「殖産の機轉を促がす」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「殖産の機轉を促がす」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

殖産の機轉を促がす

目下わが日本國殖産の有樣にては遂には税源の涸るることはなきやと我輩の甚だ心配する所にして前號の紙上にも其意を述べたりしが尚ほ一歩を進めて深く心配すればその憂は前に記したるものに止まらざるが如し抑も一國の殖産は國民の心身の働より出るものにして其働を助るものは資本なりとすれば殖産の本は智惠と体力と金とこの三者に在りと云て可なり然るに爰に不幸なるは我國官尊民卑の積弊は容易に取除く可きに非ず、人の罪ならで勢の然らしむるものとも云ふ可き次第にして今日の如く平民の社會が卑賤にては工商が金を作りても學藝家が藝術を學び得ても之に由りて肉体の快樂を得るは兎も角もなれども人生の最も重んずる所の榮譽体面を張るの機會なきが故に苟も自尊自重の〓〓を抱きて謂れもなく人の下風に立つことを好まざる者は外國交通の便利に乗じて海外の地に寄留するか又は時宜次第にては一度び去て終に歸らざる者もあるべし近來獨逸の壯年配が頻りに米國に移り其數は年年十四五萬に下らず或人の計算に獨逸人が生れて二十歳まで衣食教育等の費用を金に積れば一名に付き千五百圓より少なからず即ち獨逸國の費にしてこの者が米國に行くは各千五百圓金を携へ去るに異ならず其數を十四萬とするも毎年獨逸國の資本二億一千萬圓を海外に移すものなりとの論あり尋常一樣の人民にても斯の如し然るに今立國の基礎とも稱すべき富豪又は學藝の士人が海外に去るとありては甚だ淋しき次第ならずや或は官尊民卑など云ふ議論を離れて唯利益上より論ずるも昨今の有樣にては日本の資本は或は海外に流出するの道なしと云ふ可らず毎度我輩の報道する如く日本の資本家は金の用法なきに苦しみ唯差向の窮策に政府の公債證書を買入れ其價次第に騰貴して七分利付のものが百七圓以上にも上る景氣なれば是に於て金滿家の考に七分利付〓〓〓の公債證書を日本にて買ふよりも〓〓ロンドン府に行き〓國又は土耳古等の公債證書を買ふか又は手近く日本政府外債の證書も七分利付價百十二三にて同府に賣物のあることにして殊に金貨拂の安心も大丈夫なればとて之に着目する者なしと云ふ可らず斯の如きは則ち富豪學者輩の外國行にあらずして資本金の外國行なるが故に其事は至極簡單にして世間の耳目にも觸れず容易に行はるることならん一個人の利害を外にして永遠に國の財政上より見れば面白からぬ事にこそあれ、本來一國の勞力社會は上流の智惠と資本との下に役せられて殖産の繁盛を致す可き筈なるに今その智惠も資本も國を去らんとするの勢あり下流の力役者は何に依りて衣食す可きや現に目下の慘状を見れば機織の婦人が炊婦に雇はれ染物の職工が人力車を挽く等倔強の腕前ある職人輩にして眞實力役の業を執り自分一人の口を養ふにも足らざる者多し全國の人力車は凡そ二十二萬餘の數ありて實に街道を往來するものは其三分の一にも足らず即ち十四五萬の人力車夫は路傍に閑居して客を待つために時を費す者なりむかしの萬里の長城長しと雖ども今のパナマの運河深しと雖ども日に十四五萬のに人夫を役するものと計算したらば其工事决して難きにあらず我輩はわが客待の人力車夫を役して此工事を請合はんと欲する者なり

智惠ありて智惠の用を爲さず、資本ありて資本の功なく、勞力亦その働を施すに處を得ず三者相互に背きて日に月に難澁の淵を深くするは正に今日の有樣にして之を救ふの方策は朝野士人の最も等閑にせざる所にして其説も少なからずと雖ども我輩は多言を要せず唯全國一般に土木の工業を起すの一策あるのみ目下の急を救ふには人を役して賃錢を拂ふ仕事なればその種類を擇ばず何事にても可なり流石に穴を掘りて穴を埋るが如き土工も無益ならんなれば後年の利害を謀りて差向は不急なりと思ふことにても多年の後に利益の■(しょうへん+「又」)むべき見込ある事は斷して之に着手して顧慮するに及ばざることと信ずるなり例へば京都府にて琵琶湖疏水の如き其一例にして他各地方にても橋梁堤防等の工事ある塲所には自から金融も活溌にして人民の困難甚だしからざるは事實に明白なる證據なれば今それ區域を廣大にして尋常の橋梁堤防の外に更に新に鐵道の工事を起し巨額の資金を一時に費して不景氣挽回の機轉を促がすは今日の急須なるべし其着手に就き國庫に金の不都合あらば外債を募集して容易に辨すべし或は外債を不愉快なりとて嫌ふ者もあるべし金を借るは之を貸すの愉快に若かずと雖ども今のままに差置くときは兼て資本に乏しき日本國の其資本が商况不景氣のために去て外國に出んとする切迫の今日、何ぞ外債を忌み嫌ふの餘裕あらんや即ち外資を内に入るるは内資の外出を防ぐの一法として視るも可なり斯の如くして商機を一轉したらば始めて金融の〓を〓き始めて殖産の業を起し智惠も資本も勞力も漸く其働を伸ばすの塲合に至るべし實に官尊民卑のために民業の起らざるは實に氣の毒なる次第なりと雖ども何は扨置き今の國難を救ふには先づ殖産の社會に生氣を與ふるの一事至急の急〓して生産回復の上は又〓〓に謀る所ある可きなり