「日本人の米國に歸化の事」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「日本人の米國に歸化の事」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

日本人の米國に歸化の事

日本國民中にて開明有為の志を抱く者は近來漸く蟄居主義の厭ふべきを悟り漸く外遊移住

の念を起したるの趣あるを見て兼て支那人の來住を嫌忌してこれを制止するの妙工風を得

ず正に煩悶苦惱の中に在る米國人等は概して日本人を支那人と同一視し疑心忽ち暗鬼を生

じて大に日本人の襲來を恐れ早くも其防禦策に苦慮するの次第並に其苦慮の全く無稽に屬

するの次第は我輩畧これを前日の紙上に陳述したり然るに爰に又米國人が日本人を疑ふの

事情に關し我輩の黙々に看過するを許さゞるの一事ありと申すは米國人が支那人を嫌忌す

るの情よりして何の識別もなく併せて日本人をも同一樣に嫌忌し従來米國に存在する支那

人拒絶の諸法令を取て直ちにこれを日本人に適用し日本人が米國に移住するを禁止すべし

との議論目下實際に米國人の一部分に行はれ居る事是れなり其論の大畧に曰く千八百七十

二年米國政府は外國人の米國に歸化移住するに關する法令を制定し白色人種にあらざる外

は歸化して米國人たることを得ず但し亞非利加人種は此限に非ずと明言したり又下て千八

百七十六年に至り支那人は歸化して米國人たるを得ずとの拒絶條例を制定したれどもこれ

と同時に支那人を除くの外他の黄色人種は歸化して米國人たるを得との他の法令の制定な

かりしを見れば最初千八百七十二年の制定、白色人種及び黒色人種のみ歸化して米國人た

るを得との法令は依然今日に持續現存するものにして苟も日本國民が白色人種又は黒色人

種に屬せざる以上は仮令へ日本人が米國に移住するも身を米國の籍に入るゝこと能はず永

久外國人として取扱はるゝものなりと此論に反對するの説に曰千八百七十二年に制定した

る白色人種のみ歸化して米國人たるを得せしめじとの趣意にして他意あるにあらざるしな

り然れども白色人種のみ歸化するを得といふては米國に最も因縁深き黒色人種の如きも亦

歸化を許されざるが如く聞ゆるが故に念のために亞非利加人種は此限りに非ずとしたる所

以にして白黒人種の外なる支那人を拒絶せんとしたるに過ぎざるのみ然れども此法令の精

神の所在を探るに當り尚ほ其漠然に過ぐるを思ふ者あらんことを慮り千八百七十六年に至

りて更に一令を添へ斷然支那人は米國人たるを得ずと明言したるなり斯の如く法の精神は

終始唯支那人を拒絶するに在りて支那人外何の一人たりとも米國に歸化するを拒まんとす

るの趣意にあらざるなり故に今若し日本人にして米國に移住歸化せんとする者あらばこれ

を許可すること無論たるべしと以上米國人中に於て日本人の歸化を拒むと拒まざるとの両

論にして我輩は其孰れの方に法律上眞理の在るや否やを知らずといへども詰まる所米國の

法律は固と米國人の作りたるものなるが故に甲論者の説の如く千八百七十二年の法令にし

て果して日本人が米國に移住歸化するの途に横たはる故障物ならんのは兎角の論に及ばず

即坐にこれを改正して日本時を優待するの意を表せんこと盖し米國人の本意ならんと我輩

は信じて疑はざるなり抑も米國人は何の理由によりて斯くまでも支那人を嫌忌するや開闢

以來世界に國多く人多しといへども人間の權利自由を尊重して上下貴賤の區別を滅却した

るは米國人を以て開祖と爲すなり此米國人にして妄りに人の權利自由を妨ぐるは萬々ある

べからざる事柄なり或は支那人の顔色の尋常白色ならざるを忌むの情より來るかといふに

必ずしも然らざるべし何となれば亞非利加人の顔色の尋常ならざる黄色の白色に於けるよ

りも甚だしきものなり黒奴尚ほ且つ米國人民たるべし况んや支那人をや我輩は米國人が歸

化上の議論に詮議する所は皮膚の色の異同に在らざること明白なりと信ずるなり然らば米

國人は何等の事に不滿を抱きて支那人の歸化を諾せざるやといふに我輩の察する所を以て

すれば第一支那人は西洋の文明を悦ばず政治徳教風俗より衣食飲食の事に至るまで一切自

國のものを以て世界古今の粹と心得自尊自大善を見てこれに傚ふことを肯んぜず米國に移

住する者の如き文明開化の重圍中に在りながら尚ほ且つ依然として純粹の支那風を維持し

豚尾胡服阿片を喫し米を喰ひ孔孟の教を奉じ偶像を禮拜し幾年の久しきを經るも一點感化

の跡を見ることなし宜なり米國人をして其面に唾し其頭に溺せしめんと欲すること第二支

那人は勤勉よく財を蓄ふることを知てこれを散ずることを知らず况んや米國は蠻貊の地久

しく居るべき所にあらずと爲し十年の辛苦一旦貯蓄の金員吾が所期の額に達することあれ

ば忽ちこれを懷にして去て本國に歸り毫も其利を米國に遺すことなし是れ米國人がこれを

疎んぜざるを得ざる所なり第三支那人は不潔汚穢の厭ふべきを知らず到る所に支那臭を放

ち他人の感情如何を顧ることなし是れ米國人がこれを遠けざるを得ざる所なり此等の事を

算ふれば屈指に遑あらずといへども先づ以上三箇條の不都合は米國人が支那人を嫌忌する

最も大なる原因なりとして差支なかるべく扨日本人の性質はよく此格に合ふものなるや如

何といふに正しく反對のものなりと答へざるを得ず第一日本人が西洋の文明を景慕し故き

を棄てゝ新らしきを採らんとするの鋭意熱心なる宗教上の頓狂を除くの外は古今未だ其例

なかるべく政治宗教學術技藝武事農工商事を始めとして衣食住の細に至るまで一切西洋に

摸して固有の風俗組織を破却し嘗てこれを愛しむの顔色なし甚だしきは我黄色の人種たる

とも厭ひて雜婚以てこれを改良することを勉めんとせり實に其心事の磊落自由なる米國人

といへども恐らくはこれに三舎を讓ることならん左ればにや深く事理に通ぜざる者は卒然

この有樣を見てこれを心に解する能はず日本人を評して愛國心に乏しといふものあるに至

れり日本人の支那人と同じからざる多辨を要せざるなり第二錢を儲くるに敏捷なること日

本人は支那人に及ばずしかのみならず日本人は唯我得たる財を散ずることを知りてこれを

蓄積することを知らず經濟の一點に至りては日本人の支那人に及ばざる百等の相違ありと

いふも可ならん實に日本人の一大惡習にしてこれを矯めんとて識者の常に苦心する所なれ

ども如何せん數百年來錢を賤しめ名を衒ひし積弊の致す所文明の今日といへども尚ほ此宿

痾を醫すること能はず國の爲めに憂ふべきの至りなり日本人は決して支那人と同じからざ

るなり第三日本人の清潔を好む殆ど先天の性より來るものにして不潔を厭ふの度は往々理

外の點にまで達して尚ほ止まらざること甚だ多し支那人は勿論歐米文明國人といへども日

本人の眼より見れば殆んど清潔の何物たるを知らざる者かと恠しまるゝ程の事なり日本人

は世界第一の潔癖人なりとは疾く世界の評判に上りたる事にして米國人も既に承知の事な

らん日本人は支那人と同じからざるなり

以上論ずる如く日本人が米國に歸化するには一點の故障を見ざるものなり米國人にして少

しく詮索の勞を取らば忽ち日本人の歸化を悦ぶの情を催すべきや必然なり兎に角に米國人

にして深くも日本の事情を糺さず日本人を取て支那人と同一視し支那人を拒絶するの心を

以て日本人に接し日本人の米國に移住歸化するを妨げんとするが如きことあらば我輩は日

本國民の面目の爲めに事實の便否如何に關せず斯る非禮の擧動に對し飽くまでも抗論する

所あらんと欲するなり