「太平洋電線は小笠原島を經るを要す」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「太平洋電線は小笠原島を經るを要す」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

太平洋電線は小笠原島を經るを要す

日米兩國間太平洋には地理商賣政治等の諸點より考へ

て海底電線を沈架せざる可らず此間の距離、四千五百

英里と見て其電線沈架費は凡ろ七百萬弗なる可し此費

用は日米兩政府に分擔して之を直轄するか或は太平洋

海底電線會社なる者の私に任じて兩政府より年々若干

の利益を保證するか孰れにしても此十九世紀の末年、

前途望みある日米間に電信の交通なしと云はしむるは

兩國の爲めに謀りて名實共に不得策なる可しとは我輩

嘗て之を本紙上に開陳せしことあり既に先年米國にて

電信大義の名あるフヒールド氏は太平洋電線沈架の事

に就き米國並に布哇政府に協議する所ありて夫れより

日本にも渡來して其筋の意見を尋ねたりしに當時其筋

にて評議の末フヒールド氏の陳状に贊助の意を表した

るやの風聞ありし爾後如何なる都合にやフヒールド氏

は未だ其事を果さずと雖ども日米兩政府が更に右等の

人に向ひ十分の保護を輿へたらんには太平洋電線會社

の創立を見るも難きに非ず我輩の兩國の爲めに熟望す

る所なり

右の次第にて太平洋電線沈架は之を實行す可しとして

その線路如何に就ては從來樣々の説もあり前年フヒール

ド氏の計畫せし一線路の如きは先づ米國西海岸を發し

て布哇國に達し是より二線に分けて一線は濠洲に入り

て歐洲線に合し一線は日本に達し夫れより支那朝鮮に

分派するの都合なりしと云ふ電線工事の順序上如何な

る線路を便利とするやは自から專門家の説ある可しと

雖ども兔に角布哇より日本に達する電線として一寸小

笠原島を經て來らしむ可しとの説は我輩の贊成する所

なり蓋し西琉球より東小笠原島に至る一帶は呂宋臺灣邊

より來る潮流の工合もあり赤道近傍の温熱、空氣厚簿

の變化もありて秋季には往々颱風を生じ其餘波日本に

轉ずるを常とし其暴風季節には世界中最危險の航路と

爲り太平洋通ひの汽船が或は針路外に吹き流され或は

破損を生ずるは重もに此小笠原島一帶の間に在る由然

るに今太平洋の電線此小笠原島に立寄りて來らば其近

邊一帶に暴風の危險あるに際して布哇及び米國の方なり

或は日本の方なりへ電信を以て暴風警報を發するを得

べし斯くて數日前より小笠原島邊に何程の暴風あるや

を豫知する時は此邊を通航する汽船皆な其出發を見合

はするか或は其針路を轉ずるか夫れ夫れの用意を爲す

が故に從來の危險を免かれて航海上に非常の便益をな

すことならん此際若し薩摩沖繩間の海底電線も成りて小

笠原島より沖繩より同日に暴風警報の到着するあれば

今後此邊へ向ふて出發する船舶は孰れも其難破を避く

ることを得べし一隻の船舶にても之れに附屬する生命

財産は中々鮮少のものに非ず電線の音信を以て能く氣

象の消息を豫知し爲めに諸船舶の危險を除くことを得ば

其便益の大なる果して如何ぞや凡そ文明の世の中にて

は諸の天然力を制御して其危險を逞うせしめざること肝

要なり聞く所に據れば米國などには洪水警報なるもの

あり例へばミスシッピー河の上流にて連日の霖雨あ

る時は河下の各地へ向けて其雨量の度を電報す斯くて

各地は多年の經驗に由り上流幾インチの雨量なれば幾

尺幾丈の水嵩を増すやを知り豫め其用意を爲すが故に

從來の如く洪水の危難を罹ること稀れなりと云ふ天然の

危難を豫知して之れに應ずるの策を講ずるは孰れも文

明人の智術なり太平洋の電線も小笠原島に立寄れば或

は多少の迂路を取らざる可らざるの事情もあらんと雖

ども日米兩國間通航者の危險を豫防し得るとあれば日

本にても特別に此間の費用を負擔して至當のことなら

ん且つ海底電線の道筋に適當のステーションを置くと

きは電線に損所を生ずるに當りて之を見出し之を修繕

するの便利も少なからずかたがたもって小笠原島に立寄

るの一案は決して起業者の徒費にあらざる可し、太平

洋の電線未だ着手の運びに至らざる今日、突然此議を

提出するは或は大早計なるが如くなれども我輩は今よ

り輿論を此點に喚起して事前に輿論の熱するを期する

ものなり