「華族は不景氣の最も濃厚なる処に住す可し」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「華族は不景氣の最も濃厚なる処に住す可し」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

華族は不景氣の最も濃厚なる処に住す可し

人の世に在るや其身分位地職業各相異なるが故に一國の公より云へば共に其喜憂を與にす

可き事にても一個人の私に立入れば各其利害を異にするの情なき能はず例へば戰爭は凶事

なれども爲めに思ひ寄らざる大利を得て悦び窮りなき商人もあらん病の流行するは社會に

大損害なれども爲めに立身出世する醫師もあらん火災風害の慘毒は誠に慘なるに相違なし

と雖ども大工左官材木商等は爲めに大に稼業の忙はしきを悦ばざるを得ず盖し人間の公義

に於て社會の不幸を見て之を喜ぶと云ふにはあらねど身分位地職業の異なるに隨て私情自

から其利害を異にするは是非もなき次第なり此時に當り其私の利の爲めに世の不幸を助長

するが如きは素より人の爲す可き所に非ざれども此不幸が偶然にも己れに利するが如きこ

とあらば所謂天與取らずんば後必らず殃ありとの訓を奉じて穩當に其利に霑ふは士人の所

爲として毫も愧づる所なかる可し

數年以來世上不景氣を囂々す、我輩を以て之を見るに此不景氣に就ても亦各其利害を異に

するものある可しと思はる、元來不景氣と申すは供給餘ありて需要足らざるの現象なり職

工物を製して之を庫中に堆積すれども人來て之を求むるものなし即ち工の不景氣なり、商

人物を仕入れて善き價を求むれども之れに應ずるものなし即ち商の不景氣なり、農家は耕

作物の低價なるを嘆じ役夫は其勞役を買ふものなきを訴ふ、此等嘆息愁訴の聲は所謂不景

氣沙汰にして其實相を云へば天工人造物の供給は充分なれども世間の需要力は萎縮して此

供給を吸収する能はずして物の價の下落することなり物價下落すれば物を製作販賣するも

のは損害を恐れて其業を収縮せざるを得ず是に於て製造賣買の區域を狭め餒るが如く睡る

が如く愁ふるが如く訴ふるが如く社會は恰も喪に居るの家に似たり即ち數年以來我國不景

氣の容体なれども此不景氣の中に於て最も都合よきものは何人なるやと尋るに有爲活溌新

に身を立て金を儲けんとするものは世間多事にして工業も振起し商賣も繁昌し金融甚だ滑

なる其中に在て始めて大に志を得るものなれば今の不景氣は此種の人の福に非ず唯このと

時に當て得々たる可き者は身既に立ち家既に成り祖先傳來の財産に依頼して閑に此世を渡

るの人あるのみ盖し活動の世は活動の人に適し閑靜の世は閑靜の人に適するの道理なるべ

し不景氣の世界は之を譬へば排氣鐘の如し平常空氣中に在て能く鳴き能く動く動物は一旦

排氣鐘中に入れば忽ち眩暈絶倒すれども蛇又は蚯蚓の如きは常に閑生活に慣るゝが爲めに

容易に絶息することなし左れば彼の華族の如きは生活の最も閑静なる者にして平生世の浮

沈と相關すること薄く世間の景氣盛なればとて之に由て利する所なき其代りに不景氣に逢

ふても曾て不利を感ずることなし啻に之を感せざるのみならず物價下落、公債證書騰貴等

の現象は却て其利益なりと云はざるを得ず即ち今の不景氣の時は世の爲めには不幸なれど

も華族社會は偶然にも便利を蒙るの運に際したるものなれば華族諸君の爲めに謀りて遠慮

なく此の時の利を収むるの覺悟こそ肝要ならんと信ずるなり

華族社會は唯有る金を消費するの一方に傾くものなれば世間不景氣にして物價下落すれば

金の効力ますます顕はれて世計甚だ易きの利あり即ち不景氣の今日は都て便利なる時節な

れども尚ほ細に日本國中を見渡せば塲所に由りて不景氣の濃淡厚薄の差あるが如し例へば

三府又は開港塲の如きは自から金融の滑なるありて需要の物品勞働の賃錢等思ひの外に舊

時の價格を保ち不景氣中にも活動の勢あるが故に華族のために謀りて未だ最上の安宅と云

ふ可らず之に反して各地方の現况こそ實に不景氣の最上にして餓〓(草冠に孚)途に横は

るまでの慘状を呈し金錢は恰も亞剌比亞砂漠の水の如く其價の貴くして人の之が爲に働き、

物の之がために集まること都會の地と同日の談にあらざれば無き金を儲けんとするにはあ

らずして有る金を消費するの地位に立つ者は此沙漠を擇んで住居を定め一滴の水にても之

に灌ぐの工風こそ智者の事なる可し即ち不景氣の濃厚なる處を擇ぶとは此邊の意味なり我

輩は我國の殖産改良の爲め、華族諸君一身の便利の爲め其舊領地に歸住するの得策なるを

勸告せしが今又華族諸君を消費者と見て自家經濟の爲めに謀りても其舊領歸住は萬全の策

にして毛頭躊躇するを要せざるなり