「不景氣救濟策」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「不景氣救濟策」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

不景氣救濟策

今の日本の不景氣は人爲の不景氣なり不景氣の原因は必ずしもこれを一二の事柄に限るべ

からずと雖とも其最上第一に位するものは不換紙幣の濫行なり不換紙幣濫行して物價騰貴

し全國の農工商業皆先つ繁昌の現象を呈したる後紙幣忽ちに減少して物價非常に下落し全

國遂に今日の不景氣を見るに至りたり一たび紙幣を發行して又一たび紙幣を回収す是れに

て功罪相償ひ元との天地に復すべき道理なりと信する者ありと雖ともこれ未た差引勘定を

知らざる者の論なり佛説に曰く此世にて惡事を爲したる者は死して地獄に往き慈悲の行ひ

ありし者は極樂に往くと今仮りに紙幣濫行を譬へて惡事とせんか一たびこれを濫行して地

獄行の罪を作りたる後大に悔悟して濫行の紙幣を回収したりともこは唯惡事を爲すことを

止めたりと申す迄にして別段尋常の人事に優りたる慈悲の行ひを爲したるにはあらず一方

には罪を作り置き一方には尋常の行ひを爲せば差引勘定して唯〓のみぞ殘れる譯合なり若

し此罪をも消滅せしめんとならば必ずや別に一つの慈悲を爲さゞるべからざるなり果して

此理窟に相違なしとせば紙幣濫行の過を悔ひて此紙幣を回収したる丈けにては唯跡に不景

氣のみぞ殘れる譯にて未た功罪相償ふに足らず夫れも自然經炭法の運行に依頼して時に及

びて今の不景氣を救ひ得るものなれば必ずしも一功を立てゝ一罪を償ふに及はざるべしと

雖とも兼て我輩の論する如く今の不景氣は迚も自然經濟法の運行を恃みて其回復を期すべ

きものにあらず必ずや特に人爲の救濟法を施し金と勞とを費して然る後に始めて好景氣の

舊天地に復すべきのみ

扨人爲の救濟法とて別に不可思議奇策のあるべきにあらず矢張り衆人の考へ合はする通り

一方には儉約の退守策を用ひ又一方には勉強の進取策を施すの外に工風なかるべきなり今

日本の租税は一箇年一億圓餘决して少額と云ふ可らざるなり議者皆其幾分を減せんとする

の論あるは甚た善し然れとも少しく眼界を廣くして今の世界の形勢を察するときは日本の

國用は今日以後も益多〓なるべき傾向あるのみにして决して減少すべき見込あるなし是れ

退守策の前に横はる第一の故障なり議者〓は曰く今の日本の政費中最も不〓の性質を帯る

ものは教育費と衛生費となり衣食足りて禮節を知るべし何ぞ今日の不景氣に際して教育衛

生げたするの遑あらんやと然れとも我輩を以て今の教育衛生を見るに决して過分なり滿足

なりと考ること能はず尚ほ追々前に進まざるべからずとこそ思へ後に退きて可なりなどゝ

は夢想にも思はざるなり現に全國の小學校に英語科を加ふべしとて文部省に於て英語教科

書の編纂に着手したるなど云ふが如きは教育費増加の傾向あるものにあらずや又飢餓年は

惡疫流行の年たる前例多し今の不景氣の爲め全國に惡衣惡食の民多きは或は衛生費の増加

を豫期し置くべき時節にあらずや好しや英語も惡疫も顧みるに遑あらず大に教育衛生費を

減少すべしとして其教育衛生費は何程ありやと問ふに教育費は文部省の定額並に地方税區

町村費等一切を合して凡そ八百五十萬圓衛生費は衛生局の定額並に地方税區町村費等一切

を合して百二三十萬圓二項の総計千萬圓に足らざるものなり仮りに今教育衛生費の全額三

分の一を減し得るものとするも其額僅かに三百萬圓に過ぎず未だ以て大に望を屬するに足

らざるなり其他海陸軍費なり司法裁判費なり警察費なり監獄費なり土木費なり唯其費用の

大なるを見て此等の政務を廢するの工風なきを如何せん唯爰に一つの問題と申すは今の日

本の政務を今の儘の分量に存しこれを盡すに果して一箇年七千萬圓の費用を要するや否や

五千萬圓或は六千萬圓位にて今の政務を維持することは六ケ敷ものなるや否やと云ふの一

事なり而して斯る問題は其當局者を除くの外我々局外の人に在てはこれに答ること甚だ難

し仮令へこれに答るも譬へば猶ほ墻外に在て屋内の事を評するの類にて其肯綮に當ること

甚だ覺束なきなり併しながら強ひて局外の我々に答を促かす者あらば我輩は先づ何樣にか

政務を減せずして政費のみを減し得るの工風あるならんと答へんのみ例へば當節柄勤儉の

主意を實行して從來官吏の執務時限普通朝九時より晝後三時まば暑中八時より十二時まで

など云ふを改めて春夏秋冬七時より夕六時までと爲し暑中三十日の賜暇を廢し土曜日の半

休を廢し年始年末祭日等の休暇を發し物價の下落に準して俸給の幾割を減ずる等の手段を

施さば今の十萬の官吏を沙汰して五萬と爲し千五百萬圓の俸給を節して七百萬圓と爲すこ

とも強ち天に階するやうの難事にてはあらざるべし論より證據は今の各新聞社員が一年三

百六十五日日曜日を除くの外寒暑一日の休暇をも取らず近來民間不景氣の爲め國民と運命

を共にして最も薄利の産業を營み居るを見ても大体の有樣を知るに足らん此外同し一路の

鐵道を敷き同し一艘の軍艦を造るにも主務の人物如何に由りては其結果を同しくして其費

用を異にし大に入費を省くの工風あるべきは勿論なるが故に果して今より斯る工風の數々

を實行し了らんには全國の政費に一年千萬乃至二千萬の節減を見んとするは強ち達すへか

らざる希望なりとも云ふべからざるべし歳出既に減するときは歳出も亦多きを要せず適宜

租税の幾分を減して國民の負擔を輕くするときは國民は幾分丈け其肩を休むることを得て

幾分丈けの生意を復するを得べし是即ち所謂不景氣挽回の退守策にして其効驗又决して少

なからざるべし

然れとも我輩は此退守策のみに依頼して永き年月の間に漸く好景氣の回り來るを待つこと

能はず依て一方には儉約の退守策を實行する傍に又他の一方には勉強の進取策を實行し進

取退守両策並び用ひて一擧して今の不景氣を驅除し盡さんと欲するなり其進取策に關する

鄙見の如きは次號の紙上に陳述すべし