「偉なる哉英國人の擧動」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「偉なる哉英國人の擧動」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

偉なる哉英國人の擧動

ノルマントン號沈沒の際船長ドレーク氏の所爲は内外國人の共に疑惑する所なりしが當初

神戸英國領事廳にて開きたる海事審廷にては船長以下を無罪と判决したるを以て良心は喜

望峯に預け置けりと云へる昔時の諺は今尚實際に行はるゝか歐洲人は喜望峯以東に其良心

を携帯せざるが故に事の裁斷も亦自から不公平なることならんなど右の判决に對して世論

頗る囂々たりしが其後兵庫縣知事内海忠勝氏の告發に因て同領事廳に開きたる豫審廷にて

は船長ドレーク氏を有罪と認め追て其公判廷を開きて相當の裁判ある可しと云ふ盖し最初

の海事審廷にて船長を無罪と判决したるは或は其證據物の備具せざる等の事情ありしが爲

めにして裁判上には毎度其例あることなれば敢て怪しむに足らざるなり唯一旦斯く判決を

下したる以上は其本國人を庇護するの癖として爾後如何なる證據の出現するにも拘はらず

非を文り過を遂げ嚴格なる英國海事上の慣例を破るが如きことはなきやと人心窃に杞憂を

抱く處ありしが其後兵庫縣知事の告發に因て開きたる豫審廷の審理を見れば公明正大其罪

とする所を罪として法律上の眼に國人の區別を見ざる者の如し即ち古來英國が嚴正に海事

上の慣例を守るの一例にして今日世界到る處に海王國の名を博するは决して偶然に非ざる

なり併し是れは法律上の事にして固より斯くある可き筈なりとするも右ノルマントン號の

事件あるや在日本の英國人は恰かも申合せたるが如く異口同音憚りなく船長の罪を罪とし

て毫も假借する所なく又溺死の日本人廿幾名に對しては巳れ其事に興りたるが如く優にや

さしく愛憐の情を表して其不幸を〓吊し英國公使ブランケツト氏は死者の遺族の爲めに金

十圓を義捐し神戸英國領事ツループ氏は同じく二十五弗を義捐し其他在日本の英國人にし

て義捐金を醵出したるもの少なからず彼れ其平常の勇壯活溌なるにも似ず何んぞ其慈悲心

の優美にして高尚なるや所謂男兒涙あるものにして我輩其情の甚だ深きを感謝せざるを得

ざるなり

ノルマントン號事件に就き英國人の擧動は實に前陳の如くなるに引替へて長崎事件に就き

支那人の擧動を見れば我輩甚だ怪訝に堪へざるものあるなり抑も彼の長崎事件なるものは

長崎の日本巡査が或る支那水兵の乱暴を取押へたるを遺恨とし多勢の水兵兇器を持して我

官署人家を襲ひたるより發端したるものにして水兵の乱暴喧嘩は何れの國にも其例あり决

して珍らしきことに非ず特に規律もなき支那水兵の事なれば右等の行違ひを生ずるは別に

怪しむ程の事にてもなく其曲直の分明なるは彼のノルマントン號船長の所爲の比に非ず支

那の方にては唯穩便に其過を謝し小供の喧嘩に双方の親達が相會釋するが如くして其事を

濟すこそ適當なる可き筈なるにワザと奇妙にねぢけ出して乙な處に青筋を張らし聖經の本

文に君子の過は日月の触の如しとあるをも顧みざるが如きは我輩の感服する能はざる所な

り因て思ふに彼のノルマントン號事件は其相手が英國人なればこそ今日の運びに及びたる

なれども若し此ノルマントン號が支那人の船にして支那の判事が其海事審廷にて一旦船長

を無罪と判决したらんには後日に如何なる證據あるも二度と再び之を有罪とするが如きは

思ひも寄らぬことなる可し之れに反して彼の長崎事件の如きも當局の相手が若し幸にして

英國人ならんには是非曲直一言にして定まり數日を出ずして長崎港頭に一片の妖雲をも留

めざりしことならん斯くて世界の月旦評にて英國人は臆病なり卑屈なり支那人の大に恐る

可きに若かずと云はんか、否、英國の威信の天下に加はりて國交上に將た私交上に世界各

國に親愛敬重せらるゝものは實に此一點に在るなり盖し強辨非を飾り一言の行違ひに劍を

按じて立つものは所謂匹夫の勇にして彼れ遂に人に重んぜらるゝこと能はず即ち英國人と

支那人と世に重んぜらるゝの厚薄大に異なる所以にして彼のノルマントン號事件と長崎事

件とを對比すればますます其然るを見る可きなり語に曰く過を見て爰に仁を知ると我輩は

今回の事件に就き英国人の擧動實に士君子に愧ぢざるを知れり我國の人々も此事件に就て

は一般に英國人の禮讓を知り後來ますます之を敬愛するの念を増さんこと我輩の信じて疑

はざる所なり