「社會時勢の變化すべきを思へ」

last updated: 2019-09-08

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時事新報に掲載された「社會時勢の變化すべきを思へ」を文字に起こしたものです。画像はつぎのpdfに収録されています。

本文

社會時勢の變化すべきを思へ

遲くて早きは時勢の進歩にして人の心付かざる間に過ぎ去るものは月日なり明治維新前後

の變革實に古今に絶無なりしといへども今を距ること二十年に近くして殆んど別世界の事

を聞くの想あり維新の遺物遺跡今日尚其嚇々たるを見るもの世に少なからずといへども畢

竟千年の後を期すべき遺跡にあらず時勢の進歩の止む時なくして變化の寧ろ甚だ急劇なる

こと實に豫想の外なりといふべきなり然れども今日までの變化の如き急劇は則ち急劇たる

に相違なしといへども今日以後の變化に比すれば或は急劇と云はんより寧ろ緩慢の評を下

すを以て適當とするの時勢もあるべし盖し近來日本社會の有樣を察するに其日々夜々に變

化進歩する所の各事物の外に早晩社會の根底より撼搖して非常の變化と成すの力を備具せ

る種々事物の日緒に就き基礎を固うするありて日に世人の耳目に著しく兼て社會の現象に

注意するの兆候あるを認むるに至りたり鉄道擴張、内外人雜居、學問流行の類の如き皆是

れなり目下國内鉄道の組織は尚ほ甚だ不十分なりといへども日本鉄道會社の線路中東京よ

り仙臺に達するものも近來甚だ其工事を急ぎ宇都宮を經て黒磯に至るまでのものは既に數

日前に開通し白河までのものも來月中には必ず開通すべしといへば據竃仙臺より南に向て

進み來るものと白河より北に向て進み行くものと両端連續して東京仙臺間の鉄道全く落成

するの期日今より一年乃至一年半の外に出ざることならん又鉄道局の直轄する鉄道中信越

線路の如きは里程長からざるにも拘はらず地理の険難なると天時の利ならざるとを以て其

工事十分に迅速なる能はず東京と直江津とを聯絡するの期は今より尚ほ二年の後に在らん

との説あれども西南に轉じて東海道鉄道の方は東京名古屋京都大坂を聯絡する頗る重要の

線路たるの由縁もあるか鉄道局が心を用る所も別して厚く其工事は纔かに今年の夏に着手

したるものなれども爾来着々進歩して東京箱根間の線路の如きは無論來年の夏前に竣功す

べき見込のよしにて箱根以西名古屋に至るまでの間も沿道各所に用意忙はしく東海道鉄道

成り湖東鉄道成り東京大坂の間を通じ汽車にて相往來するを得るの日は今より凡そ二年乃

至二年半の内に在るべしといへり此外當時既に世の評判高き九州鉄道の如き大津四日市鉄

道の如き又は山陽鉄道の如き前記諸線を相前後して彌よ其工を成すの日に至らば日本の社

會は政治上に商賣上に又一般の社交上に非常の變化を惹起すべきや明白なり又彼の内外人

雜居の事の如きも時勢日に益切迫して此上永く猶豫を許すべしとも思はれず或は案外に早

くして今よ里二三年を出でざる内に正しく其事を見ることなしとも斷言志得ざる事情の在

るもあらん假令へ或は公然雜居を許すの沙汰なしとするも鉄道の行く所は即ち外國人の行

く所にして法律規則の如何を問はず事の實際に於てこれを拒むの工風あるべからず畢竟人

力の及ぶべからざる事柄なればなり果して然らば公許の沙汰の有無に關せず時勢の既に然

らしむ所日本全國内外人雜居は早晩必有の事なりと覺悟すべきは甚だ至當の事にしてさて

雜居後の社會の有樣如何と按ずるに政治上に商賣上に又一般の社交上に容易ならざる變動

を見るべきは是れ亦誠に明白至極の事なるが如し或は事と品とによりては鉄道よりも雜居

の方却て洪大の變化を起すべきやも知るべからざるなり次ぎに又近來全國都鄙貧富の別な

く學問の流行最も甚だしく世情を解せざる人の眼を以て見れば寧ろ狂氣の沙汰とせんかと

思はるゝまでなり而して此學問たる二三十年前の日本人がなせし如く支那の儒書を讀んで

孔孟の道を講するにはあらずして當代文明の本塲たる歐米諸國の書を讀んで文明の學科を

學び文明の思想を養ひ或は直ちに歐米に渡航して文明社會の事を講習するものなるがゆゑ

に其學問の成跡は古の所謂學問の成跡とは全く其有樣を異にするは當然の事なり今の日本

人が斯る熱心を以て文明流の學問に從事し政治に商賣に百工技藝に又一般の社交人事に其

新たに得たる所の知識思想を以て漸くこれを社會の實事に施し自から事の局面に當たる者

の日に増加するに從て社會の有樣は次第に變化し次第に變化の歩を速かにし早晩全く古流

の事物を一掃して遂に文明流の天下を成すに至らざれば止まざる事甚だ明白なり學問を勉

めて新たに知識思想を養ひこれを人事の實際に施すに至るまでは餘程時日の長きを要し甚

だ程遠き事にして柿の核を蒔いて柿の木を育て柿の實のなるを待つと一般中々急の事には

あらずとて今の學問の流行に格別重きを置かざる人もあらんかなれども其實學問の結果は

存外速かに世事に現はるゝものにして决して左程待遠きものにあらず彼れ是れ事例に照し

てこれを證するに及ばず唯單に今年十五歳の童子は今より二十年にして三十五歳の有爲屈

強の男となり今年四十五歳分別盛りの大人は二十年の後六十五歳の老翁となり最早繁劇の

世事に堪へざる一事を思へば時代の變化の速なる百事すべて明白なるべし況んや人間の死

生年齢は日々の變化にして必ずしも二十年の永きを待て初めて一たび變ずるものにあらざ

るに於てをや以上略記する如く今後日本社會の有樣を變すべきの事物二三にして足らず若

しも此等の事物にして同時に其働きを逞ふせんには其勢力必ず當たるべからずして其結果

必ず人の豫想外なるものあらん我々日本人は今日今後此變化無量の世に處するものなれば

銘々十分に我身の上を考へて覺悟を怠らず一旦生涯を過つて後悔するが如き事なきやう平

常の心掛け肝要なるべし