「遷都は無用なり」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「遷都は無用なり」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

遷都は無用なり

此頃世上に遷都の説を爲す者あり其言に曰く東京の地は今の文明世界に國を立つる日本帝

國の首府を置くべき土地柄にあらず今の弱肉強食の時に當り先づ思はざるべからざるもの

は外國の敵なり而して我日本の如き四面環海の島國に在て特に警戒すべきは敵國の海軍な

り然るに今東京の地理を按ずるに江戸灣の北端に在て其前面海水甚だ淺く進航し來る所の

船舶は皆海岸を距る數里の海上に於て早くも其錨を投ぜざるを得ざるの有樣なりといへど

も近時砲術の進歩甚だ著しく強ち其彈道の近きを要せず數里外の遠きに在て纔かに望遠鏡

の力を仮りて目的を定め命中せずといふことなし故に敵艦にして一たび江戸灣に闖入し纔

かに品川の沖合にまで來れば東京の全市は即時に灰燼と爲るものと覺悟せざるべからず唯

此禍を免かるゝの一法は江戸灣の門戸たる觀音崎富津の地方に堅牢無比の砲臺を置き海峽

に軍艦水雷火を十分に用意し有事の日に當りて一隻の敵艦も此門に入るを許さゞるに在り

然れども敵も亦文明國の海軍人一旦死を决して突進し來らんには味方の防戰如何に巧みな

りとするも十數隻乃至數十隻の敵艦中其二三を打泄らすことなきを必すべからず砲煙斷續

の間背後に敵艦あるを認め追躡するも及ばず其敵艦は早くも品川沖に現はれて東京全市を

砲撃し大に自から快を取るが如きこともあらば如何すべきや防禦の堅きを恃みて萬一の隙

の乘すべきを思はざるは智者の事にあらず宜しく萬全の計を定め東京の帝都を西京に遷し

陸地天然の障碍を以て敵艦の來襲を防ぐべきなり况んや今東京市區改正東京灣築港の議あ

りこれに要する所の費用は大數五千萬圓に達すべく又臨時建築局の管理する國會議事堂政

府の所官衙新築費の如き亦必ず千萬を以て計ふるの巨額ならんに折角此大金を費して帝都

を裝飾し敵艦砲撃の的を作らんより此金額を以て遷都の費用に供し新たに西京に日本政府

を置くの結搆を爲すに若かざるべきをやと以上遷都論者の主張する論旨なりとして知らる

る所なり

然れども我輩は此論旨に服して遷都の議を賛すること能はず我輩が此議に反對するの趣意

は江戸灣の門戸觀音崎富津の堅めは金城湯池も啻ならず我海軍の強盛は世界無比なり之を

以て其門を守るに誰か敢て其内を窺ふ者あらんや敵艦の東京砲撃の如きは無稽の過慮なり

と云ふには决してあらず固より議者の論の如く何程防禦の手當に手落なしといふとも如何

なる機みにて敵艦の江戸灣に入ることなきを必す可らず萬一の塲合を慮れば誠に不安心の

至りなれども然れども此不安心の爲めに直ちに日本帝國の首府を東京の外に遷さんといふ

は我輩の甚だ同意すること能はざる所なり若し首府移轉の爲めに臨時の費用を要せずとな

らば遷都も亦消閑の一樂事甚だ面白き企なれども若しこれが爲めに幾千萬圓の費用を要す

とならば先づ此大金を費すを相當なりと認むべき程の理由を見出すの後にあらざれば决し

て此大事を企つべからざるなり然るに今遷都論者に向て遷都を必要とするの理由如何と問

ふに東京は海に面し敵艦の砲撃に暴露するが爲めなりと答ふ併しながら敵艦の砲撃に暴露

して其禍を蒙るべきものは獨り政府の諸官衙のみを限るべからず散じて一家を成し集りて

一國を成す此國家の基礎たる人民の生命財産も亦此禍を免かるること能はざるものなり議

者の論旨とする所と雖ども唯官衙さへ敵の砲撃を免かるれば東京百萬の人民の住居は灰燼

と爲るも可なりといふにはあらざるべし果して然らば敵の鋭鋒を避けて政府の地位を山奥

に移さんとするの精神は官私の別なく苟くも日本國の生命財産に屬すべきものは總てこれ

を愛護して外敵の衝に當らしめじとの精神なりと我輩これを解釋するを得べし若し果して

此精神ならんには獨り政府を移し又東京を移すのみならず横濱の如き大坂神戸の如き又名

古屋和歌山廣島福岡長崎鹿兒島の類の如き皆これを山奥に移すの必要あらん何となれば假

令政府の諸官衙は山城の奥に在て安全無事なりとするも海岸運輸至便の地に在る殷富繁榮

の諸都府一旦皆敵艦の砲火に罹るが如きことあれば日本國の富は即時に其幾分を減じ隨て

亦國力を減ずべき譯なればなり若し商賣繁昌の都府は國の事に關係なきものなりとしてこ

れを顧みざる者あらんには花の麗はしきを愛するを知て其根に培ふことを知らざるものと

評せんのみ果して然らば諸都府も亦皆これを山奥に移さんか併しながら爰に山奥論者の爲

めに甚だ氣の毒なる一故障は山城なり丹波なり將た木曾の山中なりこれに人間の家を移す

ことは或は能くすべしといへども商賣を轉居せしむることは人力の及ぶ所にあらざるの一

事なり東京は東京の地理大坂は大坂の地理ありて今の東京大坂の商賣あり假令此商賣が敵

艦の砲撃を蒙るべき恐れあればとて如何にしてこれを西京に丹波に將た木曾の山中に移轉

せしむべき工風あるべきや全く無用の詮議なり然れども若し國の商賣は敵の劫掠するに任

するとも官衙さへ巍然として山の頂に聳え居らんには國運萬歳なりといふ者ならんには我

輩は唯其愚を一笑せんのみ