「士人歸商論・」

last updated: 2019-09-08

このページについて

時事新報に掲載された「士人歸商論・」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

士人歸商論・

我國の士人にて當時四五十歳の人々の身分を見れば儒者を以て自から任ずるあり官途の險

を蹈むものあり或は文人墨客たるあり文人墨客儒者官吏其事業は樣々あれども凡そ人間の

弱點として身を或る事業に委ぬる程ますます其味を覺え天下之より樂しきものなしと感ず

るものなり一室の内に和漢の書を積み二十二史に眼を凝らし經書百科の言に就て時の古今

を回想すれば興亡の感少なからず丘明馬遷の文を讀んで其味の妙處に至れば案を拍て愉快

と稱し孔明の出師の表には涙を流し胡澹庵の封事には切歯扼腕、所謂千載の喜憂を抱くも

のにして其間の味得て言ふ可らず時に本朝の史を繙けば史論の得失一ならず王權衰て相門

振ひ相門衰て將門起り源平の交迭北條足利の興廢より戰國群雄の割據、豐臣の統一、徳川

の文治、孰れも日本史の大關係として最も注目する所なり尚風雅文章の部分に入れば名士

才女の筆跡追慕するに堪へたるものあり閲して平家物語に至れば祇園精舎の鐘の聲諸行無

常の響あり沙羅双樹の花の色盛者必衰の理を示し榮枯盛衰の窮りなき感慨の轉た切なるを

覺えざるを得ず或は時に筆削に從事し奇文成りて之を朗讀すれば其愉快言ふ可らず滿窓風

雪妻兒臥、揮筆鏘然紙有聲などの趣は儒者の最も得意とする所なり

官吏と爲れば又自から官吏の樂あり我國にては古來人民が官の筋を貴ぶの風ありて官吏と

さへ云へば今の俗世界に於ては〓で之を優待し偶田舎地方を巡廻すれば戸長郡長小前の者

共平身低頭して之を迎へ到る所に鼻〓から高し、官吏の身に取りては一種の愉快と申すべ

し又其事務は餘り忙しからずして俸給は餘り少なからず或は一局の長官とも爲れば威福の

權漸く大に出入の町人、配下の小吏我が顔色を伺て一顰一笑皆な其喜憂とならざるなし尚

ほ立昇りて官員中の大頭株と爲れば利害の關係いよいよ大に我國にては歐米諸國の政治家

の幾萬人の中に立て一塲の演説を試み喝采の聲沸が如く世の耳目を己れの一身に集むる抔

云へる塲合はなけれども上向きの官吏となればそれ相應の威福ありて人をして喜憂せしむ

るを得べし即ち人をして己れの髯の塵を拂はしむるものにして之れを拂ふ者の不愉快なる

程に拂はるゝものは愉快なり此等は官吏の最も得意とする所にして其の畢生の樂は概ね此

の邊に在つて存するが如し

文人墨客の社會に入れば其趣大に異にして窓明に几淨く床の間の掛軸は支那畫の山水、書

物古噐物と並び列なり挿花の趣甚だ雅なり興來りて筆を揮へば雲烟龍蛇紙上に迸り其快得

て言ふ可らず同好の客來りて柴門を敲けば之を迎へて談話甚だ清く曾て人間塵俗の事を知

らす窓外の鳥聲耳を嫉ましめ松濤竹韻は音樂の如く主人茶を〓(者に火・に)れば鼎中の

湯漸く沸き蟹の眼プツプツ魚の眼クツクツ頓で三椀を喫すれば腋下風を生ずべし興に乘じ

て林泉を〓(行にんべんに尚)〓(行にんべんに羊)すれば己れも亦畫中の人たるべし此

邊の趣は自から仙人世界にして南面の樂と雖ども亦之れに換ふ可らずと思うことならん

今の士人中の老輩は封建時代優長の世に生れて大抵此邊の嗜みに耽り之を以て無上の快樂

と爲すが故にますます深くしてますます其味を覺え各其樂を樂として一生涯を托するのみ

ならず其子孫を率ゐて其樂を共にせんとするものゝ如し本來人間には似我主義と云へるも

のあり父は子に向て第二の我たらんことを望み子も亦父の業を繼ぐことを勉め儒者は其子

に教ふるに己れが嘗て學びたる道を以てし一家相傳第二の儒者たらしめんとし官吏は其子

を官吏に仕込み文人墨客は其子をして己れの樂を樂ましめんとするが如くなれども畢竟人

間の弱點として己を知て他を知らず自分の事業を以て恰かも天下無二の想を爲すの結果な

らんのみ斯くて彼の儒者官吏文人墨客等の眼を以て己れの樂みとする道の中より世間商賣

の事業などを見れば朝から晩まで齷齪として人に向て機嫌を取り惜氣もなく頭を下げ二一

天作の五苦勞千萬何んぞ其卑屈殺風景なるやとくに固より之を顧みず、まして其子孫を推

して此餓鬼道に入らしむる抔とは思ひも寄らぬ次第ならん即ち今の士族氣象を持つものは

古來町人を卑しめ金錢を輕んずるの習慣に制せられ獨り自から其事業を高尚なりとして時

世の變遷、事業の輕重大に異なりたるを知らず儒者官吏は今後も亦其業を受け繼がしめん

とし此中より進んで商家の門に入り國の爲め身の爲めに大に財産を作らんとする抔の考あ

るもの甚だ少なし遺憾なりと申す可し

古來仕來りの業を業として他の業に遷ることを嫌ふは獨り士族氣象を持つものに限らず日

本人一般の氣風に於て然るものゝ如し近頃地方の或る漢法醫者が出京して余の許を訪ひ

種々談話の中、余は先づ其業の景氣如何を問ひしに醫者答へて不繁昌なりと云ふ、然らば

今より其業の趣を改めて時世に適するの工夫は如何と云ふに醫者は當惑の顔色にてお説御

尤千萬なれども漢法醫は一家相傳の業なれば拙者の代にて之を改むれば祖先に對して相濟

まず此義はお説に従ひ難しとの申分にて毫頭轉業の樣子も見えざりき、右はチト特別の例

なれども先祖の業なればとて代々相繼ぎ時世の變遷にて如何程古臭きものと爲るも之を改

むることを嫌ふは日本人一般の風習なるが如し即ち人間の惰性にして西洋諸國にも其例な

きに非ざれ共西洋人は我國人よりも餘程活溌の趣あるを見るべし英國倫敦經濟雜誌の記者

たりし故バジホツト氏の遺稿 〓〓〓dy of English economy 即ち英國經濟講究録の資本

運轉篇に資本の最も運轉するものを三つに區別し第一投機資本第二公債資本第三轉業資本

と爲せしが今其轉業資本と云へるものは農業を爲したるものが俄かに商業に移り商業家が

變じて製造家となる等此業より彼の業に轉ずる間に此より彼に運轉する所の資本なりとい

へ英國にては人民轉業の爲めに莫大の資本を動かし其動くや英國の經濟社會にて資本運轉

の一箇條と爲るを見れば英國人は時世の變遷と共に其職業を移轉し先祖傳來の業に安んず

るものに非ざるや明白なり即ち英國人中には其一代の間に幾回となく轉業するもの多きに

引き替へ日本人は自分の轉業は申す迄もなく子々孫々永く其業を守らしめんとし儒者の子

は常に儒者、官吏の子は何代にても官吏にして今の殖産世界に立ちながら其子孫をして商

業殖産の業に就かしむるの決斷なきが如し畢竟己れの仕來りたる業を以て此上なきものと

爲し商賣殖産の事は一概に無味殺風景なりと思ふならんかなれども商賣殖産其道に入りて

其味を覺ゆれば此中得て言ふ可らざるの樂境あるを發見することならん試に身を商賣の業

に委ねれば其面白味文人墨客儒者官吏に讓らず商賣人の樂は商賣して金を得て其金を以て

世上萬般の權力を得て有形無形の樂を得るに止まらず尚此外にも商賣の見込掛引は其事柄

非常に面白し今弗箱の側に坐し世間商賣の形勢を察し人を知り己を知り斯くすれば云々の

儲けあらん此物は近き内に流行す可しなど千々に其心を碎きて扨て之を事實に行ふに其見

込果して的中、一度取引して幾百千圓の利益を得れば其〓の儲かりたるを外にして唯其見

込の當りたる丈けにて一種の愉快と爲る可きなり或は偶然にも失敗することもあらんなれ

ども失敗も亦痛むに足らず其失敗を以て一つの經驗となし後の戒と爲して未來の勝算を案

ずれば負けるは勝つの基と爲り決して落膽するに足らず世に釣魚を樂みとするものあり餌

を鈎につけ之を水に投ず、魚來りて鈎を含む時直に其竿を上ぐ、竿を上ぐる度に適すれば

魚手に入り其度を失へば魚去て餌を失ふことあり左れども釣魚の術漸く熟し竿の上下度に

適すれば銀鱗溌剌鉤に上る、其興味言ふ可らず斯くて一生涯を釣竿に托して江湖に遊ぶも

の少なからず商賣は經濟世界にて金を釣るの術なり其術漸く熟すれば所謂飯粒を以て鯛を

釣るの塲合もあらん且つ其掛引は一尾の魚の比に非ず一擧して幾百千圓を釣るの趣向なれ

ば利害の關係大にして興味の深きこと測り知る可らず世間或は商賣して金を儲けるものを

見て彼れ一生貯金に從事し年已に老ゆるも心の儘に奢を爲さず金は如何程に溜まりたりと

て地獄へ持參する譯にも往かず馬鹿々々しきことなりとて之を誹る者もあれ共金を溜める

人より云へば金を使ふが面白きに非ず唯其金の溜まることが愉快にして其趣は古錢癖家が

古錢の一文にても多く溜まるを樂みと爲すが如し今年は幾萬圓、來年は幾十萬圓と次第に

其金の高を増せば其増加するを見て一種の愉快を感ずるものなり左れば彼の老て金を溜む

るものは其金を遣はずして死に至るも其樂の目的は既に達したるものなりと云ふ可し試に

見よ人手づから柿の核を蒔て其芽を發するを見れば愉快に非ずや萌芽次第に生長して一本

の柿の樹と爲り頓て柿實の紅壘々たるを見れば滿足に非ずや今幾十金を以て商賣を始め次

第に増殖して幾十萬圓と爲り遂に一個の身代を起すは柿の核を蒔て芽を生じ頓て鬱然たる

大木と爲ること一般、其樂は柿實を食ふと否とに在らざるなり人間困難に打ち勝を樂みと

するの情に於て言ふに言はれぬ興味あることならん左れば商賣殖産の境界に於ても種々の

樂味あること決して他の事業に讓らず世間の士人も唯其事業の樂のみを樂とせず商賣殖産

の世界にも亦一種の樂あることを發見し其子孫をして商賣社會に入しむること今の經世畧

に取りて最も肝要の事ならん盖し時世の變遷にて事業に輕重なき能はず昔人邊境に虜塵の

起るを聞き筆を投じて劍を買ひたるものあり今や世は殖産商賣を事とし特に外國貿易の振

否は國の興亡にも關することあるべし此時に當り牙籌の功は干戈刀筆の功に孰れぞや今の

士人たるもの功を成すに其事業の輕重を知らざる可らず尚此事に關しては近著拜金宗中に

詳論する所あるなり