧にして全般の幸福を進むるの要は勿論のことなれども尚この外に注意して他國に對するの交際政畧を活?にし國民をして政府を恃むの心を生ぜしめ此政府なれば外交に抜目あることなく文は至極文にして一言一行も他國人の侮を取らず武は至極武にして斷然時機を誤ることなからんとて只管政府に委任して之を信ずるの念を厚くせしむるは施政の一大緊要事なり即ち人の慾の最も大なるものに訴へて其至情を制するものなればなり、即ち負るを惡んで勝つを好むの慾を滿足せしむるものなればなり、上古神功皇后の三韓征伐は其紀事さへ詳ならずして如何なる成績なりしや知る可らずと雖ども今日民間に於て三韓云々と云へは同時に神功皇后の御名を思ひ出して如何なる無智の小民婦人女兒に至るまでも神后の威名を慕はざるはなく御歴代の中にても一種特別の君として崇め奉るが如し下て中世北條時宗豊臣秀吉の如き今に至て其武名を轟かし假令ひ或は其人の擧動に多少の瑕瑾あるも其瑕瑾をば云はずして功名のみを稱贊するは畢竟するに其功名なるものが外國に關する事にして日本の國權に影響するが故なり國民の天賦負るを惡んで勝つを好むの心を滿足せしめたるが故なり千百年の往事今尚これを人心に銘して忘るゝこと能はず况や今日現に國權如何の問題あるに於てや天下無敵の人民に於て之を度外視せんとするも得べからず仮令ひ或は一時これを度外視したるが如き趣あるも是れは唯一時の事にして日月を經る其間に折に觸れ事に當りて偶然に之を思ひ出し到底其記臆を消滅するに由なく何年何月何の事に付ては我國權は大に伸びたりとて之を喜ぶと同樣に若しも聊かたりとも其權威の退縮したる痕跡あれば決して之を忘れずして人民無窮の憂苦たる可し

左れば今回朝鮮事變に付日韓の談判は首尾能く相濟み其新條約の目は既に之を官報に見て吾々人民の甚た滿足する所なれども日支の關係に付ての公文は去年十二月十五日の官報に支那兵我れに向て先つ彼れより砲發したりとの一報のみにて今日に至るまで其紛爭の落着を聞かず何れにも我政府は必ず支那政府に向て大に談判を開き文談武斷何れの道にても吾々をして中心より滿足せしむるの日ある可きは我輩の信して疑はざる所なり如何となれば我政府は既に内國の太平を致して人民も既に内に滿足する此時に當りて尚國權擴張の時機を空うせずして益政府の基礎を堅くするの得策たるを知るものなればなり