「芝居の維新」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「芝居の維新」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

芝居の維新

今の日本芝居を改良して文明の時勢人情に適當するものを起すべしとは兼て我輩の希望する所にして時に其次第を論辨して社會公衆に質したる事もありたり盖し芝居は社會の風俗男女の氣風に容易ならざる影響を及ぼすものにして决して輕々に看過すべきものにあらず今の日本社會を改良せんとするには今の芝居を改良する事の如きも無論其重要の部分を占むるものたるべし近日井上外務大臣森文部大臣をはじめ朝野の諸名士同感を以て相集まり演劇改良會と稱するものを起して廣く會員を募り大に今の日本芝居を改良せんとするの企あり我輩の甚だ同感賛成する所にして諸氏の勞の空しからざらんことを飽くまで希望して措かざるなり演劇改良會の趣意書にも概論しある如く今の日本芝居を改良せんとするには三つの物を要す曰く適當の役者曰く適當の作者曰く適當の劇塲以上是れなり而して此等の物を得るに皆多少の困難なきはなし中に就き適當の役者の如きは急にこれを得るに最も困難を感ずるものならん苟くも文明の役者と稱せらるゝ者は技倆品格を具ふるの外に深遠の學識なかるべからず文學に富まざるべからず語學に達せざるべからず文明世界の事物に通じて文明世界の思想を有せざるべからず然るに斯樣の人物を今の日本の役者中に求めんとするとも恐らくは一人の合格者を見出すことも六箇敷からん今の役者中技倆の一點に於ては文明の役者たるに必ずしも不足する所なき者多々ならんと雖ども學識文學以下の事に關しては寧ろ皆無なりといふの外なかるべく實に殘念千萬の事なりといはざるを得ず抑も人間社會の輿論に訴へ其輿論を動かすの方法の許多なる中にも新聞、書籍、演説、講談、演劇抔の如きは最も効力の著しき者にして政治經國の士を初めとして宗教家なり學術家なり商工家なり皆此等の方法に依頼して以て人に説くの工風を求めざるはなし我日本社會に於ては開明有為の壮士にして或は新聞に或は書籍に演説に講談に各我信ずる所の事を論述して公衆に訴ふることを勉め間ま或は落語講釋師に身をやつして我主義の宣布を謀る者さへある折柄未だ一人の役者と為りて舞臺に技を演じ滿塲の看客をして一笑一涙熱中の際に飽くまで我主義を肝銘せしむるの工風を為す者なきは我輩の甚だ遺憾とする所なり愛蘭の作者兼役者として有名なるヂヨン ブシコー氏(Dion Boucicault)の如きは本國愛蘭人の英人に虐遇せらるゝを憾み自から其次第を脚色して自から其役者と為り英米の諸劇塲に於てこれを演じ妙技妙作の力を仮りて大に人心を感動せしめたる尚ほ其上にも演劇の所得を本國人に贈りて賑恤企業の資本に供したるは世に隠れなき事柄にして現に記者の如きも數年前倫敦に於て同氏の演劇を見物し其脚色技倆の如何は問ふに及ばず唯先づ其人の志に感じて坐ろに落涙したることあり芝居の勢力想ひ見るべし斯の如く芝居は社會の一大利器にして今の日本は多事多難の時勢なるにも拘はらず志士の之に心を潜めて自から其局に當らんとする者なきは誠に不思議の事相なりといはざるを得ず然れども此等の事は今これを喋々するも益なし唯今の日本芝居を改良するに當り今の役者にして果して改良芝居の用に應ずるに足るべきや如何といはんに我輩は當分の内今の役者を使用するの外に個の妙案なかるべしと答へんのみ盖し今の役者中技倆の甚だ熟達せる者少からず若しこれに授くるに適當の脚色を以てせんには相應に文明流の演劇を得るの工風もあらんと信ずればなり然らば誰か此脚色を作り與ふる者ぞといはんに是亦甚だ其人に乏しく當惑の次第なりとはいへども今の日本に於て作者を得るは役者を得るに比すれば稍容易なりと云ふて可ならん好し或は案外に容易ならざる事情ありとするも從來歐米諸國に存在する所の諸種の脚本の中に就き最も然るべき者を擇んでこれを飜譯し更らにこれを日本の今の人情風俗に適應するやう少に修飾し多少に其趣を變ぜば相應に面白き脚色を得るに左まで困難を感ずることはなかるべし斯の如くして既に役者と作者を得たる後次に必要なるものは劇塲なり今の日本の芝居座は何程これに修補を加ふるも到底新劇塲の用に供すべからざるがゆえに是非とも新規に建築せざるべからず其雛形には歐米諸國に現在する恰好の劇塲を其儘に用るとすれば建築の勞も大に減ずることならん而して其費用及費用の出所は如何といふに新劇塲は先づ三千人を容るゝに足るものとして其工事造作も成る丈け質素にすべしとすれば大數十五萬圓内外の建築費にて十分ならんかと思はるゝなり其出所の如きは或は演劇會社を起して株金を募るか或は數名の有力者が資金を持出してこれを辨ずるか何れにも適當の方法を求むべきなれども新規の事柄と云ひ殊には急に収益の十分なるべき見込もなき企業ならんとすれば民間にて私に金を集むる事の或は行届かざる掛念もあらんかなれども幸にも文部省は演劇の改良に注意すべき該當の官司と云ひ殊に同省にては近來現に音樂取調所などいふものを設けて歌曲音樂等に關するの事に熱心盡力の折柄なれば此演劇改良の為めに十分の勞費を貸與して惜まざるべきは我輩の信じて疑はざる所なり又帝室の如きは美術文藝の保護奨勵に最も意を用ること文明諸國の例なるがゆえに我宮内に於ても日本演劇の改良は必ず深く嘉賞せらるゝ所なるべきかとすれば改良當局者も大に其頼む所を得て成功を急ぐの工風を得べく旁以て劇塲新築は左まで困難事ならずと信ずるなり果して然らば今の日本の芝居を改良するに當りて途に横はるの故障種々なりといへども必ずしも成功の望なしといふべからざるなり