「鐵道の賃錢如何」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「鐵道の賃錢如何」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

鐵道の賃錢如何

鐵道は距離のいよいよ長きに從て功能も亦いよいよ著しきものなり例へば東京上野發の線

路の如き初め熊谷まで達したるときには便利は固より便利なりと云ふも十六里の道を馬車

人力車にて半日餘りに行くと汽車にて凡そ二時間に着するとの相違のみなれども熊谷より

延長して高崎横川に至り一方は宇都宮に達したる今日に於て見れば東京より宇都宮横川ま

では各三十里の道程、むかし流の旅行なれば丁度三日路、今の馬車人力車にても凡ろ一日

半を費す可き處を汽車にて一日に往復容易なりとあるが故に三十里程旅行にして旅の思を

爲すに足らず一入の便利を感ず可し左れば此三十里を延ばして京都大坂神戸の線路に接し

又延ばして下の關より九州地方に達したらば其便利は如何ばかりなるべきや實に意想外の

事ならん十里の線路を百里に延ばすは十倍の相違なれども其便利の相違は決して十倍に止

まらずして二十倍も又三十倍もある可し故に十里の工事に百萬圓を費して正に百萬の報酬

を得るものならば之に九百萬圓を足し千萬圓と爲て百里の工事を終るときは其報酬は正に

二三千萬圓に當るものある可し盖し我輩が日本に鐵道の工事を急ぐも敢て奇を好むにあら

ず日本の人は尚ほ未だ鐵道の佳境を知らざる者なるが故に一日も速に其功用の本色を明に

して眞成の便利を得せしめんと欲するの微意のみ

今日の如き工事の緩漫にては延長のことは迚も容易に望む可らずとする歟、然らば則ち今

のまゝにても尚不所望の箇條ありと申すは賃錢の一事なり抑も今の日本國中に行はるゝ鐵

道列車の賃錢は何を標準にして其根本を定めさるものか我輩の知らざる所なれども其賃錢

表を見れば大抵馬車人力車蒸氣船の賃錢と同樣にして汽車なれば速し、馬車以下のものに

ては遲しと申す位の相違なるが如し其一證を擧れば各地鐵道の停車塲には人力車群を成し

客を見れば車を勸め賃錢は汽車並と云ふ者多し即ち汽車同樣の賃錢にて汽車の行く處まで

馳けらんとの意味なり成るほど東京にして品川の停車塲より新橋までの汽車賃は上等十五

錢、中等十錢、下等五錢なるが故に人力車に十五錢は固より過分、十錢を投ずる者は最上

の客にして稀なれば先づ五錢を以て汽車並の賃錢とするも車夫のためには好き仕事なるべ

し乗客の賃錢斯の如くにして荷物の運送に至りては尚ほ是れよりも甚だし汽車に托する荷

物は大抵乘客手廻りの小荷物か又は急要の物に限り商賣品は先づ以て考へものなりと云ふ

其次第は米なり酒なり石油なり材木なり商賣上の利益は運賃に關すること容易ならず厘毛

の高下を爭ふは商家の常にして様々に其手段を案ずるに何分にも今の鐵道を利用する塲合

に至り難し例へば東京横濱間の運送にても商賣品は大抵皆船に便るものゝ如し我輩の所見

を以てすれば京濱の鐡道既に通ずるからには東京の市は直に横濱の波止場に密着したるに

異ならず海運の船舶特に品川沖に用事あれば格別なれども左なきものは横濱の波戸塲にて

荷揚荷積して至當の事ならん目下列車の出發は凡一時十五分毎にして夜十一時後は絶無な

れども之を増して毎半時又は毎二十分十五分とも爲して夜中も休息することなく外國輸出

入の商品は無論内國の米穀、酒、肥料等如何なる荒物にても其運送賃を引下げて海運より

も一層の低價を以て運送することともならば俗に云ふ數でこのその主義に違はず必ず収入

の利益もあるべしと信ず又荷物の外に乘客の賃錢も大に引下げ例へば人足職工一荷商人八

百屋肴屋の類も其荷物ともに汽車に乘りて賃錢は五錢か十錢なりと云はゞ横濱の肴屋が東

京に來り、東京の八百屋が横濱の市に出で、人足職工も双方の得意先に働くを得て如何ば

かりの便利なるべきや現に今日にても京濱の人の言を聞くに魚肉類の價は横濱に安くして

青物は東京の方餘程下直なり、人足職工等東京も各地に比しては隨分賃錢の低きものには

非ざれども横濱は流石に開港の塲所柄にして諸色都て高直隨て賃錢の割合も東京の比に非

ずとて怪しむ者もなきが如くなれども我輩の目を以てすれば甚だ怪しまざるを得ず十八英

里の間に鐵道を敷き少しく急行すれば二三十分時に人も荷も達す可き其双方に賃錢物價の

相違ありとは之を怪しむ勿からんと欲するも得べからず若しも是れが怪しからずと云はゞ

東京の淺草區と京橋區との間に物價の平均するを見て怪しむべき筈ならずや淺草區の京橋

區に於けると横濱の東京に於けると何の相違あるや唯其距離の稱呼に何丁と云ひ何里と云

ふの相違あるのみにして往來の時間には毫も遲速あるを見ず人事の緩急便不便は時の遲速

に在て距離の遠近にあらず汽車は即ち此時を短縮するの利噐なれども我日本人は尚ほ未だ

其利を利せざる者と評するも可ならんのみ

以上は唯我輩が東京に居て日々目撃する京濱間鐵道の事情を記したるものなれども尚ほ各

地方鐵道既成の塲所より續々到來する書信を見るに何れも滿足の中に少しく不平の意味を

含み鐵道は既に成りて便利なれども其賃錢の不廉なるがために何分にも廣く之を商賣上に

利用するを得ず既に越前敦賀港の如きも湖水の汽船に連絡して直に京坂神に接するが故に

北國の荷物は盡く同港に集る可き筈なれども運賃の一點に至りて意の如くならず伏木の米

を敦賀へ運び敦賀より汽車にて太湖の汽船に移し夫より大津に荷揚して大坂まで鐵道にて

陸送するよりも伏木より船に積み遙に馬關の瀬戸を廻りて大坂へ海運の方、便利なりとて

其双露盤を取るもの多しと云ふ鐵道事業家のためには大に考案を要する所のことなるべし

(以下次號)