「農工商人たるは志士の耻辱にあらず」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「農工商人たるは志士の耻辱にあらず」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

農工商人たるは志士の耻辱にあらず

金即是權とは東西古今の通語にして就中近世西洋の文明が世界を風靡するに及びて金力の効驗最も著しく一國の最大事より一家一身の最小事に至るまで其成否を決するものは必ず金力の多少あらざるはなし近來露國が印度侵略策實施手續中の一事として阿富汗の境を踰えて兵を進めたるを見て英國は今更の事のやうに又候喫驚し是れより内露人の入るを許さずと大に異議を唱へ若し露人にして退去を肯ぜざるに於ては是非に及ばず干戈を以て相見るべしとて俄かに軍艦を艤装し兵士を召集し日夜軍備に怠りなければ露國も亦大に海陸の軍を戒め戰爭の用意頻りなりしが遂に今日に至るまで何たる沙汰もなく電報の報道する所に依れば露國は彌々暫時突進策略を見合せて英國と和睦したりといへり思ふに必ず事實ならん最初英露の差縺れ次第に困難に陷り今にも破裂すべき模樣にて一日一日と日を送る時に際し英人等の説に英露の葛藤は一日其破裂を延引すれば一日丈け平和に近寄りたるものなり露人が俄かに戰を開かざるは尚ほ其軍備に不足する所ありと思へばなり此不足を補はんとて目下甚だ戰爭の用意に忙はしく費す所日に幾千萬なり今の戰爭は實に莫大の金を要す今日露政府が戰備のために日々費しつゝある金額は三十年前英佛兩國を相手にしてクリミヤの戰爭に日々費したる金額と大抵同一のものならん露國の財政困難なるは皆人の知る所にして其力決して斯る費用に堪え得るものにあらず戰備一日を長くすれば一日丈け露政府の苦痛を増すものなるが故に露政府は遂に其苦痛に堪えずして益和睦を媾するの利益を悟ることならんと云ひ居たるが果して然り荏苒今日に至りて英露の開戰は何時か立消えとなり到底其事なかるべき有樣なり盖し古の戰爭は武術腕力を鬪はし武力の優れる者人を制するの法なりしが今日文明大に進み蒸氣電氣以下の諸力其實用の妙を極むる日は然らず萬夫不當鬼をも欺く驍勇の武士も一小器械の發射する豆大の飛丸の爲めに三百歩の外に斃され五重の塔を横にしたるが如き大砲、山を浮たるが如き鉄艦等自由自在に人の命令に服し海に陸に敵軍を覆し敵城を屠る事の容易なる盤石を以て卵を壓するに異ならず此等の利器を利用する者は寡弱の兵を以て強衆の兵に勝ち此等の利器を所有せざる者は百萬の狼群にして數頭の羊群をも制すること能はざるなり面して此等の利器は皆錢を以て購ふべきものにして器の利ますます利なればこれを買ふの錢ますます澤山なるを要す是に於てか當時戰爭の事は單に富を鬪はすの事と爲り彼れ千金を投じて一砲を購へば我れは萬金を投して十砲を購ひ彼れ百萬金を才覺して一艦を製造すれば我れは千萬金を才覺して十艦を製造し未だ陣は臨まざるに早く既に勝敗の數歴然として十露盤の表面に現はれ來るが故に天下の至愚者より外は貧國にして富國と力を角せんと試むる者なし則ち金即是權の世の中にして國の獨立幸福を全うするの法は唯國を富ますより外に工風なき所以なり

一國の獨立幸福を全うするは金の力に在りて人の力に在らず一家一身の獨立幸福を全うするも亦金の力に在りて人の力にあらざるなり試みに人間社會を通覧すべし何事か金を以て成し得べからざるものあるか何事か金なくして成し得べきものあるか金あれば百事皆成すべく金なければ一事も成すべからざるは今の文明社會の通則なり我輩は其事例を擧けて一々細説するを要せず唯人々自からこれを我一身に顧みれば凡そ世に在て爲すことあらんとする者は間接にも直接にも必ず金の働きを仮らざるべからざる事を合點するならん然るに今我輩が日本社會の實况を通覧して甚だ不審に堪えざるは世の所謂有志者なる人々が此大切無類なる金を視ること土塊の如くこれを捨るに容易にしてこれを得るに甚だ懶きこと是れなり此風は就中今の少年學生輩の中に最も盛んなるが如き趣あるに似たり老成人は尚ほ恕すべし少年諸士の不注意に至りては我輩實にこれを悲まざるを得ず何となれば今より以後の日本は皆此諸士の主宰する日本なればなり試みに今の教育ある少年人士を見るべし夙に内外の法律政治經濟歴史文學等を修め其學識の高尚深遠なる實に世界の學士政論家たるに愧ぢざる者此々皆然らざるはなし然れども此人々は概ね皆金を儲くるの藝能の乏しくして十中の八九は無頼貧困なる不平の徒なり此人既に經濟學を知る金の貴重すべきを知らざるにあらず此人既に法律學を知る私有權の堅固恃むに足るべきを知らざるにあらず然るに何の遠慮する所ありてか唯金を費す事に達して金を作る事に慣れず自家の衣食住を得るには父兄の供給を仰くか否らざれば政府に奉仕して俸禄を仰くより外に其道なきものと爲すが如し其心に思へらく日夜營々金を儲くるは素町人の事なり終日食はず終夜寝ねず世を憂ふるは我等の事なり身を役し家を憂ふるは文盲人の仕事なり天下を治むるは我等志士の任なりとて己れ一人の肩に一國の運命を引受けたる了見にて區々産業の事を屑とせず日夜唯天を仰ぎて嘆息する者滔々たる書生社會皆然らざるはなし是れ我輩の最も遺憾とする所なり或は曰く今の日本には官途を除くの外農工商社會〓の名譽あることなし故に農工商業を厭忌するの極遂には人事の本源たる金錢を作る事をも輕蔑して今の悪風俗を成したるなりと然れども我輩竊かに案ずるに今の日本の農工商業に名譽なきは業の罪にあらずしてこれに從事する人の罪なりと若し實の名譽ある人にして農工商業に從事せば何ぞ名譽の輝かざる理あらんや人の農工商業に名譽を附するを待て始めて農工商人たらんとする者は所謂一身の獨立幸福を他人の手中に託したる人なり果して爲すことあるの人物ならんには何ぞ他人を待つことを要せんや自から進んで自家の農工商業に無上の名誉を附すべきのみ我輩は今の日本の農工商業に名譽なきを口實として今の少年諸士が農工商人たる事を勉めず又金を儲くる事を勉めざるは甚しき了見違いなりと信するなり