「不景氣の救治策」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「不景氣の救治策」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

不景氣の救治策

今の不景氣の原因は决してこれを一二の事に歸すべからず必ずや種々の諸因集合して遂に

此一大不景氣を成したるに相違もあるまじ併しながら又此議因中に就き特に大勢力を有す

る原因は不換紙幣の流行並に〓て其流通額の頓に減少したる事より外ならずとは我輩の常

に論辨する所にして又與論の既に是認する所なり

明治元年以後明治十年以前國中既に不換紙幣の流通するあり然れとも其額未だ十分に大な

らずして尚ほ汎濫の〓少なく正貨と紙幣との價格の差異は極めて僅少なるものなりし然る

に明治十年に西南の大乱ありて政府は差當り其軍費を得るの道に苦しみ一時の權策大に紙

幣を増發して急の需めに應じたり又此頃よりして國立銀行の設立漸く世の流行を成し政府

の紙幣増發に加ふるに百五十餘行の銀行紙幣發行を以てし両紙幣合して七八千萬圓の通貨

一時に國内に横流したるを以て流石に感覺の遲鈍なる日本市塲も爲めに大に變動されざる

を得ず物價日々益騰貴して日々益其速力を加へ遂に米は一石の價紙幣十二圓銀貨は一圓の

價紙幣一圓八十錢の聲を聞くに至れり此際日本國内の諸業は其農たり工たり商たるを論せ

ず悉皆大景氣大繁昌ならざるはなく今日五十圓にて求めたる田地は明日七十圓と爲り今日

十圓にて仕入れたる織物は明日十五圓に賣れ賣るも利と爲り買ふも利と爲り一切萬事皆利

ならざるはなく全國一人として損を被りたる者なし唯其利の多少に相異ありしのみ人間は

一種不思議の動物なり業榮ゆれば勇氣生し錢多ければ徳行高し人々徒手に天下の大業を企

て進むことを知て退くことを知らず貸金は必ずしも返濟を期せず借金は必ず期を愆たずし

て元利を完納す斯る世の中に在て市塲の活溌ならず信用の厚からざらんことを欲するも得

べからざるなり是れ即ち不換紙幣濫行より生する第一の結果にして明治十二三年前後の日

本の景况なり然るに紙幣増發の爲め物價の騰貴するも一たび既に其達すべき頂巓に達すれ

ば漸く其進行を止めて一處に留まらざるを得ず即ち物價に格外の變動なく或は時に下落の

兆ありて全國の農工商民等が漸く不景氣の歎聲を發せんとするの時節なり此時に際して政

府は財政の針路を紙幣減少の方向に取り今年幾百萬圓を減し明年幾百萬圓を縮め年々歳々

全國流通紙幣の額を減したる其結果は正しく前年紙幣増發の際の反對症を現はし全國の市

塲物價日に益下落し諸業日に益衰頽し昨日百圓の田地は今日七十圓と爲り昨日七圓の織物

は今日五圓と爲り十二圓の米は五圓と爲り一圓八十錢の銀貨は只の一圓と爲り隨て全國農

工商共に一業として利を得るに適するものなく賣れば損を爲し買へば損を爲し一擧手一投

足皆損耗の種ならざるはなし人間の性は怯なり再三再四の失敗に落膽して夫れよりは袖手

默坐唯其日其日の命を繋くを得ば足れりと爲し敢て事を企てず平常律儀一偏の農商工業者

も相濟まずとは知りながら無きものは是非もなく折角の恩借金も借りたるまゝに敢て返さ

ず斯る世の中に於ては全社會に個の活氣なく金錢上の信用は朋友親戚の間と雖とも地を拂

て又見るべからず是れ即ち明治十六七年來の日本景况にして濫行の不換紙幣を大に減少し

たる第一の結果なり我々は今正に此結果の中に彷徨して日夜不景氣の呵責に苦しみ居るな

明治十二三年頃の虚影の景氣は紙幣濫行より來り明治十六七八年の實體の不景氣は通用貨

幣の減縮より來る人爲の工風を以て景氣を装ひ又人爲の工風を以てこれを〓〓したれば差

引勘定して貸借の差なきが如しと雖とも其實は决して然らず何となれば不換紙幣濫行の災

は猶ほ水火の災の如し洪水汎濫して人畜田畑を〓流し猛火威を逞くして十萬の人家を一炬

に附す此水を治め此火を消すは災を止むる第一策にして水火社會の最急務なりと雖とも唯

水去り火消えたるのみにして忽ち社會の有樣は水火以前の常態に復すべし治水消火の功は

前日堤を決し火を放ちたる罪を償ふに足るべしと信するは頗る誤謬の見たるを免かれざる

べし水は去りたるならん火は消えたるならん然れとも社會を一望して人家田畑も亦共に消

失したることを見出すならん若し此水此火なかりせば今日此社會の有樣は幾層の繁榮を呈

しつゝあるならん焼けたる家は再び建てざるべからず流れたる田畑は再び開墾せざるべか

らず水火後の社會の實况實に哀れなりと云ふべきなり不換紙幣の災も亦斯の如し一旦其濫

行を止め相當の流通額に復せしめたりとて從然社會に被らせたる其災害の同時に拭ひ去ら

れたるにはあらず紙幣を減して災を止むる事と最初其濫行して社會に遺し置きたる災害を

償ふ事とは全く二個の別事件なりと知らざるべからず此災を償ふの事は人爲の工風に属す

其事も亦必ず多々なるべし然れとも皆金と勞とを要するものなるや明白なり若し金と勞と

の費を憎まんには止むを得ず人間世界自然の能力に依頼して再び常態に復するの法を求め

ざるべからず今我日本の不景氣を救治するは自然の働きに任せて差支なきか將た別に人爲

の方策を要するか我輩は聊か我輩の見る所を記して憂世の士に質すことあるべし