「處世の覺悟」

last updated: 2019-09-08

このページについて

時事新報に掲載された「處世の覺悟」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

處世の覺悟

今日以後我日本國の運命は果して如何なるべきや獨立富強疑ひなかるべきや或は遂に東洋一般の國々と運命を共にし他國の支配を受る如き不幸の國と爲るべきや數十百年の未來記固よりこれを今日に明知するの人あるべき理なし實に後來日本國の獨立如何は全く我輩の知り能はざる所とするも此島國の國土のあらん限りは此國土に住居する日本人民あるべく此人民は何等かの手段を以て其社會の繁榮を維持するに相違はなからん即ち今日以後世に立たんとする人々の宜しく大に研究すべき所にして先づ其大体を察し次に其局部の事情を考へ生涯處世の道を失はざるやう常に心掛け置く事肝要なるべし

日本は古來尚武の國と稱し代々唯武事一偏を以て世渡りを爲す者四十萬戸あり即ち世襲の士族にして武力以て全國を押領し農工商民は唯士族の奴隷として此世に生れ來りたる有樣なりしが明治維新の改革士族の特權を剥奪し此日本國は農工商士四民共有のものと定まりたりといへども數百年來の積習一朝にして改むること甚だ難く今日文明の風潮甚だ迅速の時にして尚ほ未だ士族専横の餘習を免かれざる所あり斯る尚武の國柄なるが故に今日といへども日本の運命を談する者は動もすれば武を以て萬國と對峙し或は士族を驅て大に國威を海外に輝かすの希望を抱く者なきにあらず武力固より國のために大切なり苟も自國の富有を保護するに足るべきほどの腕力なくしては立國の一義甚だ不安心なりとは我輩の持論なれども唯徒に古風の士族流を學び武の一偏以て我事成れりと思ふが如きは未だ内外の實勢を審かにせざる者の空想にして實地に行はれ得べき事ならず今の日本の武力は小弱の朝鮮國を蹂躙し得る事さへ覺束なし况んや廣大の支那國をや又况んや歐洲の國々をや盖し日本の武力其實は朝鮮よりも強大ならん既に強大なりとすれば朝鮮を征服するは容易なりとの考もあらんかなれども今の國交際は大に古に異にして唯我力或る一國に勝ること一尺なりとて直ちに其一國を凌ぐの工風あるべからず世界は萬國の世界にして一二國の世界にあらず若し我力を計らずして妄りに傍若無人の擧動を働くこともあらば忽ち他の強大國の責罰する所と爲り臍を〓むの後悔を招く事あらん是即ち日本の武力は朝鮮へ對してすらも其威を輝かすこと能はざる所以なり朝鮮を威することは甚だ易しと雖ども之を威するべからざるは他に重大なる國交際なるものあればなり朝鮮尚ほ且つ我力の外なりとすれば最早其他を云ふに及ばず結局の所日本は唯其武力のみを恃む可らざるものなり日本の武力を以て世界に驕る事を得べしと信ずるは日本をも知らず世界も知らざる天保弘化時代の舊陋見なりといふべきのみ

日本は既に武力を以て人に驕るの望みなし唯一つ恃んで以て國の富榮を謀るに足るべきものは我國自然の地形季候地味等世界の貿易國たるに適したる一事なり日本は四面を皆海にして數個の島より成立ち嶋内用ふべき港灣甚だ少なからず其地位亞細亞の大陸に近きのみならず丁度米國より亞細亞に往來する道筋に當り海運の便利は申分なし季候は温帯の眞中に當り九州の暑氣北海道の寒氣とて決して堪えべからざる程のものにあらず隨て草木の生長禽獣魚類の生育甚だよろし陸地には諸金屬の鑛山も澤山なる上に工業商業上に第一の要品たる石炭の如きも其坑脉に乏しからず故に此島内に住居する日本人たる者は天然の恩恵を利用して大に農工商業を勉むるより外に國の文明を進め社會の富榮を保つの妙案なかるべきなり

日本の地形季候地味等すべて農工商業國たるに適したりとすれば早く國内縱横に鉄道を布設して運輸交通の便を増し各港灣を修築して船舶出入の安全便利を謀り外國の資本を輸入し外國人の雑居を促し一日も速かに純粹の貿易國たることを勉むるは今の日本國民の役目なるべし好し今の日本國民にしてこれを勉めざらんとするも世界の大勢は獨り日本人の遊惰を許さず早晩國外より武力文力金力智力の壓制を以て主人の應否を聽くに及はず全國を開いて農工商業上の用を尽さしむる事となるべきは疑ひを容るべからず斯くて今より五年の後又十年の後又十五年廿年の後を慮れば日本の國勢及び日本の社會の有樣は幾度變化すべきや豫め測り知るべからずといへども兎に角に商業工業製造航海農事等は日に益進歩して日に益繁多なるべきや論を俟ざるなり果して然らば當時既に身を立て世に在るの壮年諸士は勿論是よりして漸く世に處するの道を學ばんとする少年諸士の如きも豫め此變遷に應し生涯處世の道を失はざるの覺悟を爲すこと肝要ならん其方法は萬人萬樣決して一定の規則なしといへども世界の事情に通し英語に達し身に農工商業の中にて自家に適當なる實藝を覺え且つ時世に連れて此藝を改良研磨するの心掛けを怠らず或は塲合に依りては一藝より他の一藝に移轉して差支えなきやう用意を爲し置く等は何人に限らず今の日本國民に必要の覺悟なるべし油斷して生涯の悔を遺すことなかれ