「朝鮮の近状 」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「朝鮮の近状 」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

朝鮮の近状 

明治十五年朝鮮には大院君の乱あり暴兵暴民來りて日本公使館を襲ひ非常の損害と侮辱とを加へたるを以て日本政府は朝鮮政府と新たに條約を結びて公使館護衛の爲め一隊の兵を京城内に屯在せしむることとしたり然るに此事變に關し一毫の縁もなき支那政府は忽然大兵を朝鮮に派し其將士をして國内の政事に干與せしめ京城を鎭守すると稱して永く駐兵するの用意を爲し城内數箇所に陣營を設けて日本兵營と對峙する其有樣は應仁の其昔山名細川の兩黨が京都の街に壘を對して戰を挑みし事などをも思ひ出されて凄ましく最初は朝鮮の暴兵暴民を防禦する爲めの日本兵も今は寧ろ支那兵の乱暴に備ふるが如き觀を呈し世人をして朝鮮人の愚蒙を憂へずして轉た支那兵の乱暴を恐れ一日支那日本兩兵の間に衝突の沙汰あるべきかと疑懼せしめたり然るに果せるかな去年十二月上旬朝鮮政府更迭の騒擾に際し支那の將官等は大兵を率ひて王闕に迫り守護の我日本兵を砲撃すると同時に令を一般の支那人に傳へて男女老幼の別なく一切の日本人を屠殺せしめたりこれが爲めに今回の朝鮮事變たる朝鮮に對して我日本兵の害辱を回復すべきもの固より甚だ大なりと雖ども其重もなる部分は朝鮮に屬せずして支那に屬し朝鮮事變即ち日支事變なりとの眞相を現はしたり故に本年一月井上全權大使が京城にて取結びたる日韓の新條約に由り朝鮮政府をして謝罪使を送らしめ罪人二名を刑せしめ償金十三萬圓を拂はしめて我害辱の一部分は既にこれを拭ひ得たりと雖ども尚ほ他に其大部分の殘留するありて事の結局に至らず是に於てか我政府は更に伊藤全權大使を派して北京に抵らしめ去年の朝鮮事變に關して目下正さに日本支那兩國間の談判に取掛らしめたり

斯の如く去年朝鮮の事變に關し日本の全權大使は今正さに支那に抵りて事の始末を談せんとするの時に當り顧みて朝鮮國内の事情を察するに甚だ不穩の形勢あり第一去年變乱の首謀者實働者たる支那兵は依然として京城内に駐屯し變乱以前世人をして應仁の故事をも思ひ出さしめ日韓人の間にあらずして日支人の間に不慮の變事あらんことを疑懼せしめたる原因は今日一も除却したるものあることなし曩きの呉兆有張光前等をして叉例の如く日本人屠殺の令を下さしめ例の如く其手下の兵を率ひて日本兵を襲ふこともあらしめば去年の變乱を再び今年に見ること難きにあらず實に京城の治安は石を抱きて深淵の薄氷を履むに異ならざるなり支那兵にして依然京城に駐屯する既に巳に甚た危険なり然るに今叉第二の乱兆の發生したるありと云ふは朝鮮人が支那兵に對して抗敵せんとするの趣あること是なり本日の朝鮮事變欄内井上角五郎君よりの通信にも見ゆる如く本月二日仁川着の小菅丸便にて伊藤全權大使支那に派遣の報知京城に達するや否や朝鮮上下の人心忽ちに騷ぎ立ち今にもあれ京城駐在日支兩國兵の間に戰爭の始まる如くに言觸らし中には豫め乱を避くるの意か既に老人小供を城外に送出す者もある程にて人心の洶々は日に益甚たしき折柄現政府事大黨中にて第一に指を屈せらるゝ閔泳翊が自家護衛の事に關し何か支那兵の士官と爭論を起し彼是混雜の際其家僕が過ちて支那兵を銃撃したるより更に叉爭論騒擾の熟度を進め閔氏は微服して京城を立去らんとする時支那兵に見出されてこれに護衛せられ人民は支那兵の所置を憤りて抵抗の色を現はしたるを見て支那兵は四方の城門を警護し叉は嚴重に巡邏する等相互に敵の圍中に在るの想を爲し獨り支那人と朝鮮人とのみならず内外人一般に日夜不安の情ありとの事なり斯の如き状況にして數月連續することあらんには何時何樣の行違ひにて朝鮮人と支那人との間に變事起り其災延いて在京城仁川等の我日本人にまで及ぶことなきを期すべからざるなり

今や伊藤大使は清廷の全權大臣李鴻章と北京或は天津に會して去年の朝鮮事變に關し前を懲らし後を善くするの談判を開かんとせり此談判は如何に捗取り如何に結局に至るべきや我輩の知る所にあらずと雖ども兎に角に我輩の心頭に懸かるものは彼の京城の支那兵なり支那兵が例の如く日本人に對して手を下すも叉は朝鮮人に對して乱暴を働くも或は朝鮮人が支那兵に對して攻撃を試むるも總て皆朝鮮の大騒乱に終らざるを得ず何卒我大使は一日も速かに日支の談判を結了し早く支那兵を歸國せしめて禍根を其未た再生せざるに斷絶せんこと我輩の希望に堪えざる所なり