「佛国の共和政治」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「佛国の共和政治」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

佛国の共和政治

我輩は四月一日を以て佛國内閣辭職の電報に接してより忽ちにしてフレシネイ氏大統領の命を奉して新内閣の組織に從事したりとの報を聞き忽ちにしてフレシネイ氏が其新内閣組織を辭したりとの報を聞き又忽ちにして共和黨のコンスタンス氏が大統領より新内閣組織の依囑を受けたりとの報を聞きたるまでにして未た其後の報道を得ざればコンスタンス氏新内閣組織の結果として佛國は一層主戰に傾く可き歟將た平和に傾く可き歟我輩は之を此瞬間に斷言する能はず唯佛内閣交代したりとあれば其交代者は主義と所見とに於て多少前内閣に異なる所あらん果して然らば今後佛國の支那政略は和にも戰にも稍從來の方向を變し其方向の變化如何は必ずや東洋の國交上に影響する所ある可しと推想して其次第は既に兩三日來の紙上に開陳せんが今又其推想の進路を變しフヱリー内閣辭職以來の出來事は佛國自身に向て如何なる激動を與ふ可き歟と思考するに實は佛國人をして共和政治は頻りに當局者の交代を促し時を以て功を責めざるが故に遂に永遠偉大の業を成さしむる能はずとの思想を抱かしめ早曉共和政治と云へる政体の運命を危うするに至ることなしとも斷言す可らざるなり今其故如何と云ふに佛國にては共和政治の常態として政府の意見前後一個人より生ずるが如きことなく時の佛國の態樣にて前後の脈絡を絶つことあるが故

に國交政略上何事に就きても其當局者をして永く其局に黨らしめ其成功の責任を長日月間で依據せんとすることなく頻りに之を交代せしめて其交代の度毎に前功の一擧を擧げて之を水泡に歸するの弊なきを得ず試に兩三年以來佛清兩國間の事局に當りたる人數を數ふるに文官と武職とに論なく其交代の頻々たる實に驚く可き程なり初め東京事件に就き支那と談判の局に當りたるものは時の外務卿ラクール氏なりしが同氏の説は專はら主戰急進に在りして以てフヱリー氏宰相を以て外務卿を兼任することと爲りらくーる氏は遂に辭職したり又陸軍卿カムベノン氏はフヱリー内閣と議合はざるを以て其職を辭しレワール氏之れに代るもなく今回の内閣交迭ありたれば外務陸軍の兩卿も勿論交迭せざるを得ず又顧みて在東洋の文武官たりしものを見るに最初紅河境界の談判は當時北京駐箚公使たりしブウリー氏之れに任したりしに其談判佛國の意に滿たずとて佛政府はトリトリウ氏を以て之れに代え尋てばーとのーとる氏を以て又々之れに代らしめその他みろー將軍が安南來着匆々本國に召還せられたるが如き孰れも一方の事局に當りて其意見を行ふの時なく又其行事の成否を判するの時もなきに或は其職を罷め或は本國に召還し時を假して功を責むるの工夫なきが故に屡ば行ふて屡ば廢し大小の事功之を十全する能はざるものゝ如し特に今度の内閣交代の如き辭職内閣と之れに代らんとするものとの間に何程の異議あしりに起りし歟其異議の距離は遂に相近く可らざるものなるや如何、是れ亦未だ判然せざることならん然るに輕率にもフヱリー内閣の辭職を促し隣家と喧譁の最中に家内の兄妹相聞きて爲めに其輕侮を來すが如き成跡あるは佛國朝野二三の政事家はイザ知らず佛國人一般の感情に於ては之を心に慊しと爲さゞる可し或はその不快の極端に至ては程遠からぬ十餘年前ナポレヲン第三世の治世を追想し其治世に在ては佛國の武威四方に輝き英國と聯合して強露の鉾をクリミヤの半島に挫きたるを始めとし英軍と同盟して北京城を陷れ内に在ては巴里城の盛觀、天下美麗精工を曲尽したる有樣を以て之を今日の事情に參照し目下支那海に在るクルベイ提督の鉾、鋭は則ち鋭なりと雖とも一擧に北上する能はず近くは諒山の一敗にて堂々たる佛國の貔貅、支那兵の爲めに驅逐されたること等を想考すれば佛蘭西男兒の侠氣に於て東望憮然たらざるを得ざるならん其際或は往事を想ひナポレヲン三世をして今在らしめば、佛國の武威國光をして斯くまで曇り且つ屈せしむることはあらざる可しと漸く懷舊復古の念を起して今の共和政体を厭離し輕慄過激にも之を變革せん抔企つるものなしと云ふ可らず左れば今後佛國にて新に内閣を組織するコンスタンス氏の意見若し平和に在れば勿論のこと、或は一層主戰の傾きあらしむるも即時赫々の功を東洋に立て以て佛國人の鬱憤を慰むるに非ずんば能く内部の人心を鎮して共和國政府をアルプス山の安に措くこと能はざる可し兔に角に佛國共和政治の任に當るの諸士は今少しく心を用ひて外は列國の儀を説き内は人心の調和滿足を買ふの工風を改むるにあらずんば度々の思ひにて折角打立てたるの今の共和政治も遂には流沙の上に築きたる城壘と其運命を同じくするの恐なしとも云ふ可らざるなり