「獨逸國の着實極まるは如何ん」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「獨逸國の着實極まるは如何ん」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

獨逸國の着實極まるは如何ん

今日東洋の貿易に向て互に威力を爭ふ國々を擧くれば英米佛露獨等その重なるものなり中

に就て米の一國はその執る所の外交政略專ら平穩着實を旨とし通商上の利益爭はざるに非

ずと雖とも土地を掠奪し碇泊港を占領せんなど云ふ野心は無く日本がこれに對するにも甚

だ安心なる次第は既に世の人の許す所、畢竟米國の平和攻略はその國柄の致す所にてこれ

は暫らく取除けとなし他の英佛露諸國の擧動に至りては近來實に容易ならざるものあるが

如し勿論、今の國交際の常法に於て容易に人の國を奪ひ人の土地を掠めんことは能はざる

譯合なれとも又一方より考ふるに通商利害の關係彌々緊切なるに至るときは軍艦兵師にて

これを保護しその保護尚ほ足らずして更に恰好なる土地を求めこれをの通商の中芯となし

且つは兵師の屯在所と定めて大に威力を奮はんと欲するも實に已む可らざる次第ならん乃

ち彼の英國の如きは早くその東印度の領地を踰て香港に據守し專ら東洋貿易の權力を握ら

んとせしが近來交通の便次第に開けて商賣競争の集點は更に極東洋に推し移り特に其他邦

國漸くその手を弘げんと勉むる折柄この頃に至りては朝鮮海の巨文島を占領しこゝに東洋

艦隊の石炭港を開きその極東洋に對するの商權を擴張せんとするは正に隱れ無きの事實と

云ふべし又佛蘭西は昨年來安南東京の地方にて經路を勉むる傍らに臺灣島を占領し澎湖島

を奪ひ多分は今回の天津談判にも此等の土地に對して永久の所有權を申張らんとする形迹

あるはこれ亦人の知悉する所なりとす次に露の一國がその圖南の志を懷き浦〓斯徳の一港、

冬間結氷に閉ぢらるゝ不便ありては鵬翼の伸ばし難きを知り同く極東洋に港塲を開かんと

企て朝鮮の東南岸既に露の約束港ありと云ひ又は近頃に至りて濟州島を占領するの意あり

たりと云ふ如き孰れにも其心事の在る所言はずして明白なり要するに英佛露の三國はこの

東洋に商賣貿易の權を爭はんとて腕力以て土地を占領し土地を獲て後は又その商利を廣け

商業腕力兼帶の手段を以て雄圖を東洋に張らんと欲すその心事知るべきなり

右の外東洋の貿易に大にその利を爭はんとする一國あり即ち獨逸にてこの頃は其商賣頗る

手弘ろとなり今日支那の沿岸、南は香港廣東邊より厦門、福州若くは揚子江一帶、上海、

漢口その他の港塲又北にして天津芝罘等に出入する各國船舶の中、英國が其第一位に座す

ることは今更言ふに及はざれともこれに次では獨國の汽船帆船最もその多數を占め支那沿

岸の貿易を左右する第二位の邦國たるものは米にも非ず佛にも非ずして先つ指を獨國に屈

せざる可らざる程なりこの事實は現在支那開港塲の貿易表を調ふれば明白なる次第にて米

佛露の三邦支那の貿易に盡力せざるに非ざるも獨逸にはその歩を讓る所あるなり尤も支那

の貿易品中、何國が多く其消費者たるべきやと云へば獨逸の如きは無論その主座に在るこ

となるべしと雖とも貿易貨物を運搬し若くは賣買取引するに付ては該國商民の關係する所

甚だ廣し又支那の開港塲に居留する外國人の員數を見ても英米を除けば獨國の商民最も多

くその支那に對する商賣上の威力にては佛蘭西の如きは大に及はざる所あるが如し獨逸人

が支那に對する商賣の利害は斯く世人の想像よりも重きものなりとして夫より他の東洋の

局面を視るに朝鮮の外國貿易は尚ほ其の幼穉にして未だ何國が多く權力を有すると云ふほ

どの度には達せずと雖とも今後その貿易の繁昌なるに至ることあらば今日支那沿岸の通商

に日増し勢力を占めつゝある獨逸商民がその利益を攫取するに躊躇せざるべきは我輩の信

して疑はざる所なりとす支那並に朝鮮に對して獨逸人が政事上に權勢あることはこゝには

一切問はず唯通常貿易の點に於て見るもその次第に實力を占有しつゝあることは决して疑

ひ無きなり又露領浦〓斯徳港の如きに至りては獨逸の商人最も多くして同港の貿易は重に

該商人の掌裡に歸し同港限りの處にては獨逸人の商勢獨り盛んにして殆んど他の國民を見

ざる有樣なる由、現に同港に在りし日本商人の所説なりその實際如何は姑く擱き兎に角に

獨逸人が東洋にその商權を擴めんとするは蔽ふ可らざるの事迹にて唯我日本との通商取引

こそ左迄重大の點に達せざるもその大体、東洋の貿易權を掌握せんとする勉強計畫决して

偶然に非ざるなり

獨逸國民が東洋の貿易に與て實際の力あること前記の次第なるに獨り怪むべきは該國政府

の擧動甚だ平穩着實にして東洋の寸土尺地も其意に介せざるが如く英は巨文島に據り佛は

澎湖島を占め露は又朝鮮の沿岸に不凍港を占領せんとする抔云ふ折柄、獨逸の一國は悠然

長嘯して殆んと東洋の事を知らざるものに似たり斯く外見にては獨逸の政略は恰も米國の

政略に齊しくその商民が自在に東洋の貿易を經營するに放任し徹頭徹尾政府の力にてこれ

を保護せんとするの意思を有せざるに似たれとも内實は大に計畫しつゝありて突然百雷の

耳に落つるが如く何れの邊何れの處にかその據を以て貿易の中心と爲すへきの地を占領し

て大に人を驚かしむることなきを必すべからず何分にも解し難きは極東洋に對する獨逸政

府近來の擧動にして彼れ到底米國たるを學て止む者にあらざるべく巨文、澎湖、濟洲の諸

島を外にして獨逸國の着目する港塲は廣きこの極東洋に必ず許多あるならん唯我輩これを

知らざるのみ