「結婚年齡制限の事は虚なり非なり」

last updated: 2019-09-08

このページについて

時事新報に掲載された「結婚年齡制限の事は虚なり非なり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

結婚年齡制限の事は虚なり非なり

内地雜居に先て民法編制中の今日、世人動もすれば説

を爲して我國には從來早婚の弊あり因て我當局者は結

婚條例なるものを設け男年二十五、女年十八以下の者

の結婚を許さゞるの見込みなりと云ひ甚だしきは其條例

の原案は既に元老院に廻附せられたり抔云ふ者あり要

するに漫然たる世人の漫言たる可しと雖ども我輩此説

を耳にすると既に數回に及びたる程の次第なれば漠然

たる無識者中には或は右の議案の實行もがな抔と企望

する者なきを必す可らず抑も早婚の弊の西洋諸國に

稀にして特に我國に行はるゝは氣候其他の影響與りて

大に力あることならんなれども我國にて生計交際の趣誠

に簡單無造作なることも亦其原因中の一なる可し西洋諸

國にては婚姻は人生の一大關鍵にして未婚既婚其生計

の趣大に異なり例へば未婚の男子抔は婚姻後の適意を

目當てとして生計上相應の準備を爲し身分次第殺風景

の眠食も苦しからずと雖ども一旦有妻の生涯に入れば

其交際社會に接して衣服の裝飾、歳時の贈答、客を招き

又招かれ居家の體裁、飮食器具等夫れ相應の用意なか

る可らず若し此等の用意なくして迂闊に妻帶生活に入

り込めば交際上の壓制に迫られて其精神の苦痛恰かも

生肉を切らるゝの想あるもの多しと云ふ左れば西洋諸

國の男女は婚姻前に豫め婚後の用意を爲し父母が特別

に富裕なるか或は僥倖にも親戚中の遺産を受けたる抔

の場合は偖て置き分外の餘資を得るの道なきものは生

計の何物たるを知る年頃より夫れ夫れ妻帶生活の用意

を爲し男女互に生計の資本を持ち寄りて扨て一家を成

したる處にて世間の交際上、人に後指を指さるゝことな

きを期するが故に男女結婚前の用意に數年の時日を費

し自然に早婚を差し控えて社會に其弊の流行を見ざる

となり然るに今の我國の有樣にては妻帶生活の交際、

無妻生活に異ならず誠に簡單殺風景なるに加へて其妻

なるものは所謂交際なるものを知らず日に婢僕に伍し

て庖厨の間に周旋するが故に妻帶生活は却って家事向き

の經濟に適せりとて十五六の女子、二十前後の男子纔

に孔臭を脱すれば傍より其結婚を奬勵するのみならず

田舍地方などにては早く其子女を婚嫁するを以て一種

の榮譽の如く思ふものなきに非ず左れば西洋諸國にて

は學問盛り、修業盛りと云ふ年頃に日本にては早く已

に人の父母と爲り子女成長の後其父母と居並べば其老

少年齡に非常の懸隔なくして知らざる者は親子を兄弟

姉妹には非ずやと誤認する等の珍談さへ少なからず畢

竟早婚者の自身に於ても才藝の發達を妨げられ又生理

上に於ても未熟の男女に生れたる子の虚弱なるは老大

の夫婦に生れたる者に等しとの事なれば是等の害を見

て世に早婚制止の議論も出たるものならん早婚甚だ宜

しからずと雖ども左ればとて結婚條例を以て直に此弊

を矯正せんとするが如きは是亦人事不通の愚論なりと

云はざるを得ず凡そ世人の妄想として法律にて云々と

定むれば何事にても其通りに行はる可しと思ひ法律を

以て利足の制限を立て船車の運賃を定め或は物價を定

めたる等の事は各國かの例に乏しからずと雖ども事の

實際に於て當初の望み通りに其結果を得たるものある

を聞かず早婚の弊は誠に弊なりと雖ども人間社會の生

計尚低く交際の度未だ進まず人に智慮先見なくして恰

かも早婚の行はる可きが如き國柄にも拘はらず一片の

法律以て男女結婚の年齡を限りたらんには或は私に婚

嫁して公に未婚の姿を裝ひ或は生兒の時日を僞り或は

穴隙を鑽るものを生じて私徳の罪人を増すと同時に大

に法律の罪人を増す可きなり畢竟結婚の早晩の如きは

人事の自然に放任すべき部分なれば上流の人々は常に

早婚の弊を説き下流の輿論を導て漸く其弊の恐る可き

を知らしめ法外なる早婚を以て一種の醜行として視る

に至らしめんことを勉め此より以外は唯其民度上進の自

然に任ず可きのみ徒に人々の私に干渉するは結局無益

有害たるを免れざるなり我輩は我當局者が結婚條例

を設けて男女結婚年齡を限るの議を抱くなどいへる風

説を信ずるものに非ずと雖ども爰に無議社會の評論に

對して一言其非を辨ずるものなり